第40話:魔王、温泉で平穏を味わう
あれから静かな時間が流れていた。
ベルフェはいつものようにクッションに沈み、アラームは日向でとぐろを巻き、天音は書類整理をしていた。
ふと、天音が顔を上げた。
「……そういえば、なんですけど」
何気ない調子だった。
「あの魔蝗を作った“悪い人”って……結局、誰だったんでしょう?」
空気が、わずかに変わる。
アラームがゆっくりと首をもたげた。
『……まだ、分からずじまいじゃな』
「ですよね……」
『ただし』
そこで、アラームは一拍置く。
『あの世界の“主”は、間違いなく魔王のいずれかじゃ』
天音が目を瞬かせた。
「……世界の、主?」
ベルフェが、クッションに顔を埋めたまま口を挟む。
「ダンジョンにはな、“核”とは別に“主”がいる。世界の形を決めて、魔物の性質を縛る存在だ」
「えっ……そんな仕組みだったんですか!?」
天音は思わず身を乗り出す。
『例えばじゃが……あの陰陽師がいた、あの朽ちた霊廟の場合はじゃな』
「はい」
『あれの元の主は——ベルフェゴールじゃ』
「…………えええええ!?」
天音の声が裏返った。
「じゃ、じゃあ!? あのダンジョンって、魔王様の……!?」
「正確には“俺の前身”だな」
ベルフェは気だるげに続ける。
「魔王の権能の一部から生まれた世界。それがダンジョンの正体だ」
『盟約を結んだことで、主の権限が引き継がれた。だからあそこの今の“主”は陰陽師というわけじゃ』
「そんな……ダンジョンって、もっと自然発生的なものだと……」
『青門あたりは未熟な世界。赤門以上は、主の意思が強く反映された“完成途中の世界”じゃな』
天音は頭を抱えた。
「じゃあ……妖精国の世界の主も……?」
「魔王のどれか、ってところまでは分かる」
ベルフェは淡々と言う。
「でも俺じゃない。ベルフェゴールは今、俺の一部だ。黒幕にはなり得ねぇ」
「つまり、“誰かがいる”ってことですね……」
その先は、誰も言わなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、ベルフェがぽつりと言った。
「……考えても仕方ねぇだろ」
『今は手がかりも足りんしの』
天音は少しだけ考えてから、ぱっと表情を変えた。
「……あ!」
『「?」』
「教国から、労いってことで温泉旅館の宿泊券もらっていたんです!みんなで行きませんか?」
アラームが、目を輝かせる。
『温泉!?行く行くのじゃ!!』
ベルフェは一瞬だけ考えてから、横目でアラームを見た。
「……蛇が温泉入って大丈夫なのか?」
『なにを言うか!妾は元とはいえ魔王じゃぞ!?』
アラームは憤慨したように尾を叩く。
『蛇でも魔王でも、温泉に浸かる権利はあるのじゃ!!』
「はいはい」
ベルフェは小さく肩をすくめた。
◇
天音の運転する車は、山道をくねくねと進んでいた。窓の外には、木、木、そして木。
看板も人影もなく、だんだん不安になってくる景色だ。
「こんな山奥にあるのか?」
「ありますよ!教国の推薦宿ですから!」
『山奥じゃのう……これは期待できるのじゃ』
後部座席でとぐろを巻いたアラームは、むしろ楽しそうだった。
やがて——
「……あ、見えました!」
木立の向こうに現れたのは、落ち着いた佇まいの温泉旅館だった。
創業百年を超える老舗。
玄関をくぐった瞬間、ふわりと檜の香りが鼻をくすぐる。
「……いい匂いですね……」
『ほう……これは良い宿じゃ』
ベルフェは何も言わず、ゆっくりと周囲を見回していた。
◇
通されたのは、露天風呂付きの客室だった。
障子越しに差し込む柔らかな光。
木の床。
そして部屋の隅に鎮座する、立派なマッサージチェア。
ベルフェは、それを見た瞬間に立ち止まった。
「……悪くない」
誰に言うでもなく、ぽつり。
数分後。
——ぶおおおおお……
低く唸る音とともに、ベルフェはマッサージチェアに沈み込んでいた。
「……悪くないな」
「……さっきも言ってましたよ、それ」
天音が苦笑する。
「強さ……圧……完璧だ」
『おぬし……本当に気に入ったのう』
ベルフェは返事をせず、目を閉じたまま再び言った。
「……悪くない」
◇
そして温泉。
露天風呂では、アラームがご満悦だった。
『ふぅぅ……これは……よい……』
湯気の向こうで、蛇の魔王がゆらゆらと揺れている。
「アラームちゃん、もう三回目ですよ?」
『何度入っても良いものは良いのじゃ!』
しかも、時間を空けてはまた入り直す。
『身体が軽くなるのう……魔力の巡りが違うのじゃ』
「温泉、すごいですね……」
天音はその様子を見て、思わず微笑んだ。
戦って、悩んで、背負って。
それでも今は、こうしてただ湯に浸かっている。
(……来てよかった)
◇
部屋食を終えた後、ベルフェは備え付けの案内表を眺めていた。
「ほう……ここで電話をかけると、マッサージも呼べるのか。至れり尽くせりだな」
そうぽつりと言うと、迷いなく受話器を取った。
「……あぁ。一名、部屋で頼む」
数分後、予約完了。
最高の怠惰を実現できるなら、手間は惜しまない。
それがベルフェという怠惰の魔王であった。
電話を置き、クッションに沈み込む。
「……今回はよく頑張った」
『珍しく素直じゃの』
「事実だ」
窓の外では、虫の声が静かに響いていた。
戦いは終わっていない。
謎も、脅威も、まだ残っている。
それでも——
この夜だけは、何も考えなくていい。
温泉の湯気と、檜の香りに包まれながら。
魔王と聖女は、それぞれの形で、静かな休息を得ていた。
今夜だけはこの世界は、少しだけ優しかった。




