第2章 日常の中の異変
奈央はスマホを手に取り、SNSアプリのアイコンを見つめた。いつもなら朝の通勤途中やカフェで写真を投稿し、フォロワーの反応を楽しむのが日課だった。けれど、あの「影のフォロワー」の影響で、ここ数日は投稿を控えている。
「これで少しは落ち着くはず…」
奈央は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。これ以上、あのアカウントに自分の生活を覗かれるようなことはしたくない。だから、最近は写真を撮ってもすぐに投稿せず、タイミングを見計らうか、投稿自体をやめてしまうことが増えていた。
しかし、それでも不安は消えなかった。SNSを開くたびに、「影のフォロワー」の名前が通知欄に表示されるのではないかという恐怖が頭をよぎる。
***
ある夜、奈央は部屋の明かりを落とし、ベッドに横たわりながら久しぶりにSNSを開いた。フォロワー数やコメントを確認しようとしたが、通知欄に未読のメッセージがあることに気づく。
「まさか…」
恐る恐る画面をタップすると、そこには「影のフォロワー」からの新しいDMが届いていた。
「どうして最近、投稿しないの?」
その短い文面を見た瞬間、奈央の体が固まった。
すぐにアカウントを削除するべきか。それとも警察に相談すべきか。考えが巡る中、スマホが再び震えた。新しいメッセージが届いたのだ。
「僕は君がどこにいるのか、何をしているのか、全部知ってるよ。」
奈央は息を飲んだ。指先が震え、画面を見るのが怖くなった。部屋の中は静まり返っているのに、彼女はどこか遠くから自分を見つめる視線を感じるようだった。
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奈央は久しぶりに友人の美咲と出かけることになった。行き先は、お洒落な雑貨屋が並ぶ小さな商店街。気分転換が必要だった奈央にとって、この計画は心の支えだった。
「ここ、いい感じじゃない?」
美咲が指差したのは、ヴィンテージ風の木製看板が特徴的なカフェ。奈央はその入り口がなんともフォトジェニックだと感じ、スマホを取り出した。
「ちょっと撮るね。」
笑顔を浮かべながら、奈央はカフェの入り口をフレームに収めた。木製のドア、ツタが絡まる壁、柔らかい光を放つランプ――すべてが完璧に見えた。
写真を確認して、「うん、いい感じ」と満足げに頷いた奈央は、美咲と一緒に店内へ入った。だが、この時は気づかなかった。その写真に写り込んでいた「異物」の存在に。
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その夜、自宅に帰った奈央は撮影した写真を見返していた。投稿用に少しフィルターをかけ、明るさを調整する。完成した写真は見事な一枚だった。だが、画面の端に視線を移した瞬間、彼女の手が止まった。
「…何これ?」
写真の右端、カフェの入口から少し離れた場所に、人影が写っている。黒いフードを深く被った人物が、こちらをじっと見つめているように見えた。
「誰…?」
奈央は背筋が凍るのを感じた。写真を撮ったとき、その場所には誰もいなかったはずだ。人通りは少なく、友人以外の存在を意識することはなかった。
慌ててSNSに投稿する前の写真をもう一度確認したが、影は確かにそこにある。
そのとき、スマホの通知が鳴った。奈央は心臓が跳ねるような感覚を覚えながら、画面を確認する。
「影のフォロワー」からのコメントだった。
「いい写真だね。僕も映ってる。」
奈央の血の気が引いた。震える手でスマホを置き、全身に広がる恐怖にじっと耐えた。その一言が意味するもの――それがただの偶然ではないことを、彼女は直感的に悟った。
「影のフォロワー」は本当にそこにいた。写真を通じて、奈央の世界に確実に存在感を示していたのだ。
***
奈央は美咲と久しぶりにカフェで会う約束をしていた。落ち着いた雰囲気の店内に座り、コーヒーを飲みながら最近の話題で盛り上がるはずだった。だが、美咲の表情はどこか浮かない。
「どうしたの?最近忙しいの?」
奈央がそう尋ねると、美咲はしばらく沈黙した後、ポツリと口を開いた。
「ねえ、奈央。実は私、SNSやめようと思ってるんだ。」
「え?どうして?」
美咲はSNSでの投稿を楽しむタイプだった。お気に入りの雑貨や料理の写真を頻繁に投稿し、フォロワーとも積極的に交流していた。そんな彼女が突然やめると言い出すのは、奈央には信じられなかった。
「最近…なんか変なことが起きてる気がするの。」
美咲の声はどこか震えていた。「変なこと?」と奈央が聞き返すと、美咲はスマホを取り出し、奈央に画面を見せた。そこには、美咲の投稿に残された一つのコメントが表示されていた。
「君の選ぶ雑貨、すごくセンスがいいね。僕も同じのが欲しいな。」
コメントの送り主は、「影のフォロワー」。
奈央の心臓が跳ねるように鼓動した。頭の中で記憶を探りながら、視線をコメント欄に釘付けにする。「どうして…?」と美咲が戸惑いの表情を浮かべたまま話を続ける。
「最初はただのフォロワーだと思ってたの。でも、次第に投稿するたびにこの人がコメントしてくるようになって…。最近は、私のことを知りすぎてるような気がして怖いの。」
奈央は息を飲んだ。美咲が話す状況は、自分の経験とまったく同じだった。あの「影のフォロワー」が、美咲にも接触していたのだ。
「そのアカウント、いつからフォローしてるか覚えてる?」
奈央がそう尋ねると、美咲は首を振った。「気づいたらいた感じ。数週間前かな…」
奈央の胸の中に広がる不安が、さらに濃くなった。「影のフォロワー」が彼女だけでなく、周囲の人にも手を伸ばし始めている。
「それでね、怖くなっちゃって…アカウント削除しようかと思ってるの。」
美咲の声は真剣だった。奈央は必死に冷静を装いながらも、スマホを握りしめる手が震えているのを感じた。もしこのまま「影のフォロワー」の影響が広がれば、自分も美咲も、そして他の人々もただでは済まないかもしれない。
「やめたほうがいいかもね…」
奈央はそう答えたものの、心の奥底では、SNSをやめるだけで本当に終わるのかという疑念が湧いていた。
***
美咲の話は、奈央に新たな恐怖を植え付けるには十分すぎるものだった。「影のフォロワー」は、奈央の世界をゆっくりと侵食し続けているようだった。
奈央はカフェでの美咲との会話を思い返しながら、帰り道を歩いていた。冷たい風が頬を刺し、薄暗い街灯の光がアスファルトに影を落としている。美咲の言葉が、何度も頭の中で反響していた。
「最近、不安だからSNSをやめようと思ってる。」
「影のフォロワー」という名前。あのコメント。すべてが奈央の心に重くのしかかっていた。
「私だけじゃない…。」
奈央は自分の心に湧き上がる恐怖を認めざるを得なかった。最初はただのネット上の出来事だと思っていた。気味の悪いフォロワーが一人いるだけで、現実の生活には影響しないはずだと自分に言い聞かせてきた。
けれど、そうではなかった。「影のフォロワー」は彼女だけでなく、美咲にも接触していた。そしてその行動は、単なるネット上の嫌がらせでは済まされないほど深刻だった。
「美咲がアカウントを消したら、次は誰に…?」
奈央は周囲を見回した。人影は少なく、街は静まり返っている。しかし、その静けさがかえって不気味だった。まるでどこかに「影のフォロワー」が潜んでいて、自分を見ているのではないかという妄想に駆られる。
これ以上、無視することはできない――奈央はそう悟った。自分の周囲の人々が一人また一人とこの「影」に巻き込まれていく可能性を考えると、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
部屋に戻り、ドアを閉めると同時に鍵をかけた。靴を脱ぐ手が震えているのを感じる。リビングに入っても、テレビや音楽をつける気にはなれなかった。
奈央はスマホをテーブルに置き、じっと見つめた。「影のフォロワー」が次に何をしてくるのか、まったく想像がつかない。いや、これ以上何か起こること自体、考えたくなかった。
「どうすればいいの…?」
小さくつぶやく声は、誰にも届かない。それでも、奈央はようやく事態の深刻さを理解していた。これは単なるネットのトラブルではない。自分の現実が「影」に侵食され始めている――そして、その影は確実に広がりつつあるのだ。