第61話:魔王、信仰の終わりを見届ける
黒焔を纏ったまま、オルフェンは内心で焦りを募らせていた。
ベルフェに攻撃が届かない。
それだけでも苛立たしい。
だが——本当に恐ろしいのは、そこではなかった。
(……おかしい)
黒焔を放つたび、確実に手応えはある。
なのに、相手は崩れない。
それどころかベルフェが修復するたびに……壊したはずの壁が立ち上がり、砕いた床が繋がり、信仰の象徴が元の形を取り戻していくたびに——
なぜか、自分の“力”が、少しずつ削がれていく感覚があった。
(……弱まっている?)
否。
違う。
それは単純な消耗ではない。
修復されていくものを目にするほど、自分が信じ、縋ってきた“何か”が音もなく剥がれ落ちていくような感覚。
(……では、私は……)
では、今まで見ていた“神の奇跡”とは。
耳元で囁いていた“声”とは。
——いったい、なんだったのか。
胸の奥で、冷たい恐怖が芽吹き始めていた。
『……ぁ……あぁ……』
オルフェンの喉から、呻くような声が漏れる。
『あぁああああああああ!!』
次の瞬間、黒焔が爆発的に噴き上がった。
『なぜ……なぜ魔王であるあなたが!!そんな力を持っているのですかぁぁぁ!!』
祈りの名を冠した黒焔が、狂ったようにベルフェへと叩きつけられる。
「……っ!」
余波が大聖堂を揺らし、天音が思わず悲鳴を上げた。
「魔王様——っ!!」
だが黒焔を正面から浴びたはずのベルフェは、ほんの少しだけ眉をひそめただけだった。
「……これで最後か」
吐き捨てるような一言。
黒焔が晴れ、そこに立っていたベルフェの姿はほとんど変わっていない。
天音は、遅れて息を吐いた。
心臓の鼓動が、ようやく落ち着いてくる。
そのときだった。
ベルフェが、ゆっくりと最後の一手を打つ。
崩れかけていた大聖堂中央。
割れたまま放置されていた——神像。
淡い光が走り、欠けていた部分が補われ……歪んだ輪郭が正されていった。
完全な姿を取り戻した神像を見た瞬間。
『……あ……』
オルフェンの黒焔が、わずかに揺らいだ。
修復を終えた神像は、教国で伝えられてきた姿と、微妙に異なっていた。
大きな違いがあるわけではない。
だが、どこか——決定的に違っていた。
厳しすぎず、慈悲に傾きすぎず。
裁く者でありながら、見下ろしてはいない。
それは、誰かに祈られるための像ではなく“そこに在った”ものだった。
オルフェンは、その像から目を離せなかった。
『……こんな……』
胸の奥が、ざわりと揺れる。
——自分が信じてきたものと、違う。
だが同時になぜか、こちらの方が“正しい”と感じてしまう。
その違和感が、さらに混乱を招いていた。
『……私は……』
何かを言いかけた、その背後で。
「……あとは、自分たちでやるんだな」
ベルフェが面倒そうに視線を向けた先にいたのは、エルグランだった。
エルグランは、静かに一礼する。
「……感謝します。ベルフェ様」
そして、一歩。
また一歩と、オルフェンの前へ歩み出る。
「——神使の権能……鉄の天秤」
その声が響いた瞬間。
ザァアアアッ——
白い光が、世界を塗り潰した。
大聖堂の輪郭が消え、音が遠のく。
まるで、別の空間へと引きずり込まれたかのような感覚がした。
そこに現れたのは、巨大な“天秤”。
だが、それは死後の裁きではない。
生きたまま逃げ道を奪い、立ち去ることすら許さず、己の行いと向き合うことを強制するための天秤。
——鉄の天秤。
信仰にすがり、神を騙り、理を歪めた者を……今度は“人の側”が裁く番だった。
オルフェンは、それを見た——いや、“見えてしまった”。
巨大な天秤の向こう側。
白とも金ともつかぬ光の中に、輪郭だけが浮かび上がる。
形は、人に近い。
だが、人ではない。
顔と呼べるものは、はっきりしない。
それでも、そこに“在る”と分かる存在。
そしてそれはオルフェンだけの幻覚ではなかった。
「……見えてますよね……?」
天音が、思わず小さく呟く。
アラームは言葉を失い、アドモンは静かに翼を畳んだ。
ベルフェも、修復の手を止めたまま、ただ視線を向けている。
その場にいる全員が、同じものを見ていた。
——“神”。
名を呼ばずとも、否定しようがなかった。
次の瞬間。
『……哀れな仔よ』
声は、頭に直接落ちてくる。
耳ではなく、存在そのものに触れるような響きだった。
『我は赦そう』
それだけだった。
裁きの言葉も、問いかけもない。
理由すら語られない。
ただ、赦しだけが、静かに告げられた。
オルフェンの黒焔が、音もなく崩れ落ちる。
燃え尽きるのではなく——溶けるように消えていった。
『……ぁ……」
オルフェンは、膝から崩れ落ちた。
泣いているのか、笑っているのかも分からない顔で。
その瞬間。
世界が、光に包まれた。
大聖堂だけではない。
空気、床、壁、天井がまるで世界そのものが、一度洗い流されたかのように。
痛みはない。熱もない。
ただ、澄み切った光だけが、すべてを通り抜けていく。
やがて光が収まると、そこには修復された信仰の象徴……美しい大聖堂が戻っていた。
神の姿は、もうどこにもない。
『……終わった、のじゃ……?』
アラームの呟きに、誰もすぐには答えなかった。
ベルフェは、ひとつだけ欠伸をしてから、ぽつりと言う。
「……さあな」
視線の先で、エルグランが静かに頭を垂れていた。
それは神に向けた祈りではなく——人としての、区切りだった。
鉄の天秤は、すでに消えている。
だが、その場に残った“赦されたという事実”だけが重く、確かに存在していた。




