第48話:魔王、強欲の過去を語る(1)
黒門最奥の広間には、まだ怠惰の理の余韻が残っていた。
青黒い鎖に絡め取られたまま、強欲の魔王――マモンは正座の姿勢を崩さずにいる。
羽根でできた顔の下で、肩がわずかに上下した。
『……事情をお話ししますので』
その声は、相変わらず落ち着いていた。
『とりあえず……解放していただけますでしょうか』
「……」
天音が思わず息を呑む。
この状況で、交渉を持ちかけてくる。
しかも、声色ひとつ変えずに。
『こんな状態でも、まだ話せるのやばいのじゃ……』
アラームが、引き攣った声で呟いた。
怠惰の理の“内側”を知っているからこそ、その異常さが分かる。
「だ、大丈夫なのですか……?」
天音は心配そうにマモンを見る。
縛られているのは敵であるはずの魔王だというのに、その姿がどこか無理をしているように見えた。
その空気を、あっけらかんと破ったのは瑠波だった。
「大丈夫だろ!こいつから、殺気を感じなかったしな」
その言葉に、天音が驚いたように瑠波を見る。
アラームも、一瞬だけ目を瞬かせた。
ベルフェは、少しだけ視線を上げ、「……俺も同じだ」と短く告げた。
「まずは3号を返せ。それから話を聞く」
『……承知いたしました』
マモンは素直にそう答えた。
次の瞬間、青黒い鎖が静かにほどけていく。
完全に消える前に、一瞬だけ空間が重く沈んだ。
マモンが、わずかに深く息を吐いた。
『……一部の支配を“解除”します』
同時に、腕の中から解放されたモフ3号が、ポンっと床に降りた。
「……あ」
ベルフェの方へと、一直線だった。
ぽふ、と胸元に戻ったモフ3号は、羽毛を震わせるようにして小さく鳴く。どこか、嬉しそうに見えた。
「……よし」
ベルフェは短く頷くだけだったが、その視線は確かに柔らいでいた。
マモンは、少しだけ間を置いてから言った。
『では、話が長くなりそうですので』
ぱちん、と指を鳴らす。
次の瞬間、何もなかった床に、次々と紅茶のセットが現れた。
テーブル、カップ、ティーポット。
人数分、きっちりと。
『お、おおっ!?』
アラームの前には、小さなティーカップが置かれていた。
『妾の分もあるのじゃ!』
尾を揺らしながら、嬉しそうに覗き込む。
天音はその様子に、少しだけ肩の力を抜いた。
「……対話させてくれるんですね」
『ええ』
マモンは姿勢を正し、静かに答える。
『こちらから仕掛けておいてなんですが、戦いよりもこちらの方が好ましいです』
ベルフェは、椅子にどさりと座り、モフ3号を膝に乗せた。
「……たが、長いのはだるいからな」
欠伸混じりに言う。
『善処します』
即答だった。
マモンはカップを手に取り、紅茶を一口含む。
その所作は、あまりにも落ち着いていて。
黒門の最奥であることを、忘れそうになるほどだった。
『……では、結論からお話ししましょう』
強欲の魔王は、ゆっくりと視線を巡らせながら、そう前置いた。
一拍。
天音は背筋を伸ばし、アラームは尾をきゅっと巻き、瑠波は無意識に唾を飲み込む。
三者三様の反応だったが、共通していたのは——これから語られる内容が、ただ事ではないと察していたことだった。
『それは、遥か昔……ここではない、別の世界の話になります』
◇
——数百年前。
マモンは、もともと天界に仕える大天使だった。
秩序を守り、管理を司り、均衡を崩さぬことを至上とする存在。
感情よりも規律を。
善悪よりも役割を。
そんな性質を持つ天使だった。
ある日、◼︎◼︎神よりひとつの指令が下った。
——特定の人間を保護せよ。
理由はひとつ。
その人間が、あまりにも“貴重な魂”を持っていたからだ。
名は、ルナトリア。
下界の海を支配する海賊王。
人の身でありながら、海に棲む魔物すら従わせ、潮の流れすら味方につける強者。
強欲の理を、誰に教わるでもなく“本能で理解している”希有な存在。
スキルの扱いも、権能に近いほど洗練されていた。
神は告げた。
——彼女は、数週間後に死ぬ運命にある。
保護が間に合わなければ、天界へ避難させても構わない。
それほどまでに価値のある魂だ、と。
だが——
(なぜ、そこまで……?)
大天使は、疑問を抱いていた。
なぜ一人の人間のために、ここまでの措置が必要なのか。
それは、あまりにも不公平ではないか。
理解できないまま、しかし指令には逆らえず。
大天使は、白く巨大な翼を広げ、下界へと降下した。
——船上。
突如として空から舞い降りた白い影に、甲板がざわめく。
「なんだ!?」
「敵か!?」
海賊たちが一斉に武器を構え、警戒の声が飛び交う。
その奥。
船の中央に立っていたのが、ルナトリアだった。
『……』
大天使は静かに着地し、翼を畳む。
そして、その場に正座した。
天使としての礼節。
無駄な威圧を避けるための、彼なりの配慮だった。
『ルナトリア様。私は大天使です』
一切の感情を交えず、淡々と名乗る。
『あなたを、保護しに参りました』
「……あ?」
ルナトリアは、目を瞬かせた。
「天使?保護?」
そして、眉をひそめる。
「ていうか……なんで俺を保護しに来たんだよ?」
それが、最初の会話だった。
事情を説明すると——ルナトリアは、一瞬ぽかんとした後。
次の瞬間、腹を抱えて豪快に笑った。
「俺があと数週間で死ぬだぁ?」
笑い声が、海に響く。
「まぁ、生きてりゃいつかは死ぬわな」
「お、お頭ぁぁぁぁ!!」
「死なないでくださいよぉぉぉ!!」
周囲の海賊たちが一斉に泣き出す。
ルナトリアは、心底うっとおしそうな顔をした。
「うるせえ!」
ぴしゃりと一喝。
「俺はな、あれを手に入れるまで、死ぬつもりはねえんだ」
その言葉に、大天使は正座したまま、首をかしげながら真面目な声で尋ねる。
『……失礼ですが、その“あれ”とは、何でしょうか?』
——それが。
秩序を司る大天使と、欲に忠実な海賊王。
決して交わるはずのなかった二つの存在が、初めて向き合った瞬間だった。




