第7話: 魔王、平和を満喫する
——魔王が東京に現れてから、ひと月が過ぎた。
意外なことに、あの“黒門&緑門事件”以来、新たなダンジョンの出現報告は一件もなかった。
不気味なほどの静けさ。
まるで“嵐の前の平穏”のように——いや、実際ただの平和だった。
世界は、今のところ。
◇
教国アルメシア・本庁聖堂にて。
聖女・白崎天音は、密封された電子文書を読み終え、深く息をついた。
「……やっぱり、そうだったんですね」
文書にはこう記されていた。
——「怠惰の魔王の魔力波形は、大英雄のものと一致」。
まだ“確定”ではない。
だが、濃厚。教国上層部はこの情報を極秘扱いにしていた。
「確証が出るまで、世間には伏せる……ですか」
納得はできる。
神の名が関わる以上、下手な発表は混乱を招く。
けれど天音の胸の奥では、最初に彼と対面した時の“あの直感”が確信に変わっていた。
(やっぱり、あの方は……。千年前、人類を救った“大英雄”に間違いない)
神託ではただ「七つの魔王が顕現する」としか言われていない。
——だが、その全員が“敵”だということも言っていなかった。
そして、あの怠惰の魔王には——敵意のかけらもなかった。
◇
一方その頃、当の魔王はというと——
リビングのソファに、いつものように寝転がっていた。
テレビ。
ポテトチップ。
十個のクッション。
そして、最近は尻尾を“第三の手”として使うまでに進化していた。
「……便利だな、これ」
尻尾でリモコンをつまみ、チャンネルを変える。
尻尾でティーカップを持ち上げ、尻尾でお菓子袋を開ける。
完璧な怠惰のシステムがそこにあった。
だが——ベルフェの瞳は、ただテレビに流されているわけではなかった。
「……この世界、情報量は千年前の比じゃないな。“理”の扱いも、随分と洗練されたものだ」
小さく呟く声は、怠惰とは思えない冷静さを帯びている。
「ただ……危機への備えは、むしろ薄くなっている。面倒だが……そろそろ自分の“力”の状態を確認しておかないと、いざという時に困るか」
テレビを尻尾でぽちりと消す。
その所作すら、妙に合理的だった。
監視カメラの映像をチェックしていたハンターが小声で呟く。
「……この人、情報収集能力おかしくない?」
「ニュースの見方が、完全に軍司令官なんよ……」
「いやでも尻尾器用すぎて全部台無しだわ」
◇
「魔王様、馴染んできましたか?」
天音が訪ねると、ベルフェはいつものようにソファから動かずに返した。
「……あぁ。この世は便利なものが多くて良い」
「便利……?」
「とくに“洗濯機”と“冷蔵庫”が素晴らしいな」
体を起こし、ふと笑う。
「俺がいた頃は、服を川で洗って干してた。食材は地下で保存してたから、夏場はよく腐らせてな」
その笑みは、まるで昔を懐かしむような、柔らかい表情だった。
天音は息を呑んだ。
(あぁっ……!尊い……!尊い笑みです神様!)
目を細め、両手を胸の前で組む。
思わず祈りの姿勢になっていることにも気づかない。
「……ん?何してる」
「いえ、光の加減が……神々しいだけです!」
「……そうか」
淡々と返す魔王。
聖女の理性は、今日もギリギリで保たれていた。
その時、彼がふいに呟いた。
「……近くにさくっと攻略できるダンジョンはないか?」
「えっ?」
ソファからのその言葉に、天音も監視ハンターたちも一瞬固まる。
「ま、魔王が……自ら攻略って言ったぞ!?」
「“怠惰”の名を冠しておきながら、能動的すぎる……!」
天音は慌てて前に出た。
「ま、待ってください!本気で行くつもりなんですか!?」
「あぁ。力がどこまで使えるか、試しておきたい」
「試すって、また街中で道路を鍛え直すつもりじゃ……」
「……今回は……うまくやる」
“うまくやる”の方が逆に不安だった。
◇
準備を始めるベルフェ。
……が、彼が最初に手に取ったのはソファの上のクッションだった。
しかも二つ。両手に抱え、当然のように玄関へ向かう。
「……え? そのクッション、持っていくんですか?」
「ああ。面倒になったとき、すぐ寝られるようにな」
(……最小の力で最大を成すには、まず“心の安寧”からだ)
静かな内心とともに。
ベルフェは堂々とした足取りでクッションを抱えたまま進む。
「いや、あの……それ戦場に持ってく装備じゃ……」
「俺にとっては最重要装備だ」
監視ハンターたちが小声でざわめく。
「あの人……防具よりクッション優先なんだ……」
「いや、むしろ一番“怠惰の魔王”らしい装備だよ」
◇
天音は額を押さえ、苦笑を浮かべる。
「……分かりました。訓練区を手配します。でも……くれぐれも、街を鍛え直さないでくださいね?」
「善処する」
その言葉が逆に恐怖だった。
リビングの隅では、監視ハンターたちが走り回っていた。
「各班! 訓練区を急ぎ封鎖!“怠惰の魔王”、二個のクッションとともに出撃!」
「なんかその言い方だけで平和そうに聞こえるの俺だけ?」




