第57話:魔王、大司教の静かなる狂気
その頃……地下の広間で準備が進められている、同じ時間。
閉じ込められていた天音は、理由の分からない不安を覚えていた。
胸の奥が、じわじわと冷えていくような感覚。
怖い、というほどはっきりしたものではない。
けれど、何かが”ずれている”と、直感が告げていた。
(……どうして、こうなったんだっけ)
考えようとすると、思考が同じところをぐるぐる回る。
——そうだ。
教国へ戻ったのは、祖父が倒れたと聞かされたからだった。
教皇である祖父が、急に倒れた。
それだけでも十分すぎるほどの衝撃だったのに、その直後に周囲はやけに慌ただしくなった。
「聖女様は、少しお休みください」
「今は外部との連絡は控えましょう」
「すべては、教国のためですから」
そう言われて、この部屋に通された。
守られている。保護されている。
そう説明されたはずなのに——
(……おかしい)
天音は、ぎゅっと手を握る。
誰も怒鳴らなかった。
誰も強く命じなかった。
それなのに、いつの間にか自由が奪われていた。
そして。
その中心に、必ずいた人物がいる。
(……オルフェン様)
教国の大司教。
祖父の補佐として、長く教国を支えてきた人。
優しくて、穏やかで。
現世との交渉役も一手に引き受けていた、信頼の厚い人物。
——少なくとも、数週間前までは。
その顔が、ふと脳裏に浮かんだ瞬間。
コン、と。
部屋の扉が、静かに叩かれた。天音がいる部屋の扉が開く音は、静かだった。
「失礼します」
入ってきた人物を見て、天音は小さく息を止める。
その大司教オルフェンだったからだ。
「ご気分はいかがですか」
穏やかな表情に変わらない声音。
いつもと、何一つ変わらない。
——それが、恐ろしかった。
「……っ」
胸の奥が、ひやりと冷える。
怒鳴られたわけではないし、罵られたわけでもない。
声が、思ったよりも掠れていた。
「どうして、急に……」
以前のオルフェンは、確かに理性的な人だった。
教皇を支え、教国をまとめ、天音にも、必要以上に干渉しない。
それが、当たり前だった。
「急……ですか?」
オルフェンは首を傾げ、微笑む。
「いいえ。むしろ、遅かったくらいです」
穏やかな口調のまま、続けた。
「教国は、変わるべき時が来たのです」
一歩。また一歩。
距離が、静かに詰まる。
「古い信仰は、もう役目を終えました」
その言葉に、天音の喉が鳴る。
「新たな導きが、示されたのです」
瞳の奥に、熱が宿っている。
だが、それは激情ではなかった。
確信だった。
「ええ……ええ!すべては、運命だったのですよ」
オルフェンは、ゆっくりと天を仰ぐ。
「——ああ、神に感謝を」
その瞬間。
天音は、はっきりと理解した。
それは、教国が信じてきた神ではない。
けれど……オルフェンは、それを疑っていない。
疑うという選択肢が、最初から存在していない。
「……大司教様」
声が震える。
「それは、本当に……神、なのですか……?」
一瞬、目を見開いたあと。
オルフェンは、心底楽しそうに笑った。
「おや。まだ、分からないのですか?」
諭すように、優しく。
「神の声が聞こえないあなたは、聖女ですらない」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「神の声を聞けぬ者を、誰が聖女と認めましょう」
くすり、と小さく笑う。
「あなたは、最初から“偽り”だったのですよ」
天音は、思わず周囲を見渡した。
控えていた神官たち。
いつもなら、視線を逸らすか、戸惑うはずの人たち。
だが——誰一人、動かない。
誰一人、表情を変えない。
止める者も、疑問を口にする者も、存在しなかった。
まるでそれが最初から決まっていたかのように。
「……どうして……」
声が、床に落ちる。
「当然でしょう、彼らも、理解したのです」
オルフェンは誇らしげに即答した。
「この国が、次の段階へ進むということを」
天音には、その言葉の意味が分からなかった。
それでも分かってしまったことが、一つだけある。
ここには、もう味方はいない。
その事実が、ゆっくりと天音の胸に沈んでいく。
声を上げても、誰も止めてくれない。
助けを求めても、返ってくるのは冷たい視線だけ。
この国で、私はもう——
「……ふふ」
オルフェンが、満足そうに微笑んだ。
「理解できましたか。神の声が聞こえぬあなたに、居場所など最初からなかった」
その言葉が、決定打だった。
天音は、唇を噛む。
(……魔王様……アラームちゃん……)
思い浮かべただけで、胸が痛んだ。
そのときだった。
——ズドンッ!!
大聖堂の外。
遠くから、重低音が建物を揺らす。
「……っ!?」
床が、微かに震えた。
壁の装飾が、きしりと音を立てる。
「な、何事ですか!」
オルフェンが、思わず声を荒げる。
直後、扉が勢いよく開いた。
「だ、大司教様!!」
血相を変えた神官が、転がり込むように報告する。
「侵入者です!正体不明ですが——」
「人間が二名、ぬいぐるみ……いえ、二匹ほど……!」
「……二名と、二匹?」
一瞬、場の空気が止まる。
しかし天音だけは、はっと顔を上げた。
胸の奥に、微かな熱が灯る。
(……まさか)
天音の表情に、ほんの一瞬だけ、希望の色が戻った。
それを、オルフェンは見逃さなかった。
「……ふん」
苛立ちを隠さず、吐き捨てる。
「騒がしい。すぐに排除しなさい。ここは、神の国です。異物が踏み入る場所ではありません」
だが天音の耳には、その言葉よりも。
先ほどの衝撃音が、まだ鳴り響いていた。
——あの音を、知っている。
理不尽で。
遠慮がなくて。
やたらと雑で。
(……でも来てくれた)
確信に近いものが、胸に広がる。
天音は、小さく息を吸った。
まだ、終わっていない。
教国の静寂はいま、確実に壊れ始めていた。




