第59話:魔王、大司教と相対する
大聖堂の奥で、空気が歪んだ。
それは音でも、光でもない。もっと曖昧でもっと根源的な違和感。
(……今のは)
大司教オルフェンは、無意識のうちに足を止めていた。胸の奥が、ひやりと冷える。
理由は分からない。だが、確実に“何か”が近づいている。
「……?」
聖堂内は静かだった。信徒たちは祈りを捧げ、神官たちは定位置に立っている。
いつも通りだ。何も変わらないはずだった。
(おかしい……)
オルフェンは、ゆっくりと視線を巡らせる。
存在律。かつては自然に感じ取れていたものが、ここ最近は妙に曖昧だった。否……“感じなくなっていた”と言うべきか。
(なぜだ……?)
思考を巡らせようとした、その瞬間。
——ズンッ
今度は、はっきりと分かった。
オルフェンの喉が、ヒュッと小さく鳴った。
(魔王……?)
あまりにも遅すぎる自覚だった。
なぜ、今まで気づかなかった?
なぜ、これほど巨大な存在律を……無視していた?
「……まさか」
その疑問に、答えは出ない。
だが、胸の奥で何かが、静かに軋んだ。
と同時に大聖堂の入口が、爆音とともに砕け散った。
◇
白い石の扉が吹き飛び、破片が床に転がる。
悲鳴が上がる前に、重たい足音が響いた。
「……相変わらず、無駄に広いな」
ベルフェは、だるそうに肩を鳴らしながら中へ入る。
その肩には、蛇身を巻き付けたアラーム。
頭上では、アドモンが静かに羽ばたいていた。
少し遅れて、白と金の鎧を纏ったエルグランが続く。
突然の侵入に信徒たちが、凍りついたように立ち尽くす。
「な……何者だ!?」
「侵入者だ!止め——」
言葉は、最後まで続かなかった。
ベルフェが一歩踏み出しただけで、空気が、重く沈んだからだ。
魔王三体分の“圧”。それを、オルフェンは今度こそ、はっきりと感じ取った。
「……来ましたか」
大司教オルフェン。その表情は、いつもの穏やかな微笑みのままだった。だが、瞳の奥には奇妙な光が宿っている。
「怠惰の魔王ベルフェゴール。嫉妬の魔王レヴィアタン。強欲の魔王マモン……」
名を呼びながら、オルフェンは両手を広げた。
「歓迎しましょう。ここは神の国です」
ベルフェは、鼻で笑った。
「神……ね。その割には、空気がずいぶん血生臭い」
「それは、必要な犠牲です」
オルフェンの声は、揺れない。
「教国は変わらねばなりません。古い神は役目を終えました」
その瞬間。オルフェンが両手で印を組んだ。
祈りの所作。だが、それはこの教国で見慣れたものとは、決定的に異なっていた。
——ズシッ
空気が、沈む。頭上に浮かび上がったのは、光輪。それも一つではない。黒の光輪が、三重に重なって回転していた。
次の瞬間、床から噴き上がるように、黒焔が立ち昇る。オルフェンの身体を包み込み、顔も、手足も、すべてが闇に沈んでいく。
残ったのは——光る眼。そして、歪んだ笑みを形作る歯だけだった。
「……嗚呼……』
恍惚とした声が、聖堂に響く。
『これぞ、神の奇跡……!』
その声音に、痛みはない。恐怖も、躊躇もない。
あるのは、ただ陶酔。
『我が命尽きるまで——祈りましょう!!』
刹那。爆発的な魔力が解き放たれた。
暴風が巻き起こり、聖堂の柱が軋み、床はひび割れ、壁は黒焔に焼かれて溶け落ちる。
祈りの場だったはずの空間が、一瞬で“災厄の中心”へと変貌した。
ベルフェは、目を細める。
「……これはもう神聖じゃねえな」
禍々しい黒焔。攻撃性だけを煮詰めたような力。
かつての大司教オルフェンが使っていた“神に祈り授かる力”とは別物だろう。
それでもオルフェンは、笑っていた。
自分が壊しているものが、教国であり、信仰であり、人々の居場所であることすら——理解しないまま。
「おい、周りが壊れていくが……いいのか?」
視線の先では、黒焔が大聖堂の壁を削り取っている。美しく整えられていた聖域が、音を立てて崩れていったにもかかわらず、オルフェンは一切、気に留めなかった。
『……異物を弾くことこそが最優先です。壊れたものは後から直せば良いのです。神も、きっとお許しくださるでしょう!』
その言葉を聞いた瞬間。
エルグランの表情が、僅かに曇った。
(……違う)
それは、神の論理ではない。
神に“似せた何か”の言葉だ。
黒焔が、うねる。
裁きの名を冠した力が、魔王たちへ牙を剥いた。
『……さぁ我が神の国から、消えなさい』
大聖堂が、軋みを上げ、ゴォッと黒焔が大聖堂の柱を舐めるように這い、床に焦げ跡を刻んだ。
「……ちっ」
ベルフェは一歩下がりながら、懐に手を伸ばす。
白く丸いモフ1号を、無造作に抱え上げた。
「おい、天音のところまで、あとどれくらいだ」
モフ1号は、きょとんとしたあと——両側の短い“手”をぱたぱたと動かした。
「……?」
ベルフェは、一瞬だけ目を細める。
モフ1号は今度は方向を変えずに、もう一度ぱたぱたと動いた。
『……それ、こっちに向かってきてるって意味ではないか?』
『探索対象が移動している場合、反応がそうなりますね』
アラームが気づき、アドモンも淡々と補足した。
「……なるほどな」
ベルフェは、口の端をわずかに上げた。
「閉じ込められたまま待ってるタイプじゃないとは思ってたが……」
呟きは、どこか呆れたようでそれでいて、ほんの少しだけ安心したようにも聞こえた。
『天音ちゃん、意外と度胸あるからのう』
黒焔が、再びうねりを上げる。だがベルフェは、視線をそちらに向けたまま、短く言った。
「……なら話は早い」
天音は、もう“こっち”に向かってきている。
大聖堂の中心で交錯する狂気と理の中。
二つの進行方向は、確実に同じ一点を目指していた。




