前編
王宮にある謁見の間で、彼女は予め伝えられていた言葉を聞いて、何の感情も浮かべることなく承諾をした。
これは、ただの茶番に過ぎない。
あの日、彼女が婚約を破棄された日には、もう決まっていたことだ。
「オーレリア・ノウジュ公爵令嬢、バルバ帝国のユージーン皇帝陛下に嫁ぎ、我が国との架け橋となれ」
「かしこまりました」
大勢の貴族たちが見つめる中、国王の命令にオーレリアはそう返事をしただけだった。
国王に近い場所にいたベリンダ王女の口元が、堪えきれなくなったのか微かに笑っている。
自分の思いのままになった様が面白いのだろう。
王女ともあろう方が、大勢の人がいる前であんな風に笑うなんてみっともない。
そんな王女の姿を見て、オーレリアと同じ思いを持った貴族が何人かはいただろう。
王女の隣で、オーレリアの元婚約者であるフレディが青ざめた顔で小さく震えていた。
何をそんなに震えているのかしら?
私との婚約を破棄をして、貴方がベリンダ王女と婚約した瞬間から、こうなることは分かっていたでしょうに……。
それとも、まさか分かっていなかったのかしら?
首を傾げたくなったが、まだ国王の前だ。大人しくしているしかない。
救いなのは、公爵令嬢の婚約者を寝取った娘を持ち、その所業を許した娘に甘い父親である国王の隣で、王妃が怒っていることくらいだろうか。
もちろん、言葉には出していないが、二人を見る顔が険しい。
フレディとは違う意味で、王妃の手は小さく震えていた。
あれは、怒りを我慢している姿だ。
「ユージーン陛下にはすでに八人の妻がいる。其方は九人目の妻として嫁ぐことになるが、其方なら大丈夫だろう」
国王の白々しい言葉など頭の中には入ってこない。
愚かな国王陛下。
その言葉を逆にとらえれば、本来、嫁ぐはずだったベリンダ王女では務まらないと言っているようなものだ。
帝国に嫁ぐための王女教育をしっかり受けてきたはずの王女では出来ないことを、いくら公爵家の娘とはいえ、一介の貴族令嬢にやれと命令している。
しかもオーレリアにはつい先日まで幼い頃からの婚約者がおり、他国に、まして大国であるバルバ帝国に嫁ぐ教育など受けてきてはいない。
厄介払いだと、誰もが確信していた。
リンド王国は、小さな国だ。
だが、鉱山資源が豊かなので、他国とはその輸出で均衡を保っていた。
とはいえ、戦争を仕掛けられれば負けてしまうことは明白だったので、いつの時代も強国の庇護下に入っていた。
今の時代は、バルバ帝国がそれだ。
今までの強国との違いは、バルバ帝国がすぐ隣にあるような国ではなく、いくつかの国を経由した先にある巨大な帝国だということだ。
かの帝国はリンド王国以上の鉱山資源を持っているので、正直なところリンド王国と結ぶ必要などない。
リンド王国とバルバ帝国の間にある国が全て帝国の支配下に入ったので、リンド王国も急いで使者を送ったのだ。
バルバ帝国から見れば遠くにある小国の一つにすぎなかったが、それでも珍しい鉱石が採れるリンド王国はそれなりにうまみがあるようで、何の問題もなくバルバ帝国の支配下に入ることを許された。
そしてその証として、幼い王女が年頃になったら嫁がせることにしたのだ。
それが、もう十数年前の話だ。
皇帝が代替わりし、若き皇帝になっても帝国の強さは揺るがず、後宮には各国から選りすぐりの美女がひしめいているのだと言われている。
事実、彼にはすでに八人の妻がいる。
オーレリアは、その九番目の妻として送られる。
それは、本来ならベリンダ王女の役割だった。
リンド王家の直系の姫は、ベリンダ王女ただ一人。
だが、ベリンダ王女は密かにその役目を嫌がっていた。
この国にいれば王女としていられる。娘に甘い父王に甘やかしてもらえる。
国王は、幼い頃から帝国に嫁ぐと決められていた娘を不憫に思っており、何かと彼女をかばって甘やかしていたのだ。
王妃が帝国に出しても恥ずかしくない娘に仕上げようとしていたのを、国王が悉く邪魔をしていた。
その結果、外に行きたくなかったベリンダ王女は、オーレリアの婚約者だったフレディを寝取るという暴挙に出たのだ。
フレディのことは、夜会などで見かけて気に入っていたらしい。
確かに、フレディは女性から騒がれる容姿をしている。
生まれも侯爵家なので悪くはない。
中身は多少優柔不断なところはあるが、女性に対しては優しい。
噂に聞く、皇帝陛下とは真逆の青年だ。
皇帝陛下は、武人として剣を持ち、自ら戦場に立つような気質の方らしく、聞こえてくる噂は荒々しいものばかりだった。
ベリンダ王女は、そんな皇帝を嫌悪していた。
なぜ、私がそんな方のもとに嫁がなくてはいけないのかしら?
最初は悲劇のヒロインよろしくはらはらと涙を流し、周りの同情を買っていた。
王にはその手が通じたが、母である王妃にはその手が通じず、王女に同情的だった周囲の者たちは替えられ、まともな貴族たちに、それこそが王女の役目であると説かれた。
だから、方向性を変えた。
皇帝に嫁ぐのだ。
当然、純潔は求められる。
ならば、それをなくせばいい。そして、自分の純潔を奪ったとしてその者と結婚してしまえばいい。
短絡的にそう思い。それを実行したのだ。
その標的となったのが、フレディだった。
ベリンダ王女は、己の夫となる者は見目が良く、高位貴族でなければ意味がないと考えて、フレディに狙いを定めた。
そこには、公爵令嬢だったオーレリアに対する悪意も隠されていた。
家庭教師たちは、いつもオーレリアを引き合いに出した。
公爵令嬢であるオーレリア嬢に出来たのだから、ベリンダ王女にだって出来るはず。
何度、その言葉を聞いたことか。
その度に憎悪を募らせ、オーレリアという名前を聞くのも嫌になった。
自分が気に入ったフレディがオーレリアの婚約者だということを知り、オーレリアに対する憎悪はますます激しくなっていった。
そして、王宮で開かれたとある夜会で、乳母子である侍女に命じて密かにフレディに強い酒と媚薬を飲ませてベリンダ王女の待つ部屋に誘導した。
そして、フレディを寝取ったのだ。
翌朝、予定通り部屋に入ってきた侍女が騒いで、あっという間にベリンダ王女とフレディのことは皆が知ることになった。
国王は怒ったが、同時にこれで娘を手放さずに済むと思った。
だがそうなると、バルバ帝国に嫁ぐ娘がいなくなる。
ベリンダ王女は、悩んでいた父王の耳元で囁いた。
私とノウジュ公爵令嬢を入れ替えてしまえばいい。
娘可愛さに、国王はその提案に乗ったのだった。
その話がオーレリアの下に届いた時、オーレリアは呆然となった。
フレディとは幼い頃からの婚約者で、燃えるような恋とは言わないが、穏やかで優しい気持ちを育んできた。
『ぼくたち、しょうらいはけっこんしようね』
そう言ってオーレリアの頭に花冠を載せてくれた小さなフレディ。
それが始まりだった。
公爵家の一人娘として生まれたオーレリアと、侯爵家の次男として生まれたフレディ。
婿養子になって、一緒に家を継いでくれるはずの人だった。
そのためにずっと一緒に勉強もしてきたのだ。
周囲も二人の仲の良さを微笑ましく見守ってくれていたのだ。
それなのに、急に婚約を解消され、フレディが王女の婚約者になったのだという。
オーレリアはその日、ベッドの中でずっと泣いていた。
なぜ?なぜこんなことに?
考えれば考えるほど、ただ悲しくなった。
けれど、もうフレディのことは諦めなくてはいけない。
一日中泣き続けて、ようやく部屋から出てきたオーレリアは、父の部屋へと向かった。
泣きはらしたせいで腫れた顔は、冷やして何とか見られる程度には戻っていたが、瞳はまだ赤いままだ。
だがオーレリアには、公爵令嬢としてすぐに父と話し合わなければならないことがあった。
「お父様」
執務室に行くと、父は渋い顔をしていた。
「お父様、何て顔をなさっているんですか?」
「それはこっちの言葉だ、オーリィ」
何とも言えない顔をした父娘は、お互いの顔を見て小さく笑った。
「私とフレディ様の婚約は解消になりました」
「そうだな」
「ベリンダ王女はユージーン陛下に嫁げません」
「ああ」
「なら、私が嫁ぐしかありませんね」
「……ああ……」
ベリンダ王女は、帝国に嫁ぐはずの王女だった。
すでに王女の純潔はフレディによって散らされ、とてもではないが皇帝に嫁ぐことなど出来ない。
ノウジュ公爵家は、初代国王の次男が興した家だ。
過去に何度も王族の血を入れてきた家でもある。
もちろんオーレリアにも王家の血は入っている。
外交を一手に担ってきたノウジュ公爵は、この婚姻の意味を深く理解していた。
皇帝に嫁ぐのは人質や融和政策の意味もあるが、皇帝家に嫁ぐことで万が一、他国がこの国を侵略して王族の血が途絶えても、リンド王家の血を持つ皇族が王位を継げるからだ。
血を拡散させ守るという意味もあった。
「国王陛下よりこの手紙がきた」
そこには、ベリンダ王女とオーレリアを入れ替えるように、と書かれていた。
つまり王家も、オーレリアがバルバ帝国の皇帝に嫁ぐということを当然と思っているのだ。
だが、大帝国の後宮で小国の公爵家の娘に何が出来るというのだろう。
小国とはいえ王族だからこそ出来ることがあるというのに。
それに王族ならば手を付けられる可能性は高いが、王家の血を引くとはいえ小国の公爵家の娘ならばそのまま捨て置かれる可能性だってあるのだ。
だが、約束は守らなくてはいけない。
王女を送るという約束をしている以上、直系ではないが王家の血を引くオーレリアを国王の養女にして送り出すしかない。
約束一つ守れない国を、帝国は信頼しないだろう。
オーレリアにはもう、皇帝に嫁ぐ道しか残されていなかった。
ベリンダ王女以外に王女はおらず、王女以外で王家の血を引く年頃の令嬢はオーレリアだけなのだ。
ノウジュ公爵は、手紙に何一つ具体的なことが書かれていなかったことが気になった。さすがに国王としてそれくらいの判断は出来るだろうとは思っているが、万が一ということもある。
もし国王がオーレリアを公爵令嬢のままでバルバ帝国に送るのならば、こちらも色々と考えなければならない。娘だけを国の犠牲にするわけにはいかなかった。
オーレリアは当然ながら、皇帝に嫁ぐ教育など受けてこなかった。だが嫁ぐ以上、付け焼き刃だとしても何とかするしかない。
オーレリアは帝国に嫁ぐまでの僅かな期間、その時間の全てを勉強に充てるしかなかった。
先頭をきって教育に来てくれたのは王妃だった。
娘の愚かさを詫び、オーレリアの移動時間も惜しいと言って出来る限り公爵邸に来て教育を施してくれた。
オーレリアは、次から次へと来る教師たちに時間を取られ、フレディとは一切会うことがなかった。
そして、今日という茶番劇の日を迎えたのだった。