彼女の秘密
深夜、皆が寝静まった頃。白く四角い簡素な見た目の女子寮の屋上で、ルドアはそこから見える遠景を望みながら、夜風に当たって涼んでいた。
彼女が眺めるペイオリティの夜景は、等間隔に建てられた街灯や建造物から微かに漏れ出す光の影響で、夜だというのに薄っすらと明るい。雲一つない夜空にまばらに見える星々は街並みの発する明かりに追いやられて、数を減らされている。
背後に佇む銀城には目もくれず、
「今日はいろんなことがあった。本当に――いろんなことが――」
そうボソリと呟いたルドアは、しばらくその景色を眺めた後、
「さてと――」
と自室へ帰るために屋上の出入り口へと歩み始めた。扉のドアノブを回し、その先にある階段を下る。
自室のある五階まで階段を下りた後、ルドアは少し足取り重そうに廊下へと歩を進めた。
深夜という事もあって女子寮は階段以外に魔石灯の明かりがついておらず、階段を下りた先の廊下は、まるで洞穴のように真っ暗だった。
すべてを飲み込んでしまいそうな暗闇の中、静まり返った廊下に自分の息遣いと足音だけが響いている。さして何もないのに、暗がりにいるというだけで何故か緊張してしまう。次第に自分の心音が大きくなっていると感じ、意識すればするほど、それが耳元で聴こえていると錯覚を起こした。
「怖くない……怖くない……」
呪文のように小さく呟いて平静を装う彼女だったが、それを口にしたことで自分が怯えている事を認識してしまった。身体をすくめて、及び腰になる。
「お化けもぶん殴って倒せたらいいのに――」
そう弱音を吐いた彼女の耳に、スー、スーっと何かの音が聞こえてきた。その得体の知れない音にルドアは身体をビクンと跳ねさせる。
それは廊下の奥――ルドア達の自室がある方から聞こえいるようだった。自室に戻りたいだけなのに、その方向にそれを阻むものがある。もしかしたら、自室の入り口よりもさらに向こう側にその音の正体があるのかもしれない。そうであって欲しいと、心で強く願いながら、ルドアは歩を進める決心をする。
音を立てないよう、慎重に足を運び、息も殺してゆっくりと前へ進む。
その音は足を前に出すたびに、どんどん鮮明になっていく、何かをすするような音、それが不規則なリズムを刻んで響いている。
それを聞きながら暗闇を進む中で、ルドアの中にあった恐怖心は、次第にとある予感へと変わっていた。
光の全く届かない漆黒の中、ルドアは自室の扉が目視できるほど前進していた。同時に謎の音もそれだけ、はっきりと聞き取れるようになっていた。
――それは少女が泣いている声だった。
ルドア達の自室の扉の前に、うずくまっている人影がある。
「どうして、こんな時に、やっと――やっと前を向けるようになったのに……」
その赤髪の少女は赤いフード付きのコートを手に握り締め、地面にへたり込むように座っている。
その項には真っ赤なマグマを飲み込んだ傷のようなものが赤々と鈍い光を放っている。それは服の下の背中にまで続いているようだった。
その赤髪の少女の姿を見て、ルドアは全てを理解した。
彼女が事件性のない小火を引き起こした張本人なのだと。
戸惑いきったか細い声でルドアは少女の名前を呼んだ。
「アゼリア?」
その声を耳にして、ハッと小さく驚いたアゼリアはその涙でぐしゃぐしゃになった顔でルドアの事を見上げる。途端、アゼリアの口から零れたのは、
「嫌いにならないで――」
という、心の叫びにも似た言葉だった。
それをぶつけられてルドアは思わず一歩後ずさりしてしまった。すぐにでも抱きしめてあげたい気持ちがあるのに、まるで彼女を避けるみたいに、たじろいだ身体の制御が利かない。
その隙に、素早く立ち上がったアゼリアは、扉を開き瞬く間に自室の中に逃げ込んでいく。
硬直する身体に命令するでもするかのように、ルドアは焦りを孕んだ言葉を吐き出す。
「追いかけなきゃ!」
そうしてようやく前に出た足を、必死に動かして半開きになった扉をくぐり自室へと飛び込んだ。
玄関から見える景色――リビングの開け放たれた窓の窓枠に足をかけたアゼリアが見える。瞬間、ルドアの心臓が勢いよく跳ねた。それは誰がどう見たって、そこから飛び降りようとしているようにしか見えなかった。ここは五階だ。飛び降りたりすれば普通の人間はまず助からない。
「早まらないで!」
そう声を上げながら、ルドアはアゼリアの元へ駆け寄ろうとする。しかし、時すでに遅し、アゼリアは無言のまま何の躊躇もなく窓枠をくぐり、そして落下していった。、
ルドアは激突するほどの勢いで窓際まで駆け寄り、慌てて窓から下を覗く。そこに白い石畳の道を走っているアゼリアの姿が見えて、彼女は安堵でその場にぺたんと座り込んだ。
昼間、あの路地で――『事件性のない小火』の現場でルドアが追いかけたのは、アゼリアだった。
あの時自分がどんな振る舞いをして、どんな言葉を彼女に投げかけたのか――ルドアは思い出せなかった。ただの好奇心と達成感を求めて、彼女を追いかけてしまった。
彼女があの路地の最奥で、自分を見下ろしていた時、一体何を考えていたのか、それを想うと胸が苦しくて張り裂けそうになった。
落ちていく間際の、あの泣き腫らした彼女の悲しく虚ろな表情がルドアの脳裏にいつまでも貼り付いて消えなかった。