燃えたラカリナ
「丁度良かったじゃないか――切っ掛けが欲しかったんだろ?」
鼻にかかるほど伸びた黒髪の隙間から燃え盛る洋館を見詰めながら、ヴォルト=シュヴァルツァは物憂げに呟いた。
黒い虹彩に無数に飛び交う火の粉が映る。熱風が肌を掠める中、ほんの数メートル先で起きている火災に、彼はただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
三年間、彼はこの洋館にひきこもり続けた。シュヴァルツァ邸。五十年前に勃発した先の戦争――聖典戦争時代に英雄と謳われた白壁の魔術師――サタナ=シュヴァルツァの邸宅だ。
ヴォルトは養子という身であったが、サタナは籠り続けるヴォルトに対し「それでいい」と言ってくれた。申し訳なさを感じながらも、それに甘えている内に三年という年月が経ってしまった。
籠る場所が無ければ、ひきこもりは続けられない。切っ掛けというのはそういうものなのだろう。
山間にある小さな過疎村には不釣り合いなほど、立派な洋館だったが今は火達磨で見る影もない。
「それにしても、どうして急に――?」――火災なんか、と疑問の声を漏らしたヴォルトは振り返って村を見渡す。
山肌に生い茂った木々、山間のすり鉢状の窪地に点々と建てられた木造民家、棚田の境界に設けられた柵、道端の看板までも、目に入る全てが――
――燃えている――
朝方だというのに空を塞ぐように立ち込めた黒煙が曇天よりも暗く、夜空かと見紛う程に日の光を遮断している。
空の暗闇が火光を際立たせて、仄暗く赤く、絵に描いたような地獄絵図作り上げていた。
絶望的な状況を前に息苦しさがして、ヴォルトは羽織っている黒いフード付きのローブから覗くワイシャツの首元に着けたループタイを緩め、それでも足らないとばかりに首元のボタンを一つ外す。溜息を吐き、ふと視点を落とすと黒のスラックスと革靴が目に入った。ひきこもりが火事場から逃れてきたにしては上出来な装いだ。
ようやく冷静になってきたのか、
「外に出られる格好で良かった……」
などと気の緩んだ言葉が口からこぼれ出た。
その遠声を耳にしたのは、そんなタイミングだった。
「おーい! ヴォルトー!」
その少女の声はシュヴァルツァ邸から村の広場へと伸びる道の先から聞こえてきた。
ヴォルトはその声の方へ向き直って道の先に目をやる。
距離にして二〇メートル程離れた場所に、腰まで届く程の銀髪のロングヘアーを揺らしながら、めいっぱい両手を振っている少女の姿が見える。ヴォルトにはこの少女に見覚えがあった。返事をするように片手をあげて軽く振る。
少女はヴォルトが自分に気付いたと分かると、両手を振るのをやめて、駆け足になりながら向かってきた。
青い花柄の刺繍の入った白いワンピースとパンプス姿の彼女は、ヴォルトの目の前までやってくると、立ち止まるや否や頭をがっくりと下げ、膝に手をついて肩で息をしながら、
「……無事でよかった……」
と心配の言葉を口にした。彼女の透き通った蒼い瞳が少し潤んでいる。心底ヴォルトの身を案じていたであろう事が伺える。
彼女の名前はルナ=シュヴァルツァ。サタナ=シュヴァルツァの実の孫である。ヴォルトもルナも16歳と年齢が一緒な事もあり、続柄上は叔父と姪だが、兄妹のように親しくしている。ヴォルトがひきこもっている最中も、サタナと同じく彼を理解してくれた。ヴォルトにとっては掛け替えのない家族だ。
「ルナこそ、無事でよかった」
呼吸も落ち着いてきたのかルナは姿勢を正して、辺りをキョロキョロと見回す。
「あれ? おじいちゃんは?」
「少なくとも家にはいなかった。俺も外に飛び出す前に全室確認したが、ルナも爺さんもいなかったから、二人で出かけてるのかと思ったんだが――」
不安げな表情をするルナの肩にヴォルトはポンと手を置いて、
「あの人なら大丈夫だ。聖典戦争時代の英雄――白壁の魔術師なんて大層な肩書の持ち主だ。火災に巻き込まれたくらいじゃ何ともないさ」
自らに言い聞かせるように――
「そう――だよね……」
そう言葉にしたルナは依然として眉根を寄せていた。やはりサタナ本人の無事を確認するまでは、この不安が晴れる事はないのだろう。
(こんな時でも他人を思いやれる。ルナは本当に優しい子だ)
心優しいルナの思いやりに触れて、癒しにも似た感情が湧いたヴォルトはルナに気付かれないように小さく微笑んだ。
だが、依然としてラカリナは燃えている。いくら目を背けようとも、そこら中で踊り狂う炎達が絶望的な現実を突き付けてくる。
ヴォルトには一つ気がかりな事があった。それは『この火災はなぜ引き起こされたのか』という事だった。山火事にしては火の回りが早すぎる。人為的に――つまり放火されたのであれば、その犯人が存在するという事になる。
「ルナは外に居たんだよな? 火の手が上がった時、どんな状況だった?」
尋ねたルナは「うーんと」と声に出しながら記憶を辿る。
「多分、十分くらい前――村の広場の方がピカッて赤く光って、一瞬目を瞑ったんだけど、目を開いたら、もう村中が燃えてて……」
それを聞いたヴォルトは険しい表情をしながらボソッと呟いた。
「やっぱり魔術か……」
魔術とは、この世の全てを構成する根源たる力――魔力を変換し、ある任意の現象を引き起こす様々な術の総称である。
魔力は『この世の全ての形あるものを存在させている力』であり、これが失われれば、文字通り、存在自体を失う事になる。それは人も動物も、そして大地や海、空に瞬く星々ですら例外はない。
『魔術が行使され、結果ラカリナは炎上した』ヴォルトはそう推測していた。
(もし本当に魔術によって放火がなされたならば、その魔術を行った魔術師がこの村に今もいる可能性が高い。一刻も早くこの場を離れないと――)
――唐突に、そう思考しているヴォルトの右肩がポンと叩かれた。叫び声こそ上げなかったが、タイミングがタイミングだった事もあって、ヴォルトの身体が電撃にでも打たれたかのようにビクッと跳ねた。それを誤魔化すように、そのまま自らの右肩を叩いた人物がいるであろう背後に素早く向き直る。
そこにいたのは赤いフード付きのコートを羽織った無造作ヘアの茶髪の男だった。
「無事か?」
ヴォルトの顔を見るなり、そう言った男の声は疲れているのか気怠そうで、その虚ろな黒い瞳からも、まるで生気が感じられない。赤いコートの中に見えるワイシャツに黒いネクタイがだらしなく緩く絞められている。鞘に納められた直剣が腰にぶら下げられているのが目に入ってヴォルトは思わず息を飲んだ。
ルナも明らかに怪しい雰囲気の男に対し、怖いと思ったのか、ヴォルトの背後に隠れ、少しだけ顔を覗かせて男を警戒している。
そんな二人の様子を見て、男は不審がられていると察して焦ったのか、
「怪しい者じゃないさ」
と服装を見せびらかすように黒い手袋を着けた両手を広げた。
彼の羽織る赤いコートの右胸には、『飛竜に跨る甲冑の騎士が描かれたエンブレム』が刺繍されていた。よく見ると首元に白い軍服のものと思しき襟元がチラリと顔を覗かせている。それを見てルナは未だ拭い切れない怪訝さを引きずりながら質問する。
「もしかして――レイジス騎士団の団員さん……ですか?」
「見たら解るだろ? こんな格好してるヤツが他にいると思うか?」
レイジス騎士団は、ラカリナの属する大国――ペイオルカルナの治安維持組織にあたる団体だ。聖典戦争時代には軍隊としての側面が強かったが、戦争終結後四十五年という年月の中で、その役割が治安維持に推移していったという経緯を持つ。
その赤いコートには確かに騎士団の象徴である『飛竜に跨る甲冑の騎士のエンブレム』が描かれていた。
服装がどうこうより、その着こなしや纏う空気感の胡散臭さはぬぐい切れていないと思いつつも、その疑念を押し殺すように、
「――それもそうだな」
とヴォルトは頷いて見せた。ルナもヴォルトのその反応を見てようやく彼の背後から離れた。
誤解が解けたと思ったのか、騎士団員はやれやれといった感じで大きく溜息を吐いた後、
「村から出してやる。案内するからついて来てくれ」
そう言うと先導するようにシュヴァルツァ邸から村の外へと伸びる砂利道の方へ歩き出した。その半歩後ろを付いて歩くルナ。
それとは対照的に五メートル程距離をとって離れてヴォルトはついていく。
村中が燃えているとはいえシュヴァルツァ邸は村の中でも外周に近い位置に存在する。周囲を囲う森も火災に巻き込まれてはいるが、火災規模としてはあくまで村を覆う程度で、十数メートルも燃え盛る森を抜ければ、その先には火災は広がっていないように見えた。
この道を辿って行けば、村からは出られそうだ。
シュヴァルツァ邸から少し歩いた所で、ヴォルトは突然足を止めた。
「ルナ、何か落としたぞ」
そう彼女を呼び止めたヴォルトは握った手を前に突き出す。
「え? 何を落としちゃったんだろう?」
踵を返してヴォルトに駆け寄るルナ。ヴォルトは目の前にやってきたルナに見せるように手を開いたが、その手には何も握られていなかった。ルナが困惑の表情を浮かべていると、ヴォルトは唐突に男に対して口火を切った。
「アンタ、この辺じゃあ見ない顔だよな? 名前を訊ねてもいいか?」
それを聞いて男も立ち止まって、振り返りもせず、
「俺はノード=イングフォードだ」
そう名乗った男は、付け足すようにワンテンポ遅れて言葉を連ねた。
「面識がないのも無理はないだろうな。俺は麓の街に配属されている下っ端だからな」
「じゃあ火災があった時は、麓の街にいたのか?」
「あぁそうだよ。麓の街からこの村が燃えているのが見えたから飛竜に乗ってすっ飛んできたんだ」
ノードと名乗る男のその言葉を聞いたヴォルトは、
「なるほど」とそう一言だけ発した後、少し間を開けて「アンタ、団員じゃないだろ?」とぶっきらぼうに言い放った。
「――ヴォルト? 何言ってるの?」
理解できない事が連続で起こって、困り顔のまま固まっているルナ。
ノードは呆れたとばかりに、
「おいおい、まだ疑ってたのかよ?」と振り返りながら両手を広げてお道化て見せた。しかし、それは少し演技がかって感じるほど、オーバーリアクションで、その怪しさを隠し切れていないように思えた。
ヴォルトはそんなノードに対して淡々と言葉をぶつける。
「麓の街からラカリナまでは飛竜に乗っても二十分はかかる。火災発生からまだ十五分程度しかたっていない事を考えると、どう考えてもアンタがこの場に居る事はおかしいんだよ」
それを聞いて、恐怖が込み上げて来たルナは身を隠すようにヴォルトの背後へと回った。
正直これはヴォルトの仕掛けたブラフだった。
三年間もの間、家から一歩たりとも出ていないヴォルトが村に巡回に来る騎士団員の顔など知っているわけがない。
飛竜に騎乗して麓の街からラカリナまで所要時間がどれだけかかるかなど、もってのほかだ。
仮にこのノードと名乗る男が本物の騎士団員なのであれば、いくらでも弁明できるはず――。
「参ったなぁ」
後頭部を掻くようなしぐさと共にノードは本当に困り果てたといった様子で、
「俺は本当に村の外まで案内してやるつもりだったんだがな……」そう呟いた後、はぁと大きく溜息を吐いて、「皮肉だよな。こういう時、賢い方が馬鹿を見んだぜ」
その恨み言にも似たな声を発した途端、ノードは腰に下げた直剣の柄に素早く右手を伸ばした。
それとほぼ同時に、ヴォルトはノードに向かって右手を突き出す。
(こっちは丸腰だ。アレを抜かれたら、ルナを逃がす事すらできない。だったら使う以外に選択肢は――ない――)
ヴォルトの突き出した右手の先に、緑の光が空をなぞり、複雑怪奇な紋様を画く――魔術陣。魔術を行使する為の技法の一つだ。図形や文字を用い、描く事で魔力を制御し、任意の現象を引き起こす事のできる。魔術においては最も有名な手法ともいえる。
ノードの右手が直剣の柄を握った、それと時を同じくして、ヴォルトの緑の光を放つ魔術陣も完成した。
しかし、ヴォルトは未だに躊躇していた。
――この子はいずれ人を殺す!――
かつて浴びせられた罵声が脳裏をよぎった。それ振り払うようにヴォルトは首を横に振る。息を吐いて、目を瞑って、おまじないのように小さく呟いた。
「――魔術とは、魔力を変換する術だ――」
眼を見開いたヴォルトの右手の先で、魔術陣が強い光を放つ、それと同時に魔術陣の先から渦巻く突風が発生し、ノードの身体を巻き込む形で前方へと射出された。突風に晒されたノードは直剣の柄を握っていたこともあって防御姿勢をとる事ができず、凄まじい風圧に弾き飛ばされ、道の脇にあった燃え盛るボロ小屋の中に吸い込まれていった。ドンッと衝撃音がした後、ボロ小屋はノードの衝突に耐え切れなかったのか、火の粉を舞い上がらせながら崩れ去り、一瞬にして燃える瓦礫の山になってしまった。
緊張の糸が切れたのか、はたまた魔力を使った事による消耗か、ヴォルトはその場で座り込むと自らの右手をまじまじと見つめながら、ぼやくように言葉を吐き出す。
「なんだ……あれ以来試そうともしなかったが――案外平気じゃないか」
正直、魔術を使えるかどうかは一種の賭けだった。三年間という長すぎる時間の中、ヴォルトが魔術を使う事が無かったのもそうだが、彼には自分が魔術を使う事に対して不安があった。
座り込んでしまったヴォルトを気遣うようにルナが肩に手を置いてしゃがむ。
「ヴォルト……魔術を使っても大丈夫なの?」
「あぁ、どうやら平気らしい。昔感じたような違和感もない」
「――そうか、お前――魔術が使えたのか――」
その気怠そうな声が聞こえてきたのは、先程崩れ去ったボロ小屋の残骸の中だった。
今なお燃え盛る瓦礫の狭間から赤いコートを身に着けた片腕が突き出る。
ガラガラと残骸が崩れる中、その男は墓場から蘇った不死の怪物の如くゆっくりと這い出し、そして立ち上がった。
それは見紛うはずがない――ノード=イングフォードと名乗った男だった。