第12話:魔王、クッションを失う
——その部屋は、もはや“クッションの楽園”だった。
床にも、ソファにも、棚の上にもクッション。
ふかふかの布に包まれ、中心で眠る怠惰の魔王ベルフェは、まるで天上の安息にいるかのように穏やかな寝息を立てていた。
「……魔王様って、ほんとにクッション好きなんだな」
「いやもう、これは愛だな。信仰の域だ」
監視ハンターたちは小声で囁き合いながら、ふわふわの山の中心で眠る“人類最強の寝相”を見守っていた。
テレビからはニュースが流れている。
『各地で“緑門”ダンジョンの出現が確認されています。ブレイク発生件数は増加傾向に——』
ハンターのひとりが顔をしかめた。
「……物騒だな。そろそろブレイクが出てもおかしくない」
「まさか、ここらで起きたりしないよな……?」
不安が混じる声が途切れた——その瞬間。
『速報!東京都内・第⚪︎区エリアでダンジョンブレイク発生!』
警報音が鳴り響いた。
「——って、この近辺じゃねぇか!?!?」
外ではサイレン、地鳴り、逃げ惑う人々の叫び。
しかし——
部屋の中心ではベルフェが、まだ寝ていた。
「……あの人、どんな音でも起きませんね……」
「世界が滅んでも寝てそう……」
そこへ白いローブを翻して、聖女・天音が駆け込む。
「魔王様は!?」
「ご覧の通りです!!」
「えぇぇぇぇ!?」
叫ぶ彼女の背後で、空気を裂くような咆哮が響いた。
次の瞬間、壁が粉砕された。
爆風と共に飛び込んできたのは、炎をまとう飛行型の魔物。そして——炎の熱が部屋を包み、クッションの山の半分が燃えた。
ふわふわの布が、ゆっくりと空を舞いながら焦げていく。まるで時が止まったように。
天音もハンターたちも、息を詰めたまま固まった。
その青ざめた表情は、魔王の危機ではなく、“クッションの消失”への恐怖。
「……」
静寂の中で、山の中が微かに動く。
ゆらり、と。
黒い髪が浮かび上がり、その奥から覗く双眸が赤く灯る。
「……クッションを壊したやつはどいつだ」
穏やかだった空気が、一瞬で凍りついた。
低い声。怒りでも激情でもない、底なしの静寂が世界を支配する。
赤い光が、彼の全身から溢れ出した。
【怒りによって“怠惰の理”が一時的に抑制】
【存在律:静止 → 解放】
“怠惰の理”——それは、彼に刻まれた存在の根。
彼が眠る時、世界は静まり、彼が動く時、理は外れ、混沌が解き放たれる。
その瞬間、空気の重みが変わった。
床がうねり、炎が逆流し、飛行型の魔物が怯えたように羽ばたく。
圧倒的な存在感。
まるで“生きる災厄”そのものがそこにいた。
◇
ベルフェ——いや、久禮 尊の顔に、初めて“魔王らしい”表情が浮かんだ。
冷たく、しかし燃えるような光。
それは千年前、戦場で幾億の魔物を葬った“英雄”の面影だった。
「……逃すわけ、ねぇだろ」
低く呟いた瞬間、空気が裂けた。
床から立ち上る金属の音。
黒い影が伸び、そこから無数の刃が形成されていく。
——第一権能……無為鍛成。
しかしそれは、いつものように“怠惰な創造”ではない。
剣が一瞬で百本、千本と形を取り、炎の残骸を巻き上げながら空へ舞い上がった。
「おぉぉぉぉぉっ!!!」
怒号と共に、ベルフェが跳躍。
その動きは疾風のようで、“怠惰”の影もないほど鋭かった。
飛行型魔物が防御の構えを取る間もなく、刃の雨が空を裂いた。
翼が砕け、悲鳴が上がり、その巨体がビルを貫いて崩れ落ちる。
爆風の中、ベルフェは一歩も退かず、炎の剣を握り締めたまま、その眼光だけで残りの魔物を震え上がらせた。
「……死んで詫びろ。俺のクッションに」
冷たく、無慈悲に放たれた言葉。
その一言と同時に、影から生まれた刃が一斉に突き上がり、魔物たちは跡形もなく消滅した瞬間、空気が一変した。
——ゴウンッ……!
向こうで禍々しく輝いていた緑門のダンジョンが震え、青く澄んだ光へと変わった。
青は最も安定した安全色。
街を覆っていた重苦しい気配がすっと消え去り、人々は安堵の息を漏らす。
——静寂。
風が吹き抜け、焦げた匂いだけが残る。
ベルフェは肩で息をしながら、焦げた布片を拾い上げた。
「……クッション、半分消えたな」
その低い呟きに、天音とハンターたちは凍りつく。
「再購入を要求する」
「っ、す、すぐ手配します!!」
「高品質で、触り心地優先のものを!!」
「……うむ」
短く頷くと、ベルフェは燃え残った数個のクッションの上に腰を下ろした。
その瞬間、空間に静かな音が響く。
ピロン——。
赤いステータスウィンドウが、ふわりと浮かび上がった。
【感情値安定】
【“怠惰の理”再起動】
【Lv:50 → 84】
表示を見た天音が思わず目を丸くする。
「……一瞬で、そんなに……!?」
「……働いた分だけ上がるらしいな」
ベルフェはあくびをしながら言い、燃え残ったクッションを抱きしめた。
「……面倒だ。寝直す」
再び理が働き、空気が柔らかく沈んでいく。
天音はその光景を見つめながら、ふと心の中でつぶやいた。
(“怠惰の理”……この人が眠ることで、本当に世界が落ち着く気がする……)
彼が目を閉じた瞬間、外の風が静まり、騒がしかったサイレンが遠ざかっていく。
——まるで世界そのものが、ベルフェの眠りに合わせて息を整えたかのようだった。




