第62話:魔王、去り際に世界を整える
——あれから、数日後。
教国アルメシアは、最初こそ大混乱に陥った。
神像の崩壊。
大聖堂の半壊。
そして、大司教オルフェンの失脚。
本来なら、国が傾いてもおかしくない出来事の連続だったが、ベルフェが修復した“理”は、思いのほか強固だった。
信仰は崩れなかった。正確には——壊れた信仰は、そのまま修復され、自然に“今そこに在る神”へと向き直された。
まるで、上書きされたかのように。
人々は変わらずに祈りを捧げる。
それが昨日までとは微妙に違う対象であることに、深く疑問を抱く者はいなかった。
ダンジョンらしい、と言えばそれまでだった。
理が書き換われば、人の在り方も、それに従う。
世界というのは、案外そういうものなのかもしれない。
かつて大司教だったオルフェンは、すでに正気を取り戻していた。
現在は投獄され、自らの罪と向き合う日々を送っている。外から流れ込んだ悪意ある“上位存在”に影響されていたのは事実だろう。
だが。信仰するという選択をしたのは、彼自身だ。
被害者であると同時に、加害者でもある。
その事実だけは、誰にも覆せなかった。
一方でエルグランは、結局教皇の座に復帰した。
死んだと思われていた人物の帰還に、教国の者たちは驚き、ざわめき……そして、すぐにこう結論づけた。
「神の奇跡だ」と。
その受け入れの早さに、エルグラン自身が苦笑するほどだったが、それでも彼は、再び国を導くことを選んだ。
混乱の中で、必要だったのは正しさよりも——拠り所だったからだ。
天音は、その事実を後から知った。
自分が知らない間に、祖父が一度“死んでいた”という事実に、さすがに少しショックを受けたものの。
「……今、生きてるならいいです!」
最終的には、そう言って前を向いた。
そして、あの光景を見てから。
天音の《神託》は、以前よりもはっきりと形を持つようになっていた。
曖昧だった声が、輪郭を伴って届く。
それは力が増したというより——受け取り方が定まった、という感覚に近い。
未熟だったからこそ、受け入れが揺れていた。
今になって、天音はそれを理解し始めていた。
彼女の両親は、すでにこの世にいない。
だが、教国と現世——その血を半分ずつ引いている存在だった。
だからこそオルフェンによる“信仰という名の洗脳”に、完全には染まらなかったのだろう。
人と神、その境界に立つ存在。天音は、少しずつ自分の立ち位置を自覚し始めていた。
ちなみに、アドモンはすでに沖縄に帰っている。
『瑠波を待たせているので、私は先に帰ります』
そう言って教国を後にしたが、どうやらまた例の転移門を使ったらしい。
別れ際にアドモンはベルフェにだけ、こんな言葉を残している。
『あの神像……私が知っているものと、あまりにも乖離がありませんでした。あなたは、想像以上に“近く”にいたのですね』
元大天使らしい、静かな敬意のこもった声音だった。それを聞いたベルフェは、特に返事もせず。
「……そうかよ」
面倒そうに肩をすくめただけだった。
◇
しばらくの間、エルグランは国の修復対応に追われ、天音も聖女としての説明や混乱の収拾に駆り出されていた。
——にもかかわらず、その少し離れた回廊の一角で……
「魔王様!お水をお持ちしました♡」
「こちら、国産の果物です!今朝採れたばかりでして……!」
「お疲れでしょう?こちらのクッション、座り心地が良いですよ!」
やたらと甲斐甲斐しい声が飛び交っていた。
「……ああ、そこ置いとけ」
ベルフェは、長椅子に腰を下ろしたまま、だるそうに手を伸ばす。
水を受け取り、果物を一口かじり、差し出された上着を当然のように羽織る。
「……悪くないな」
ぼそり。その一言で、周囲の司祭たちの目がきらきらと輝いた。
「!!」
「お口に合いましたか!?」
「よ、よろしければ、他にも……!」
しかも不思議なことに、集まっているのは女性だけではない。若い神官も、年配の司祭も、なぜか皆、距離感が近い。
教国の美意識に、あまりにも“刺さりすぎている”のだ。
整った顔立ち。無駄のない所作。
静かで、感情を荒立てない態度。
——神の国が好む「理想像」そのものだった。
『……なんじゃこの光景は』
ベルフェの肩に巻きついたアラームが、じっとりした声を出した。
「知らねえ、勝手に集まってきてるだけだろ」
ベルフェは果物をもう一口。
『納得いかんのじゃ!!妾の方が可愛いし!長い付き合いじゃし!』
アラームが、ぎゅっと巻きつく力を強める。
「……意味わかんねえ」
一方その様子を少し離れた場所から見ていた天音は、思わず苦笑した。
「……なんで魔王様、あんなに馴染んでるんですかね」
「教国の価値観に、合いすぎているのでしょう」
エルグランが、静かに答える。
「神聖さと静謐を重んじる国ですから。“魔王”であることを除けば、理想的すぎます」
「除けてないですけどね!?」
天音が即座に突っ込む。
少しだが、この世界は救われた——最低限、必要な分だけ。
そして落ち着いた頃にベルフェ達は現世へ帰ることになった。ふとエルグランは、天音の前に立つ。
「……天音」
穏やかな声。
「教国は、あなたの故郷です」
一瞬、天音は言葉に詰まるが、教皇は優しく続けた。
「たとえ、外の世界で生きるとしても……帰る場所は、ここにもあります」
天音は、胸に手を当て、小さく頷いた。
「……はい」
「気をつけて、帰りなさい」
ベルフェは、もう振り返らない。
「行くぞ」
「はい!」
その背中を見送りながら……エルグランは、静かに祈った。
教国が、再び“神の国”になる日を。
そして怠惰の魔王は、何事もなかったかのように歩き去ったのだった。




