見失った憧れ
――あの日の俺は英雄に憧れていた。
誰かを救える人間になりたくて――大勢の人を救った英雄に、防護魔術の権威とも称された白壁の魔術師、サタナ=シュヴァルツァに憧れを抱いた。
思えば、魔術師を目指したのはただわかりやすい目標がずっと目の前にいたからなのかもしれない。
初めて魔術を使った七年前のあの日――俺は魔力欠乏によって、病院に運ばれた。
そこで医者に言われたのは、
「君の身体は魔術には適していない」
そんな無情な言葉だった。身体が半透明になって動けなくなった時には、既に自分でもわかっていたはずなのに……。改めて他人から言われた時の衝撃は、今も忘れられないほど脳裏に焼き付いている。
もう英雄になんてなれない。それでも諦めたくなかった。挫折したくなかった。爺さんからも一度は反対されたが、それを振り切って魔術師試験に挑んだ。
仮に魔術を上手く扱えなくても、その知識で乗り越えてやればいい。爺さんですら到達しえなかったクラスSに昇りつめる――。それだけが目標になっていた。その時点で憧れなんか捨ててたんだ。
一日の大半を魔術書に噛り付いて過ごした。試験に出ないような事まで魔術とつけば全てを脳に叩き込んだ。
天に自分の頑張りが認められたかのように、試験会場では魔術は失敗しなかった。
あの時だけは、本当にすべてが上手くいっていた。あの時だけは――。
「この子はいずれ人を殺す!」
そんな風に反魔術派のヤツらに言われたのは、その後だった。
パンッと頬で何かが弾けるのを感じた。
瞼が重くなる……意識が……戻る……。
+
窓から差し込む月明りのみが寝室を薄っすらと照らしている。備え付けのベッドの上で横たわるヴォルト。彼はその左の頬に疼くような痛みを感じて目を覚ました。あの後自室に戻って寝ていたらしい。徐々に意識がはっきりするにつれて、鈍かった左頬の痛みがより鮮烈になっていく。
重たい瞼を押し上げて、気だるげな寝ぼけ眼をさらす。ぼやけた彼の視界には暗がりに佇む人影が捉えられていた。ベッドの傍らで前のめりになったルドアが開いた右手を振りかぶっている。それは今にも振り下ろされようとしていた。
「――起きてよ!」
彼女がそう叫んでいるのに気付いて、一気に脳に血が回り覚醒する。そして、左頬の痛みの正体がルドアによって、もたらされたのだと瞬時に直感した。彼女は寝ているヴォルトにビンタしたのだ。
痛む左頬を手で押さえながら、慌てて上体を起こす。
「なんだよ! 寝てる時にビンタしたら痛いだろ!」
寝起きで思考も呂律も回らず、ただ腹の底から沸き上がった感情だけで怒鳴ったヴォルトは、彼女が目に涙を溜めているのに気付いて、その感情をすぐに引っ込めた。
「何か……あったのか……?」
酷く動揺した様子でルドアは先ほどあったことを語る。
「アゼリアの項に燃えるような傷があった――。事件性のない小火を引き起こしたフィルドは――あの子だったの」
それを聞いてヴォルトの心に、あの時感じた胸騒ぎが思い起こされた。夕飯の後、アゼリアと話した時に垣間見た、彼女の心の暗い部分――それを構築しているのが、彼女がフィルドだというところにあるのだとすれば――。ヴォルトは点と点が線で繋がったように感じた。
「どうしよう……私……アゼリアに酷いことをしちゃった。友達なのに、嫌いにならないでなんて言わせちゃった」
それまで溜めていた涙が――押し殺していた感情が、彼女の頬を伝って流れ落ちた。
その涙を見たヴォルトは概ね状況を理解した。ずっと自ら境遇を隠していたアゼリアが、ルドアにそれを知られてしまった。そこで何かいざこざがあって、どうしていいのかわからなくて自分のもとに来たのだと悟った。
――その刹那、爆発音と共に赤く激しい光が寝室の窓から差し込み、部屋中を明るく照らした。驚いて窓の方を見た二人の目に飛び込んできたのは、昼間見たのと同じ荒々しく空に打ち上がる巨大な炎の柱だった。
それはアゼリアが、狂化状態を解除するために、魔力を放出したことを意味していた。
その炎の柱が打ち上がったのは、騎士団本部からほど近い、建造物の間だった。ここからでは見ることができないが、恐らくあの場所も人気のない路地の最奥の空間なのだろう。
今も彼女は自らの呪われた体質に抗い、必死に迷惑をかけまいとしている。その炎の眩さがそれを物語っているようでルドアは何とも言えない切ない表情で炎の柱を眺めていた。
そんなルドアを慰めるように、
「アゼリアはきっと戻ってくる。一緒に待とう」
ヴォルトはそう言って、彼女と共にアゼリアの帰りを待つことにした。
+
ヴォルトとルドアは場所を移し、女子寮の入り口前でアゼリアの帰りを待っていた。炎の柱はとうに消え去り、あれから二十分ほどが経過していた。
いくら待ってもやってこないアゼリアに、心配の念が膨らんで、ヴォルトは嫌な予感がしていた。
一度目の小火は一カ月前だった。それから四度目までは一週間に一度の間隔を保っていたはずだった。それが今週に入って、三日前、そして今日と立て続けにそのペースを乱すように早まっていった。つい二十分前に起こったものも昼間の小火から、数時間ほどしか経っていない。狂化のスパンは加速度的に短くなっている。
まさか、アゼリアは狂化から抜け出せなくなってしまうんじゃないか? ヴォルトはそんな直視したくない考えを胸に抱いた――まさにその時だった。
――ドカン! と再び辺りに爆発音が響き渡った。炎の柱が空を穿つように打ち上げられた。
つい二十分前にも見た光景。その再演にヴォルトもルドアも表情が曇る。
今さっき彼の脳裏を過った考えが、現実味を帯びる。
ルドアも同じことを考えていたのだろう、立ち昇った炎の柱を見上げながら、
「あの子、もしかしたら狂化を止められなくなってるんじゃ――」
不安を晴らしたくて、そうヴォルトに投げかけた。
もしかしたらそうかもしれない。ヴォルトは心の内でそう思っても、そんな風に答えたら、ルドアが潰れてしまうんじゃないかと思って、何も言えずに黙りこくった。
だが、沈黙は沈黙なりに相手に伝わってしまうものだ。ヴォルトもそう思っているのだと、ルドアは悟った。
うつむいたルドアが、何も言わずに静かに涙を流している。そんな彼女の姿を見てヴォルトの心に一つの思いが芽生えた。
「行こう」
それだけ言ってヴォルトは一歩前に踏み出した。
「俺なら――」
ヴォルトはそうボソッと呟いた後、その意思を固くゆるぎないものにするためにハッキリとした口調で断言した。
「俺なら狂化状態を解除できる」
正直、それは知識だけの付け焼刃でしかない。もちろんそんな魔術を使った事もなければ、失敗する可能性だってある。ただ自分にできる事があるのなら、それをしたいと思った。