第74話:魔王、変わらないものを見る
病院の廊下は、相変わらず静かだった。
消毒薬の匂いと、規則正しい足音。
世界がどれほど歪もうと、ここだけは取り残されたように、同じ時間が流れている。
瀬名蒼真は、病室のベッド脇に立っていた。
そこに眠っているのは、妹——瀬名明希。
白いシーツに包まれたまま目を閉じ、呼吸だけが静かに続いている。
天音とアラームは、見舞いという形で同行していたが、言葉は少なかった。
何を言っても、現実は変わらないと、誰もが分かっている。
蒼真自身の体調は、明らかによくなっていた。
休息を覚え、無理をしなくなったことで、あの慢性的な疲労も頭痛も、影を潜めている。
——それでも。
ベッドの上の明希は、まだ目を覚まさない。
(……簡単には、いかないよな)
世界の理を引き継いでも。
魔王と相対しても。
現実は、いつだって一歩遅い。
蒼真は、そっと息を吐いた。
病室の隅のソファは、空いていた。
今日は、あの男はいない。
珍しいことではない。あの男は、必要なときにしか現れない。
蒼真は、ふと自分の前髪に触れる。
黒髪。そして、目元を隠す長さ。
「……こっちの方が、落ち着くんです」
そう言って、少しだけ笑った。
以前と同じ見た目。
けれど、表情は違っていた。
張り詰めていたものが、どこか緩んでいる。
そのとき、アラームが首を傾げた。
『そういえばのう、あのポメラニアン……サタンは、どこにおるんじゃ?』
「……え?」
蒼真が振り返るより早く。
『ここだ!!』
甲高い声が、病室に響いた。
見ると、蒼真の背後。
病室のキャビネットの上に置かれたぬいぐるみの間に——いた。
丸い。ふわふわ。首には、なぜか赤いリボン。
ポメラニアンのような見た目をした、小さな狼が、ぷるぷると震えている。
『だからポメラニアンではない!!我は狼だと言っているだろう!!』
必死の主張。
だが、その姿はどう見ても——可愛い。
『ぎゃはははははは!!』
次の瞬間、アラームが腹を抱えて笑い出した。
『サタンともあろう者が、リボンなんぞ付けおって!なんじゃその丸さ!威厳はどこへ行った!』
『やめろ!!笑うな!!これは……これは不可抗力だ!!』
サタンは吠えるが、声も体も小さい。
威圧感は、微塵もなかった。
「……」
蒼真は、その様子を見て——小さく、息を漏らした。
サタンの名前は、ここでは使われていない。
「……ポメ様、静かにして」
『なぜその名前になった!?せめて……サタン様だろう!?』
「それだと世間的に問題があるから」
真顔で返され、サタンは言葉を失った。
なお、あだ名が「ポメ様」になったのは、蒼真なりの——せめてもの威厳を残した結果らしい。
そう説明されたとき、サタンがさらにキレたのは、また別の話である。
病室には、久しぶりに笑い声があった。
眠り続ける明希の横で。変わらない現実の中で。
それでも、確かに——少しだけ、空気は柔らいでいた。
笑い声が少しずつ落ち着いたあと、病室には、また静けさが戻ってきた。
蒼真は、ベッドに横たわる妹の顔を見つめたまま、ぽつりと口を開く。
「……妹が、こうなったのは」
誰に向けた言葉でもない。
説明というより、事実を並べるような声だった。
「僕が、ハンターになって……最初に挑んだダンジョンが、黄門だったんです」
天音が、わずかに息を呑む。
黄門。
初心者向けとされながらも、油断すれば死人が出る——中途半端に危険な門。
「……結果は、失敗でした」
蒼真は、淡々と続ける。
「判断が遅れました。引き返すべきタイミングを……見誤った」
そして。
「ブレイクが、起きました」
その言葉が、病室の空気を少しだけ重くした。
ダンジョンブレイク。
門の制御が崩れ、魔物が外へ溢れ出す、最悪の事態。
「妹は……」
一瞬、言葉が詰まる。
だが、蒼真は視線を逸らさなかった。
「心配で、門の近くにいたんです。帰ってこない僕を……待ってた」
ただ、それだけだった。
特別な理由はない。
兄を待っていただけ。
それが、最悪の選択になった。
「ブレイクした魔物に……襲われました」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「……命は、助かりました。医者も……奇跡だって言ってました」
蒼真は、小さく笑う。
「でも……それだけです」
目覚めない。呼びかけても、反応はない。
生きているけれど、そこから先へは進めない。
「だから……」
蒼真は、ベッドの縁にそっと手を置いた。
「僕は、強くならなきゃいけなかった」
後悔を、言葉にしない。
自分を責めることもしない。
ただ、そうでなければならなかった、と言うだけ。
「……でも最近、やっと分かったんです」
そこで、一拍。静かに、息を吸う。
「強くなることと……壊れ続けることは、同じじゃない」
天音は、その横顔を見つめていた。
アラームも、珍しく茶化さず、黙っている。
蒼真は、明希の眠る顔に、もう一度視線を戻した。
「……だから、今は待ちます」
言葉を選びながら、続ける。
急がないし、無理をしない。
「目を覚ますまで……ちゃんと、生きながら」
それは、決意というより——受け入れだった。
現実は、簡単には変わらない。
けれど、逃げずに向き合うことはできる。
病室のカーテンが、微かに揺れる。
変わらない眠りの中で。
それでも、確かに——時間は、進んでいた。




