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悲愴の魔術師  作者: 黒錆 聖
第一章 事件性のない小火
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追走


 南大通りから西に三〇〇メートルほど離れた中央区でも人通りの殆どない小道。そんな辺鄙な場所にある誰も見向きもしない路地。その先に今しがたまで炎の柱が立ち昇っていた現場がある。

 その内部の様子を注意深く観察するようにルドアは路地の手前から仁王立ちして睨んでいる。

 炎の柱はここに向かっている最中に消えてしまったが、その名残ともいうべきものが、そこには残されていた。路地の空気自体が熱を帯びて霞がかっている。それはまるで熱気が可視化して空気が歪んでいるようだった。何の燃えカスかもわからない無数の黒い塵状の灰が、熱された空気に浮かされて無秩序に漂っている。そんないかにもな光景に、ルドアは思わず息を飲む。

「この先に『事件性のない小火』の現場があるのね」

 強張った表情で路地奥を眺めるルドアの視界の端に、見覚えのあるシルエットが映って、彼女は突然緊張の糸が切れたみたいに大きく溜息を吐いた。

 ついさっきルドアが走って来た道の方――そこにはバケツの水でもかぶって来たかのように全身にじっとりと汗を掻きながら、ゼーゼーと息を荒げ、肩を揺らして走るヴォルトの姿があった。走っているといってもその速度たるや、ほとんど歩いているのと変わらない。その様子は容易に『限界』の二文字が想起されるほど満身創痍に見えた。

 ルドアの目の前までやってきた彼はふらつく足を止め、路地前の地面に崩れ落ちるように座り込む。

「やっと……追い付いた……」

 自分と同じ距離を走って来たはずの彼のその情けない姿を見下ろして、ルドアは落胆したとばかりに言葉を漏らす。

「運動不足なんじゃない? 正直ダサいわよ」

 容赦なく振り下ろされた言葉のナイフが彼の胸を抉った。だがヴォルトに反論の余地はない。もとより、うつむいたまま噴き出した汗を拭く事すらままならない彼にそんな余裕すらなく。

「何も……言い返せないな……」

 抑揚すら奪われた言葉がただ力なく口先からこぼれでた。


 引き籠っていた三年間――その膨大な時間の中で、運動らしい運動は彼には無縁の存在だった。日がな一日読書をして、あとは合間に食事と風呂と睡眠と――まるで待遇の良い囚人のような生活を送ってきた。そんな彼がいきなり三〇〇メートルもの距離を走れるわけがない。

 だが、そんな事はルドアには関係ない。彼女は未だ息を切らしているヴォルトなどお構いなしに笑顔で言う。

「さ、行くわよ」

 にこやかに放たれたその言葉に、期待された返事など今のヴォルトができようはずがない。 

「もう少しだけ……待ってくれ……」

 それを聞いたルドアは笑顔を引っ込めるとつまらなそうに虚ろな表情をした。

「仕方ない。置いて行くしかないわね」

 先ほど窮地に立たされたことなど忘れたかのように振舞う彼女に、ヴォルトは疲労に呆れが勝って嘆声がもれる。

「……あのなぁ――」

 そのまま愚痴の一つでも言ってやろうと口を開いたところでヴォルトは気が付いた。

 座り込んだまま、見上げた視線にうつる彼女の表情が眉間にしわを寄せたまま固まっている。

 何かを見ている。目を離さないようにしている。緊張感すら伝わってくる彼女のその神妙な面持ちの原因はその視線の先――路地奥の景色にあるのだろう。それを確かめるように、ヴォルトは徐にそちらへ視界を移す――。


 ――熱気で歪められた路地の景色。無数に舞い狂う塵状の灰。その隙間からチラと覗く赤い何か――それが赤いフード付きのコートを羽織った人間だと気付くのにそう時間はかからなかった。フードを目深に被り、顔を隠したその人物が路地に落ちた影の中にひっそりと佇んでいる。

 揺らいだ視界に阻まれて距離感がつかめない。張り詰めた緊張感がコートの人物を近くとも遠くとも思わせてくる。

 それは獲物を狙う捕食者か、はたまた天敵から逃れる術を練る被食者か、どちらにせよ、こちらの出方をうかがっているかのように微動だにしない。表情のない人影を前にヴォルトとルドアは凍り付いた時間の中に閉じ込められていることしかできなかった――。


 ――その静寂を切り裂いたのはコートの人物の方だった。


 唐突に背後へ飛んだかと思うと路地裏に戻るように踵を返す。その目にも止まらぬ反転に、一瞬遅れてルドアは地面を蹴った。

「待ちなさい!」

 ヴォルトは座り込んだまま立ち上がれなかった。

「おい、一人で行くな!」

 そんな言葉がルドアの耳に届くはずもなく。返事すらせずに彼女はコートの人物を追って路地の奥へと消えて行った。



 歪んだ景色を突っ切って薄暗く窮屈な路地裏を走り抜ける人影が二つ。赤いフード付きのコートを羽織った人物とそれを追走するルドアだ。

 蒸した空気が息苦しさを感じさせる中、全力疾走で熱を帯びた肉体に追い打ちをかけるように、押し寄せる熱気が肌に当たって身体を嫌味なほどに火照らせてくる。

 そんな最悪のコンディションを、それでも食らいつかんとばかりに直走るルドア。しかしそんな彼女も焦燥感に駆られていた。コートの人物の背中が小さくなっている。それは徐々に引き離されている事を如実に物語っていた。

 足が千切れるほど全力で走っているのに、追いつくことができない。ルドアは嘆くように言葉をもらす。

「なんて速さしてんのよ――!」


 それでも諦めずその背中を追っていると、唐突に視界が開け、陽光の指す明るい空間へと抜けだした。次の瞬間、目の前に飛び込んで来た光景に、思わずルドアは足を止めていた。

 それは十メートル四方ほどの真四角な部屋のような場所だった。地面には赤く鈍く光を放つ砂粒のような燃えカスが大量に散乱し、灰色の石畳の床を覆っている。四方の壁はその全体が満遍なく黒く焼け焦げ、その表面を這う複数の金属製の排管が赤熱して溶けている。吹き抜けになったその上方には、この惨状が嘘みたいに空の青が覗いていた。

 ルドアにはこの場所こそが、炎の柱の根本――事件性のない小火の現場であると一目でわかった。

 どうやらここから先に道はないらしい。この場所がこの路地の最奥のようだ。文字通り袋小路になった路地の壁に未だ逃げ場を探すように赤いコートの人物はルドアに背を向けて壁を眺めている。

 

「どうする? まだ逃げる気なら私と戦う事になるけど?」

 内心、先程の全力疾走で疲弊しきっているが、それでもルドアは気丈に振舞う。乱れそうになる呼吸を気取られぬように浅く息をして、震えそうな両足を気合で抑え込む。

 しかし、そんな彼女の虚飾など耳に届かないとばかりにコートの人物は無感動にピクリとも動かない。背を向けたまま、ただ壁の方を向いている。

 その姿に不気味さを感じて、思わずルドアは生唾を飲んだ。

 

 ――漂う空気のノイズが聞こえそうなほどの静けさ――


 その静寂を突き破って、赤いコートの人物は突然、屈伸でもするかのように屈むと足を延ばした勢いで真上に飛び上がった。その跳躍は優に四メートルを超え、掲げた右手で赤熱する金属製の排管を掴むと、樹上を移動する獣の如く、軽々しく身体を腕の力だけでさらに上空へと飛ばし、路地を形成している建造物の屋上へと着地した。

 あまりの出来事にルドアは呆気に取られて、口を開けたまま固まっている事しかできなかった。路地の壁の高さはおよそ十メートルほど。それをその身一つで登りきるなど、とても常人には無理な話だ。それに未だ赤々と熱を発する金属製の配管を素手で掴んだというのに、熱がる素振りすら見せない。あまりの困惑に動けないでいるルドアを嘲笑うかのように、屋上の縁に立った赤いコートの人物は曇り始めた空を背に彼女の事を見下ろしている。

「ちょっと! 勝負しないで逃げる気!? 私とやり合いなさいよ!」

 そんな挑発で止まってくれるわけもないが、赤いコートの人物はそれでも何故か名残惜しそうに一頻りルドアを見つめた後、何かを吹っ切るように屋上の死角へと消えていった。

 追う術を失ったルドアは赤いコートが佇んでいたその虚空を眺めている事しかできなかった。


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