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第71話:魔王、深淵を覗く


 ——暗転。


 サタンの視界から、色が消えた。


 空も、大地も、雷光もない。

 上下の感覚すら失われた完全な闇。


 そこには何もなかった。


 炎もない。

 怒りもない。

 憎悪すら、存在しない。


『……?』


 一瞬、サタンは判断を誤った。


(これは……本当にあの久禮なのか?)


 あれほど形を成していたはずの憤怒の残滓が、どこにも見当たらない。

 あるのは、底が知れぬほど深い“空白”だけだった。


『……何も、ない……?』


 そのとき。


 ぞくり、と。理の根元がきしむような感覚が走った。


 世界の外側から、こちらを“見られている” ——

 そんな錯覚では済まされない、明確な異常。


 存在律が違う。これは精神ではない。

 器でも、記憶でもない。


 ——在るだけで、世界を拒絶する何か。


 サタンの背に、冷たいものが走る。


(……これは……覗いていいものではない……)


 その瞬間。上から、声が落ちてきた。


『……眠いから、去れ』


 低く掠れた声。怒りも威圧もなく、ただ純粋な“面倒”だけが込められていた。


 サタンは、反射的に視線を上げる。


 闇の上方で、巨大な“何か”が、ゆっくりと存在を主張し始める。


 一つ目。


 あまりにも大きく、開ききる前ですら、深淵そのものを覆い尽くすような瞳。


 まるで、虫でも見るかのように。


 あるいは、夢の途中で邪魔をされた何かを見るように。


 その目が、半分だけ——見開かれた。


 それだけで。


 サタンの思考が凍りつき、同時に雷が逆流した。

 逆鱗探査レイジ・スキャンが、強制的に解除される。


 逃げた。


 それを、本人が一番理解していた。


 現実に引き戻された赤門ダンジョンの中で、サタンは荒く息をつく。雷光は消え、先ほどまでの狂気は影を潜めていた。


 一方で、ベルフェはというと——


「……?」


 少し首を傾げ、きょとんとした顔をしていた。


「今、なにかしたか?」


 その一言に、サタンの表情が引きつる。


『……貴様……』


 声が、かすれた。


『なぜ……なぜ、アレの“理”を背負うことができている……!?』


 怯え。恐怖。

 そして、理解不能なものを前にした生理的嫌悪。


 サタンは、ベルフェを見る目を完全に変えていた。

 それは敵を見る目ではない。……化け物を見る目だった。


 ベルフェは、眉をひそめる。


「知らねえよ。アレだのなんだの……正直どうでもいい」


 ちらりと、白髪の青年——瀬名蒼真の方を見る。


「それより……そろそろ、そいつの身体が限界だ。終わらせよう」


 淡々とした声で指を、軽く鳴らす。


 ——パチン。


「久しぶりにまとめて使うか……惰材変質マテリアル・シフト無為鍛成アーク・フォージ


 気怠げに、名前を呼ぶ。

 その瞬間、空間が“組み替えられた”。


 サタンは反射的に身構える。

 だが、次の光景を見て——言葉を失う。


 そこに現れたのは“巨大なベッド”だった。


『…………???』


 柔らかそうな白いシーツ。

 深く沈み込むマットレス。

 戦場には、あまりにも場違いな“休息の象徴”。


 サタンは理解が追いつかなかった。


『……な、なんだそれは?』


 だが、ベルフェは興味なさそうに言った。


「お前は、自分で休むことを……覚えたほうがいい」


 その言葉が、引き金だった。

 サタンの身体が、ぴくりと震える。


『……っ!?』


 意思とは無関係に、足が動く。

 一歩。また一歩。


『やめろ!これは、我の意思では——』


 抵抗する声とは裏腹に、身体はベッドへと近づき、そして倒れ込むように……沈んだ。


『なぜ……なぜ我が、このような……!?』


 サタンの思考が、鈍っていく。

 ベルフェは、スウェットのポケットに手を突っ込んだまま、静かに告げる。


「俺の無為鍛成アーク・フォージはな……理の“破壊”ではない……修復する力だ」


『……!?』


 その瞬間。

 白髪の青年の身体から、力が抜けていった。


 雷の光輪が、静かに消える。

 荒れていた空気が、嘘のように落ち着いていく。


 そして。


 ベッドの上で、ゆっくりと——表情が、変わった。


『……なるほど」


 今度は、穏やかな声。


「……僕は、休んでいいんですね」


 その問いに、ベルフェはすぐには答えなかった。

 だが次の瞬間、いつもの投げやりな声音ではなく——どこか静かで、穏やかな声で口を開く。


「そうだ」


 短い肯定。


「まずは、自分を救え」


 ベルフェは、ベッドに横たわる蒼真を見下ろしながら続ける。


「それができれば……できることは、自然と増える」


 説教でも命令でもない。

 ただ、当たり前の事実を告げるような口調だった。


 蒼真は、その言葉を反芻するように、ゆっくりと目を閉じる。


 柔らかい。温かい。

 身体の力が、意識せずとも抜けていく。


(……休む、って……)


 今まで、知らなかった感覚だった。

 立ち止まることも、座り込むこともあった。

 だが“委ねる”ことは、なかった。


 守れなかった記憶。

 間に合わなかった後悔。

 強くならなければならないという焦り。


 それらすべてを抱えたまま、眠ることなど許されないと、どこかで思い込んでいた。


 ……なのに、今は何も考えなくていい。


 そう理解した瞬間だった。


「……本当にありがとうございます」


 視界の端が、滲んできた理由が、分からなかった。


 悲しいわけじゃない。

 怖いわけでもない。


 それなのに、涙が止まらなかった。

 堰を切ったように。


 頬を伝い、シーツを濡らしていく。


(……なんで……)


 問いかける力すら、もう残っていなかった。


 ベルフェは、何も言わない。

 慰めもしない。

 涙を拭ってやることもない。


 ただ、その場に立ち、黙って見ていた。

 それで十分だと、知っているかのように。


 蒼真は、声を殺して泣いた。

 初めて、何も背負わずに。


 赤門ダンジョンの奥で。

 かつて憤怒の魔王が暴れ、理が歪んだ場所で。


 瀬名蒼真は——初めて、“休息”を知った。


 そして、その時間は、誰にも邪魔されることはなかった。

 

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