第50話:魔王、強欲の終わりを選ぶ
紅茶の湯気が、静かに揺れていた。
それを見つめながら、強欲の魔王——マモンは、淡々と語り続ける。
『……その後の話です』
特別な溜めも、演出もない。
まるで、業務報告でもするかのような口調だった。
『私は、神の指令を遂行できなかった責任を取り、大天使の位を辞退しました』
天音が息を呑む。
アラームも、言葉を失ったまま尾を止めている。
『そして、弱体化していた“元の強欲の魔王”を……存在ごと、喰いました』
「……さらっと言いますね」
天音が思わず零したが、マモンは気にした様子もない。
『強欲の理を完全に引き継ぎ、私は“強欲の魔王マモン”となりました』
一拍。
『滅んでしまった、あの世界は……私の権能で保存しています』
視線が、遠くを見るように逸れる。
『“水没都市ルナトリア”。あれはダンジョンであると同時に——墓です』
静寂が落ちた。
誰もが、言葉を探している。
重すぎる過去を、どう受け取ればいいのか分からないまま。
『……そして』
マモンは、今度は瑠波へと視線を向ける。
『ルナトリアの魂を数百年かけて修復し、この世界へ転生させたのが……あなたです』
——沈黙。
ほんの数秒。
だが、体感ではもっと長く感じられた。
その沈黙を。
「……まじか」
あっさりと破ったのは、瑠波だった。
「俺、そんなすげえやつだったのか!?」
『そっちに驚くのじゃ!?』
アラームが、思わず大声で突っ込む。
天音も、ぽかんとしたまま慌てて首を振った。
「い、いや……もっと重い反応になると思って……」
「いや、だって実感ねえし!」
瑠波は笑いながら、頭をかく。
「海賊王とか言われてもさ、今は普通の人間だしな?」
『普通の人間が黒門最奥で宝をくすねるな』
場の空気が、少しだけ緩んだ。
その様子を、ベルフェは不思議そうに眺めていた。
「……妙だな」
ぽつりと呟く。
「俺のときも、皆で強欲の魔王と死ぬ気で戦ったことがある。だが……それは、もっと昔の話だったはずだ」
視線をマモンへ向ける。
「数百年前だろ?時期が合わない」
その問いに、マモンは即座に答えた。
『そうでもありません』
紅茶を一口、口に含んでから。
『世界が違えば、時間の流れも異なりますから』
あまりにも、さらりとした言い方だったが、その一言は確かに、何かを“繋いだ”。
ベルフェは、それ以上追及しなかった。
ただ、静かに頷く。
「……なるほどな」
その反応を見て、マモンはわずかに目を細める。
「……あの」
思わず、天音が声震えながら手上げて質問する。
「あなたは……これから、どうするんですか?」
問いかけられたマモンは、すぐには答えなかった。
ゆっくりと紅茶のカップを置く。
陶器がソーサーに触れる、かすかな音。
一拍。それから、穏やかな声で言った。
『そうですね……怠惰の魔王が、この世界を守れることも分かりましたし』
その言葉に、ベルフェがわずかに目を細める。
『……“アレ”に見つかる前に、強欲の理を——放棄します』
「ええええええ!?」
『な、なにを言っておるのじゃ!?』
天音とアラームの声が、見事に重なった。
「ほ、放棄って……魔王やめるってことですか!?」
『理核を手放すなど……正気とは思えんのじゃ!』
広間が一気に騒がしくなる中、ベルフェだけは静かだった。
「……世界をリセットするとか言ってたな。それはいいのか?」
淡々と、確認するように問う。
それにマモンは、少しだけ首を傾げる。
『あれは——あなたを試すためについた、嘘です』
一瞬、空気が止まった。
「……元大天使様が、そんな軽率な嘘を?」
天音がぽつりと呟く。
『いえ。今は魔王ですから』
マモンは、気にした様子もなく言い直す。
「……あ、そっか」
『魔王じゃったのう……というか“アレ”とは……何なのじゃ?』
アラームが問いかけた、その瞬間だった。
——バシュッ。
空間が、赤く染まった。
視界いっぱいに、無数の赤いウィンドウが展開される。
警告音。重なるエラーメッセージ。
【警告!!干渉を検知しました!】
【観測対象:特異存在】
【理の逸脱を確認】
【これ以上の情報開示は世界安定度を著しく損ないます】
「……っ!?」
息が詰まるほどの圧迫感。
瑠波でさえ、無意識に一歩下がる。
天音は思わず胸元を押さえ、アラームの尾が硬直した。
『……来ましたか』
マモンは、ため息混じりに肩をすくめた。
赤い警告群を一瞥し、静かに言う。
『ですので、名前は出せないのですよ。呼んだ瞬間、あれに“認識”されますからね』
まるで、天気の話でもするような口調だった。
「……なるほどな、奴か」
ベルフェの低い声。
マモンは否定も肯定もせず、ただ微笑む。
『ご理解が早くて助かります』
二人の会話に、天音と瑠波が同時に固まった。
「結局、“あれ”って何なんですか……?」
「いやほんと、俺らだけ分かってなくね?」
赤いウィンドウが、さらに増殖する。
観測。干渉。警告。
世界そのものが、何かに睨まれているようだった。
『残念ですが……これ以上はのんびりはできませんね』
そう言って、マモンはもう一度紅茶に手を伸ばした。
その姿は、奇妙なほど落ち着いていて。
まるですべてを手放す覚悟が、最初から決まっていたかのようだった。




