〈桜花〉
〈桜花〉
***
『ねえ、大丈夫?』
眠っていた僕は、優しい声に起こされた。
『あ、起きた。全然動かないから心配したよ』
声の主は安心したように微笑んだ。男の子─といっても僕と同じくらい、高校生かな。
『ここは、どこなのかな。僕は今まで兄さんと一緒にいたはずなんだけど、急に真っ暗になっちゃって…』
そう言うと、手を伸ばして僕を抱き上げた。温かくて安心したけど…
─あれ、僕は…
いつの間にか僕は黒猫になっていた。
何で…僕は必死で記憶を辿った。
─確か事故で入院してて、さっきまで父さんも母さんも、姉さんもいて…それで…
そうか…死んだんだっけ。
すとんと事実が降りてきた。自分でも不思議なくらい冷静だった。
1年前に交通事故にあってから、僕はずっと意識が戻らずにいた。初めのうちは触れられた感覚もあったし、喋ることはできなくても周りの声は聞こえていた。脳波の形や微細な生体反応に、僕の意思をのせることができればよかったのだけど、そこまでの力は残ってなかったみたいだ。
目を覚ます可能性は限りなくゼロに近いと、主治医の先生は言っていた。僕の家族はほんの僅かでも望みがあるのならと、諦めなかった。だけど、日を追うごとに僕の体は弱っていった。人工呼吸器が付けられ、一日中ほとんど眠ったように何も感じられなくなっていった。
多分皆からは、僕はずっと穏やかな顔で眠っているように見えただろう。でも、本当はいつか来る「最期」、いや、それ以上に「今」が怖くてたまらなかった。
寝ても覚めても真っ白な世界。何も聞こえない、何も感じない。なのにほんの時折、自分がまだ生きてるとわかる瞬間がある。だからと言ってそれが嬉しいのかどうか、だんだんわからなくなっていった。
もどかしいこの気持ちを叫ぶことすらできない。
誰かに伝える機会もなく、もう誰かのためにできることもない。これがいつまで続くのかわからない。ただ静かに「最期」を待っているだけ。
─あの時の僕に、希望はあっただろうか…
次に意識が途切れたら、死んでるのかもしれない。そんな日々を何度となく繰り返してきた。
その無限に続くかと思われた1年が終わったんだ。
─でも何で猫なんだろう…
その時、遠くから誰かが呼んでいる気がした。寂しくて、つらくて、とても困ってるみたいだった。僕は状況がわからないなりに、その人の元へ行かなければならないとだけは感じていた。
『誰かが呼んでるね』
この人にも聞こえるのか…。僕は短く鳴いて答えた。
『僕も兄さんを探さなきゃ。一緒に行ってもいいかな?』
僕に決められることではなかったけど、彼の手がとても温かかったので、この人と一緒にいるのも悪くないなと思った。僕は腕から抜け出して飛び降りると、彼とならんで歩き出した。
どのくらい眠ってたんだろう─
僕が目を開けると、すぐ隣に青年の姿のナギがいた。
『おう、やっと起きたか』
本を読んでいたナギが微笑んだ。
『わあ、なにこれ。キレイだね』
辺り一面が桜の花びらで埋め尽くされていた。あとからあとから、舞い落ちてくる。
『疲れただろ。ずいぶん眠ってたからな。もう桜の季節なんだ』
『…仁は?』
ナギは黙ってうなずいた。
『大丈夫。優も戻ってきた』
『そっか、よかった』
ふたりがこれからも一緒なら、僕はもう何も要らない。立ち上がって伸びをして、少し歩いたところで違和感に気づいた。
『あれ?』
『今気づいたのか。時間を操作するのにだいぶ体力を消耗したからな。ずっと眠ってたのも回復するためだったんだろうな』
ナギが頭を優しく撫でてくれた。僕の体は小さくなって、子猫になっていた。
『少しは大人になれたと思ったのに、またやり直しなの?』
ナギは楽しそうに笑った。
『まあ、そう言うな。課長から、辞令を預かってる』
課長さんは僕らを管理してる人なんだけど、天使の上司なのでナギが半分冗談、半分敬愛を込めて神と呼んでるだけで、僕は面識がなかった。
『課長も優の力の凄さに舌を巻いてたよ。こんな人間、見たことないって』
僕は急に不安になってナギに聞いた。
『ナギ、僕自身は消えても構わないって思ってたけど、優と僕が今まで会った人たちはどうなったの?
紗季子さんや栞奈ちゃんは?遥人は?』
優が生きてるなら、僕の中に入り込むことはない。仁と僕が出会うこともない。さっき甦った記憶だと、僕は紗季子さんに会う前から優と一緒だった。そうなると、依頼人の皆とも会ってないことになってしまうんだろうか。
『…詳しいことはよくわかんないけどさ。課長の持論は「人生に無駄なことなし」なんだと』
『ムダはない…?』
『時間の逆説とか、平行世界とかいろいろあるけど、とにかくおまえがしてきたことは全てそのまま残ってるんだ』
『よかった!』
『「優」がおまえと一緒に皆を救ったから、おまえと仁も出会えたわけだし、優のこともわかった。そして、ふたりを救う方法も』
『そういう、ことか』
『それから、仁はおまえにとって98人目の依頼人だったよな。そして、優が99人目。100人に達したから少し休んでもいいってさ』
『それじゃ1人足りないじゃん』
ナギは僕を指差した。
『おまえだよ、黒猫のノア。いや、浅倉輝だっけ。ややこしいんだけどさ』
『僕?』
『…おまえも事故にあってからは大変だったんだな。でももう一度、誰かのために生きるのも悪くなかっただろ?少し主旨からは外れるが、仁を救うことによって優とおまえも救われた。課長はそう考えたみたいだな』
その気持ちがとても嬉しかった。いつか、課長さんに会いたい。ちゃんとお礼を言いたい。
『…僕、課長さんのそういうとこ好きだよ』
『俺もだよ。いい加減なようでちゃんと考えてくれて。さすがだなって思う』
ナギも笑いながら1枚の書類を僕に見せた。
『これが辞令だ。ただし、現在の記憶は失くなる』
読んでいた僕はわくわくしてきた。
『…いいよ、それでも』
『俺とは会えなくなるのにか?』
『意地悪言わないで。それが寂しいのは僕も一緒だよ』
『戻ってきたら、また相棒にしてやるよ』
『記憶がないから無理かもね』
『こいつ!』
ナギが笑いながら手を伸ばして、僕をつかまえようとしたので、僕はひらりとかわした。桜の花びらは降り積もってクッションみたいにふかふかだった。2人が動くと花びらが辺りにひらひらと舞った。
『つかまえたぞ』
『離せよ』
僕はじたばた暴れたが、子猫の大きさの僕はナギの手の中にすっぽりおさまってしまうので、どうにも動けなかった。ナギは少しだけ手を緩めて真顔で言った。
『依頼人が抱えてる苦悩とか葛藤とか、死を選ぶ本当の理由なんて、本人にしかわからないよな…』
『…本当のところはね。でも、すべてを理解するなんて傲慢かもしれないけど、僕はできることならそうしたいと思ってるよ』
『…なあ、ノア。俺たちの仕事っていったい何だろうって、時々考えるんだ…』
『ナギも?』
『うん。絶対に必要なんだとは思うけど、ない方が世の中平和だってことだよな』
『僕もそう思う時があるよ。なんか切なくなる』
2人ともしばらく黙ってしまった。
『でも、おまえに会えてよかったよ。一緒に仕事ができて…楽しいって言うと語弊があるけど、充実してたって言うか、達成感あるって言うか』
『…ありがとう。それに僕らにしかできないこともたくさんあったと思うよ。僕もナギに会えてよかった』
僕は両方の小さな前足でナギの手を軽く握った。
『おまえが戻ってきたら、絶対見つけてやる。オッドアイの黒猫はおまえだけだから、きっとすぐわかる』
『うん。お願いするよ』
ナギが寂しそうに笑った。
『…もう時間だ、ノア。さよならだ』
『うん、またね。ナギ』
ナギが僕の頭に片手をかざした。僕はすうっと意識が薄れていって、ナギに抱かれたまま眠ってしまった。
『楽しんでこい、輝』
ナギの言葉が遠くに聞こえた。
***
「兄さん、早く!」
「ちょっと待って。優も荷物持ってよ」
俺は息を切らしながら言った。
桜が満開になり、天気もいいので近くの公園でお昼を食べようと言い出したのは、優の方だった。
大学生になった優は、俺の住んでるマンションに転がり込んできた。一緒に暮らすのは楽しいけど、いつまでも甘やかしてるとこうだもんな…
「弁当を用意するのも俺だし」
「僕だってコーヒー淹れたよ」
「締め切りを延ばしてもらっただけで、俺はまだ仕事が残ってるんだからな」
「あ、僕もレポート書かなきゃだった」
でも、俺は優に弱い。そして優はそれをちゃんとわかってる。敵わないんだよな…
「…わかったよ。これどっちか持って」
弁当を入れたリュックをひとつ優に預けて、俺はシートを敷く場所を探していた。
「あの木の下にしよう」
いちばん陽当たりのいい場所に、大きな桜の樹があった。近づいていくと、すぐそばで猫の鳴き声が聞こえた。
「子猫だね」
優も気づいた。
「いた。あそこ」
指差す先に小さな黒猫が、自分を見つけてくれと言わんばかりに必死に鳴き声をあげていた。
真っ黒な体に金と碧のオッドアイ。足元もまだ覚束ない。
「かわいいな」
優は早速抱き上げて、腕の中にそっとかかえた。安心したのか、子猫はおとなしくなった。
「連れて帰ろうよ、兄さん」
「言うと思った」
シートを広げて、俺は笑いながら言った。
「ちゃんと面倒見ろよ」
「うん。名前なにがいいかな」
「んー、そうだな…」
しばらく考えて、2人で声を揃えた。
「ノア!」
子猫が嬉しそうに鳴いた。
***
◆◆ノア 黒猫の使徒◆◆
貴公は先の依頼に於いて、多大なる貢献を以てこれを成し遂げた。
よって特別に休暇を与えるものとする。
特に期間の定めはないが、下記の条件を遵守すること。
─記
一、猫としての天寿を全うすること。
一、現在の記憶は引き継げないものとする。
尚、行き先はナギに一任する。
Fin
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
桜の花が残っているうちに書き上げることができて、まずはほっとしています。
まだまだ表現力が足りないなあと思いつつ、今も困ってる誰かのもとに、ノアがいてくれたらなと願っています。誰かが誰かの力に、きっとなれると思います。