第88話:魔王、欲望を数える
ギルド本部のロビーは、もはや待合室ではなかった。世界規模の“配信スタジオ”と化していた。
壁の大型モニターも、受付端末も、ハンターたちのスマホも、すべてが同じ女を映している。
羊の角を持つ妖艶な女性アバター——アスモちゃん。
その笑顔は軽い。
だが、彼女の背後に揺らめく黒い気配だけは、冗談では済まされない“魔王”そのものだった。
『さあ——もっと、欲しがって?』
甘く囁く声に合わせるように、画面の右上で数値が跳ね上がる。
【欲望累積値 1億7324万】
ざわ、とロビーの空気が揺れた。
『あ、その数字気になる?これねぇ、リスナーちゃんたちの“欲”の合計だよ♡』
「欲の合計……?」
『そう。見たい、欲しい、触れたい、愛されたい……そういうの全部まとめて、分かりやすく数値化してみたよ♡』
アスモちゃんは楽しそうに指先で空中をなぞる。
それに合わせるように、画面の端の数値がぴくりと揺れた。
『ちなみにね〜欲が強ければ強いほど、数字も大きくなるんだよ♡』
「……待て、人数じゃないのか?」
『違うよ〜?だって欲って、人によって重さ違うでしょ♡』
欲望の形は、人それぞれ違う。
見たい。
知りたい。
触れたい。
愛されたい。
認められたい。
そんな小さな衝動の一つ一つが、色欲の魔王の声に煽られ、増幅されていく。
天音は胸元を押さえながら顔をしかめた。
「だめです……これ、ただ気分が悪いだけじゃない……」
一方、榊原はなぜか興奮しながらノート端末をずっといじっていた。
「ふおおお!!物理的にネットワークを切ってるはずなのに、接続判定だけが残ってる……!不思議です、何しても概念レベルで“繋がってること”にされてしまう……!」
『お主相変わらずじゃな……魔王の権能は世界の理の一部を書き換える力じゃ』
アラームが榊原に呆れながらも言う。
『だから、当然ただのジャックではない……理そのものが侵食されておるのじゃ』
その説明と同時に、ロビーの端で誰かが小さく悲鳴を上げた。
「う、うわっ!?」
一人の女性ハンターのスマホ画面に映っていた自分のプロフィール画像が、勝手に書き換わっていたのだ。
いつもの写真ではない。
見知らぬ、どこか理想化された自分の顔。“こう見られたい”と、心のどこかで願っていた顔。
「な、なんですかこれ!?」
「私、こんなの設定してません!」
「おい、待て!こっちは声が変だ!」
ロビーのあちこちで混乱が広がっていく。
男の声が女のように。
女のアイコンが男のように。
だが、どちらでもない。
曖昧で、境界がなく、見せたい自分だけが浮き彫りにされた歪な姿。
まるで、心の奥に隠していた欲望を形にされたように。
『ふふっそれは私の第三権能……無差別愛だよ〜いいでしょ♡』
アスモちゃんはそれを見て嬉しそうに笑った。
『だってさ、自分のこと、本当は違うふうに見られたいって思うこと、あるでしょ?男とか女とか、表とか裏とか、そういうの面倒じゃない?』
軽く首を傾げる。
『だからこれはね……“私とあなたは同じ”という、狂信的な結論を強制する力♡』
その言葉と同時に、また数値が跳ねる。
【欲望累積値 3億5411万】
ポメ様が険しい顔になる。
『……現代との相性が良すぎるな。見られたい、別の自分になりたい……そうした欲が、最初から世界に満ちている』
ベルフェはソファの背にもたれたまま、だるそうに息を吐いた。
「……このままにするわけにはいかないな」
天音が顔を上げる。
「なにか方法があるんですか?」
ベルフェはモニターを見たまま言った。
「……一応ある。蒼真を呼べ」
『任せろ』
ポメ様が胸を張った。
『ワンッ!ワンッ!!』
狼……いや、犬の鳴き声がロビーに響いた。
天音は一瞬きょとんとして、内心で思った。
(……やっぱりワンちゃんだ)
その直後だった。
「す、すみません、通してください!」
人混みの向こうから声が響く。
蒼真だった。
すでにロビーの異常に気づき、こちらへ向かってきていたのだ。
ハンターたちの間をかき分けながら、息を切らして走ってくる。
「何が起きてるんですか!?」
ベルフェはソファにもたれたまま答えた。
「色欲の魔王だ」
「……見れば分かります」
「止めるぞ」
「どうやって?」
ベルフェは画面を顎で指した。
「あいつがいる仮想空間に入る」
蒼真だけでなく周りも固まった。
「……はい?」
天音も同時に声を上げた。
「ええええ!?そんなことできるんですか!?」
ベルフェは面倒そうに言った。
「お前ならできるだろ」
「は?」
「憤怒の魔王の権能だ」
蒼真が一瞬、言葉を失う。
ポメ様がなるほどなと鼻を鳴らした。
『第一権能の逆鱗探査。それは精神を煽り、暴き、侵食する力だ』
そして、少し得意げに続ける。
『……つまり憤怒の理は精神に干渉する。ならばネット媒体の精神領域にも届く』
天音がぽかんと口を開ける。
「そ、そんな理屈なんですか……!?」
『魔王の権能とはそういうものだ』
ポメ様がドヤ顔で言った。
蒼真はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと息を吐く。
「……なるほど」
榊原のノートパソコンをちらりと見る。
「つまり、あの配信の中に——殴り込みをかけるってことですね」
ベルフェは小さく頷いた。
「そうだ。行ってこい」
「僕がですか!?」
「俺は面倒だからな」
即答だった。
蒼真は頭を抱えかけたが、すぐに苦笑する。
「……まあ、そうですよね」
榊原のノートパソコンの前に座る。
画面には、いまだアスモちゃんの笑顔が映っていた。
『あれぇ?』
モニターの向こうで、アスモちゃんが小さく首を傾げる。
『なんか今、面白い気配したけど』
蒼真は深く息を吸った。
「……では、行ってきます」
次の瞬間。
蒼真の髪が金髪になり、瞳の奥で雷のような光が走る。
「第一権能——逆鱗探査」
怒りの理が、ネットワークの海へと叩き込まれた。




