第73話:魔王、帰還する
赤門の前。
撤退したハンターたちは、誰一人としてその場を離れずにいた。
装備を整え直しながらも、視線は何度も赤門へと戻る。不安を押し殺した表情。それでも、祈るように門を見つめる姿が、あちこちにあった。
「……中、どうなってるんだ……」
「魔王様が入ったんだ、大丈夫だとは思うが……」
誰もが、確信を持てずにいた。
そのときだった。
——ゴゥン……ッ!
低く、重い音が鳴り響く。
「……っ!?」
全員の視線が、一斉に赤門へ向く。
歪んでいた赤が、ゆっくりと色を変えていく。
荒れていた理が沈静化し、暴力的な気配が嘘のように薄れていく。
やがて——
「……青門?」
誰かが、呆然と呟いた。
赤門は、完全に姿を変えていた。
安定した理を示す、澄んだ青色の門。
その門は、もう災厄の色をしていなかった。
そして青門の奥が、静かに開く。
最初に姿を現したのは、スウェット姿の男だった。
「……魔王様!」
怠惰の魔王、ベルフェ。
そのすぐ後ろから——白ではない、金色の髪を揺らして、瀬名蒼真が姿を現す。
「あ……」
その腕の中には、丸いふわふわとした毛並みの、小さな狼。
「……?」
「……え?」
一瞬、全員が言葉を失った。
次の瞬間。
「瀬名!」
「無事だったのか!?」
「怪我は——」
安堵が一気に溢れ、ハンターたちが駆け寄る。
「……それ、なんだ?」
「魔物……だよな?」
「……触っていい?」
その言葉に反応したのは、蒼真より先だった。
腕の中の小さな狼が、ぴくりと動く。
——バチッ。
ほんの微かな静電気が、空気を裂く。
ふわふわの毛並みの奥で、雷が一瞬だけ瞬いた。
「……っ」
無言の圧。
近づこうとしていたハンターが、反射的に足を止める。
「……あ、これダメなやつだ」
「触ったら死ぬやつだな……」
狼は、じっとこちらを見返す。
丸い目には、警告がはっきりと宿っていた。
——我に触るな。
蒼真は、その様子を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「……あは」
意識したわけでも、取り繕ったわけでもない。
ただ、思わず零れた。自然に、口元が緩んでいた。
「……ありがとう」
ハンターたちを見回し、静かに続ける。
「ベルフェさんのおかげで……僕は、無事だよ」
その言葉と一緒に浮かんだ笑みは、穏やかで、柔らかくて、どこか照れくさそうなものだった。
一瞬、空気が止まる。
「……」
「……え?」
そして。
「……今の、見たか?」
「瀬名……笑ってたぞ……?」
「初めてじゃないか……?」
次の瞬間、ざわりと場が揺れる。
「おい、記念だろ!」
「誰か写真——」
「いや、今はやめとけ!本人困ってる!」
「ちょ、ちょっと……!」
蒼真は慌てて目を逸らす。
腕の中で、小さな狼が満足そうに丸くなり、再び“触るな”とばかりに静電気を散らした。
◇
少し離れた場所で、その様子を見ていた天音が、意を決したように一歩前に出た。
駆け寄る、というほど勢いはない。
けれど、逃げもしない。
気まずそうに視線を泳がせながら、それでもベルフェの前に立つ。
「……その、魔王様……」
呼びかける声は、わずかに硬い。
赤門の中で何が起きていたのか。
自分が入れなかった理由。それらを思えば、無理もなかった。
ベルフェは、そんな天音を見下ろす。いつものように、面倒そうに。……けれど、今回はそこで終わらなかった。
「お前は、そのままでいい」
淡々とした声だった。
だが、突き放す響きではない。
天音が、きょとんと目を瞬かせる。
「……え?」
ベルフェは視線を逸らし、少しだけ顎を上げた。
「変に気を遣うな。俺を……人間にさせてくれるのは、お前だけだろう」
一瞬、音が消えた。
天音は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
怠惰の魔王。
そんな存在から出てくる言葉では、なかったからだ。
「……私、が……?」
問い返す声が、かすれる。
ベルフェは、短く頷いた。
「そうだ」
理由は語らない。
説明もしない。
だが、それで十分だった。
天音は、しばらく黙り込んだまま、ベルフェを見上げていた。そして、ふっと肩の力を抜く。
「……じゃあ……」
小さく、息を吸って。
「いつも通りで、いいんですね」
ベルフェは、ほんの一瞬だけ——目を細めた。
「ああ」
それだけだった。
けれど、その一言には、魔王としてではなく、“ベルフェ”としての肯定が、確かに込められていた。
そのとき、少し遅れて合流してきたアラームが、愉快そうに目を細めた。
『にしても——』
蒼真と天音、ベルフェを見比べて、くつくつと喉を鳴らす。
『こやつはのう。赤門の前で、ずっとグルグルと周っておったぞ』
間。
『入りもせず、離れもせず。腕を組んでは立ち止まり、また歩き出して……実に落ち着きがなかった』
「……っ!」
天音の肩が、びくりと跳ねる。
「そ、それは……言わないでください……!」
顔を赤くして抗議する天音をよそに、ベルフェは特に気にした様子もなく、短く返した。
「……そうか」
そして歩き出そうとして、ふと立ち止まる。
ベルフェは、わずかに振り向いた。
視線の先には、ハンターたちに囲まれている瀬名蒼真の姿がある。心配され、声を掛けられ、少し困ったように応じながらも——その表情は、穏やかだった。
吹っ切れた顔。
そこには、恐怖も。怒りも。後悔も。
……もう、残っていない。
ただ、前を向いて立っている“人”の顔があった。
それで、よかった。
ベルフェは、純粋にそう思った。
もう一度、前を向く。
「……帰るぞ」
それだけ言って、歩き出す。
青門の前。かつて赤門だった場所。
憤怒は終わり、理は引き継がれ、それぞれが、少しだけ軽くなって帰路につく。
青門が、静かに閉じた。
——こうして、一つの怒りが、静かに形を変えた。




