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第87話:魔王、色欲の境界を見る


 世界規模の“配信”が、突然始まった。

 

 しかも——誰も配信ボタンなど押していない。


 ギルド本部のロビーにいた者たちは、誰もが目の前の画面を見上げたまま固まっていた。

 受付端末も、待合モニターも、ハンターたちのスマホも、すべて同じ映像に塗り潰されている。


 羊の角を生やした妖艶な女性アバター。

 にこにこと営業スマイルを浮かべながら、彼女は世界中へ向けて軽やかに手を振る。


『ふふ……君たちのことが好きすぎて、我慢できなくて全画面表示フルスクリーンで来ちゃった♡』


 その声は妙に甘く、耳に心地よい。

 だが、聞いているだけで背筋にぞわりとしたものが走った。


 ロビーのざわめきが、一拍遅れて爆発した。


「色欲の……魔王!?」

「なんで全端末が乗っ取られてるんだ!?」

「ギルドの回線まで!?」

「遮断しろ、早く!!」


 受付職員が慌てて端末を叩く。

 だが、どの画面もまるで聞く耳を持たない。

 操作を受け付けるどころか、アスモちゃんのアバターはむしろ楽しそうに笑みを深めた。


『……あれはなんなのじゃ?』


 アラームがぽかんと口を開ける。

 ベルフェは画面を見たまま、ふと隣へ視線を向けた。


「……おい、黒門の気配は?」


 短い問いだった。だが、その意味を理解した瞬間、アラームの瞳が見開かれる。


『……ないのじゃ』


「は?」


『な、ないのじゃ!』


 アラームは慌てたように周囲を見回した。


『妾が気づかぬはずがないのじゃ!黒門の理の揺らぎも、境界の歪みも……何も感じなかったのじゃ!』


 ロビーの空気が、わずかに張り詰める。

 ポメ様が低く唸った。


『……なるほど。あいつの権能で境界を誤魔化してるようだな』


 天音が息を呑む。


「権能で境界を……?」


 ポメ様の目が、モニターの向こうを射抜く。


『第二権能……現夢境界トワイライト・レイヤー。こちらと向こうの境目を曖昧にする力だ。つまり——』


 ベルフェが淡々と続けた。


「門を開いたんじゃない。最初からそこにいたことにされたってことか」

『……最悪なのじゃ。そんな侵入、気づけるわけがないのじゃ』


 アラームがぞわりと震えたその瞬間だった。


 モニターの中のアスモちゃんが、ゆっくりとこちらを見た。

 

『あはっ、バレちゃったぁ♡』


 モニター内にいる色欲の魔王の指先を唇に当てる仕草ひとつが、妙に様になっている。


『せっかく繋がったんだから、もう少しだけ私のお話、聞いていってよ』


 その瞬間だった。


 画面の隅に、見慣れない赤い数値が浮かび上がる。


【欲望累積値 0.8%】


「……これはなんでしょうか?」


 ノートパソコンを覗き込んでいた榊原が、眼鏡をくいっと押し上げた。

 次の瞬間、数字がぴくりと跳ねた。


【欲望累積値 10.2%】


『あっ、いいねぇ♡』


 アスモちゃんがうっとりと目を細める。


『見てる見てる。困ってる。戸惑ってる。気になって仕方ないって顔、すっごく可愛い♡』


 ベルフェはソファに沈んだまま、面倒そうに画面を見ている。

 天音は顔を強張らせ、アラームはテーブルの上でぴたりと固まっていた。


『な、なんなのじゃ、あやつ……以前よりだいぶ規模が大きいのじゃが!?』


「それくらいあいつの権能が現代と“合っている”んだろう」


 ベルフェがぼそりと呟く。

 その間にも、画面の向こうのアスモちゃんは一人で盛り上がっていた。


『いやあ、現代ってほんと最高だよねぇ♡昔は王様一人、国一つを落とすだけでも、色々段取りが必要だったのに』


 くすくすと笑う。


『今はボタンひとつで世界中が繋がるんだもん。しかもみーんな、自分から画面を見てくれる。便利すぎて泣けちゃう♡』


 数字が跳ね上がる。


【欲望累積値 39.4%】


 ロビーの一角で、若いハンターがふらりとスマホへ手を伸ばした。


「……なあ、なんかこの配信、見てると続き気にならないか?」

「お、おい、やめろ!」

「でもちょっとだけなら……」


 天音がはっとする。


「まずいです……!」


 彼女の視線の先で、別のハンターまで端末に顔を近づけていた。まるで“もっと見たい”とでも思わされているかのように。


 アスモちゃんは満足そうに、天を仰ぐようなポーズを取った。


『あぁあああ、これこれぇぇ……!』


 ぱちん、と背景にハート形のエフェクトが弾ける。


『見られて、欲しがられて、求められて……ああ、最高の気分♡』


 その表情が、一瞬だけ歪んだ。

 可愛らしいアバターの顔の向こうに、別の何かが透ける。

 羊の角よりも禍々しく、瞳はどろりと濁り、口元には人ならざる裂け目の気配が浮かんだ。


 天音が息を呑む。


「いま……」

『あれ、ただのアバターではないのじゃ!黒門の気配が混ざっておる!』


 榊原が目を剥く。


「な、なんですって!?つまりこの配信、ただの映像じゃないんですか!?」

『映像に見せかけた侵略じゃ』


 ポメ様が低く唸る。


『画面を通して世界へ“理”を流し込んでいるのだ』


 その答えに、周囲のハンターたちの顔が青ざめた。

 アスモちゃんはそんな反応すら楽しむように、ころころと笑う。


『そうそう♡みんな、境界って意外と曖昧なんだよ? 現実と画面。自分と他人。好きと執着。そういうのって、ちょーっと混ぜてあげるだけで簡単に溶けちゃうの』

 

 ロビーの空気が、目に見えない熱を帯びはじめる。

 ざわつき。焦燥。苛立ち。好奇心。

 あらゆる感情が、同じ方向へと引っ張られていく。


 天音が胸元に手を当てた。


「嫌な感じです……心が、ざわざわする……」

「そりゃそうだろ」


 ベルフェが大きなあくびを噛み殺す。


「あれは色欲だ。欲を煽るのが本職だぞ」


 その言葉に、受付前のモニターに映る数値がまた一気に伸びる。


【欲望累積値 88.9%】


 同時に、ギルド本部全体へ緊急アナウンスが流れた。


【警告、全ネットワーク異常。都市インフラとの接続に障害を確認。信号機制御系統、交通系統、電子決済系統に連鎖エラー発生——】


 ロビーが騒然となる。


「街のインフラまで!?」

「冗談だろ!?」

「本当に世界規模じゃないか……!」


 アスモちゃんが満面の笑みで手を叩く。


『その顔、その顔♡あーもう、たまんない!困ってる顔ってなんでこんなに可愛いんだろ♡』


 彼女の背後に、無数のコメント欄のような文字列が浮かび上がる。

 それは画面演出ではない。

 まるで世界中の“欲”そのものが、可視化されているかのようだった。


 ポメ様が低く言う。


『まずいな……早すぎる。環境適応型とは聞いておったが、ここまでとは……』


 ベルフェはようやく体を少し起こし、目を細めた。


「欲望を燃料にする魔王が、欲望を数値化して回してる世界に出てきたんだ」


 ロビーのモニターにまた数値が走る。


【欲望累積値 1億突破】


 一同が絶句した。


「億!?」

「意味が分からないんですが!?」

「一億って何の数字だよ!?」


 アスモちゃんは、恍惚に頬を染めて天へ顔を向ける。画面越しなのに、その熱が伝わってくるようだった。


 そして彼女は、笑いながら世界中へ向けて優しく囁く。


『あははは!!!さあ、もっと……欲しがって?』


 その声と同時に、ロビーの照明が一斉にちらついた。色欲の理が、現代を塗り替えようとしていた。

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