第37話:魔王、妖精王を縛る
——世界樹の“魔核”は、ベルフェの手によって砕かれた。
パキィン、と澄んだ音が響いた瞬間。
地下全体に張り巡らされていた黒い根が痙攣し、そのまま力を失ったように崩れ落ちていった。
『根の魔力が止まったのじゃ!』
「これで……妖精王のほうに集中できるな」
遠くで、重たい衝撃音が幾度も響いていた。
地上で足止めを続ける騎士団が、限界まで踏みとどまっている証だ。
グマンティは一瞬、拳を強く握り締める。
世界樹の声。託された願い。失われゆくものの重さが、胸を締め付けた。
——だが。
『……今は、悲しんでいる暇はないな』
低く呟き、顔を上げる。
その瞳に、もはや迷いはなかった。
『世界樹は、未来を選んだ。我らが立ち止まれば、その覚悟を無駄にする』
ベルフェが淡々と告げる。
「よし。戻るぞ。……運んでくれ」
「えっ、また私ですか!?」
「……天音は運ぶの上手いからな。安定感ある」
「そこ褒められても全然嬉しくないです!!」
『……ベルフェよ。プライドというものは、どこへ置いてきたのじゃ』
「邪魔だから捨てた」
あまりにも怠惰の魔王らしい即答だった。
そのやり取りを聞いていたグマンティは思わず小さく笑う。
『……そうだな。時間は惜しい』
彼女は一歩前に出る。
『私が魔王殿を運ぼう。地上の者たちに、早く合流せねばならん』
「……助かる」
『任されよ』
グマンティは迷いなくベルフェを担ぎ上げ、そのまま全員で駆け抜け、地上へ戻っていく。
◇
まぶしい光が目に飛び込む。
見上げると、空中で妖精騎士団が機敏に飛び回り、巨大な妖精王の攻撃を必死にいなしていた。
誰一人として倒れていない。
まだ戦えている——それが何よりの救いだった。
『ヴォアアアアアアアアアアッ!!』
闇色の蛾の翅が、空気を裂く。
妖精王は鬱陶しげに魔蝗を払いのけ、四本の巨腕を地面に叩きつけた。
バゴォォオォンッ!!
地面が割れ、土煙が上がっていた。
天音が顔をしかめる。
「……あんなの、どうやって止めれば……」
「止める方法は最初から決まってる」
ベルフェは穏やかに言う。
その目は獲物を見据える獣のように静かで鋭い。
「権能をぶつける。今度こそ、な」
その時、空から一筋の影がこちらへ一直線に降りてきた。
『ベルフェゴール様ッ!!』
ワスプルだ。翅が光の筋を描いている。
『先ほど世界樹の根……止まりました! あれで——』
「あぁ。もう邪魔は入らない」
ベルフェはワスプルの肩に軽く手を置いた。
「これから“動きを止める”。騎士団は上で動き回って王の注意を逸らし続けろ。グマンティ——お前は地上で大声でもなんでもいい、王の視線を引っ張れ」
『気を逸らすだけなら、任せておけ』
グマンティは自信満々に頷く。
前回の玄聖のときと同じように、気を逸らす作戦で行くようだった。
そして——全員が散開。
地上ではグマンティが深く息を吸い込み——
『シャアアアアアアアアアッッッ!!!! 王よ!!! こっちを見ろォォオオオオッ!!!』
──カマキリの威嚇モードだった。
両手(鎌)を高々と上げ、翅を広げ、全身を大きく揺らしながら叫ぶ。
存在感があまりにも凄まじすぎて、空気が震えた。
『……ヴォオ……?』
巨大な妖精王の視線が、ぴたりとグマンティへ向いた。
天音が素で叫ぶ。
「な、なんか……すごいです!!」
アラームも少し引いており、尻尾を逆立てた。
『インパクトが強すぎるのじゃ!!』
そして——その一瞬の隙を、ベルフェは逃さなかった。
地上からゆっくりと右手を伸ばしながら静かに、淡々と世界へ命じる。
「怠縛鎖」
青黒い鎖が空間から這い出し、妖精王へ絡みつく。
ざらり、と音がした瞬間。巨体が——
ドシャァァァァァンッ!!
全身ごと崩れ落ちた。
『……ヴ……あぁ……やる気が……でない』
まだ異形の姿であるが確かに——言葉が“王の声”になっていた。
『王!?』
『意識が……戻っておられている!?』
空中の騎士団たちの表情が、一斉に希望へと変わった。
束の間の奇跡が、戦場に光を落とす。
『くはは……!空腹すら忘れるほどの……怠惰の権能。これは……なんとも心地よいな』
怠縛鎖を喰らっているとは思えなかったほど、王の声ははっきりと響っている。
異形の姿でありながら——その奥に宿る気配は、以前よりもむしろ“王として成熟した覇気”を帯びている。
その声が空を震わせた瞬間、騎士団は一斉に涙した。
『……王……!本当に……本当に、戻られたのですね……!』
『ひっ……うぅ……!あの声……ずっと……ずっと聞きたかった!』
グマンティたちは涙を拭おうともせず、胸に手を当てていた。
妖精王はゆっくりと頭を巡らせ、ワスプル騎士団の方へも視線を向ける。
闇に侵された異形の顔の下から——それでも確かに“優しさの気配”がふっと漏れた。
『……わたくしも、貴方たちを……ずっと見ておりましたわ』
『!?ああ……女王よ……!』
ワスプルの双眸に涙が滲む。その瞬間、彼らは理解した。
——この王は“二人”いるのだ。
樹の国を護ってきた王の低い響き。
花の国の王の柔らかい声音。
一つの身体に、二つの魂が宿る。
その奇跡に、空中の兵たちは胸を震わせた。
ズズズズズ……ッ
その希望の余韻を、黒い影が無慈悲に引き裂いた。
妖精王の肉体を覆う魔蝗の闇が、再び濃く滲み始めたのだ。
天音が息を呑む。
「……闇が、“向こう側”から押し返してきてる……!」
『……時間が……ない……』
妖精王の声が震えた。
怠惰の鎖に縛られながら、巨腕が苦しげに痙攣する。
『怠惰の権能が……切れれば……また化物へ、堕ちてしまう』
背の巨大な蛾の翅が、再び黒い瘴気を吸い込み、まるで墨を垂らしたように染め上がっていく。
わずかな正気と、押し寄せる闇の狭間で——
妖精王は最後の力を振り絞り、ベルフェを見上げた。
『……英雄よ。余の……わたくしの……願いはひとつ』
ベルフェは無言のまま、静かに聞く。
その双子の声が重なり、そして——
『……我らを……どうか……正しい形へ導いてほしい』
それは“正気という奇跡”が与えた、ほんの少しの猶予に絞り出された王の誇りの最期だった。




