〈離愁〉
〈離愁〉
***
また暗闇が戻ってきた。
僕は意識を集中して優を呼んでみた。
『優、聞こえる?』
『…誰?』
『僕はノア。仁と一緒にいるんだよ』
『兄さんは、元気なの?』
声は元気そうだ。でもどこにいるのか、すごく声が遠くに聞こえる。
『残念だけど、あんまり。ここには、君がいないから』
『確か、兄さんと旅行に来てたはずなんだけど』
『そうだよ。でも、はぐれちゃったんだ』
『毎朝目が覚めると、ひとりで海辺を歩いてるんだ。風は強いけどすごく天気がよくて、散歩するのは気持ちがいいんだけど、夕方が近づくと突然苦しくなるんだ。目の前が真っ暗になって、気がつくとまた次の日の朝になってて…。それがずっと繰り返されてる…』
優の声がそこで途切れ、ナギが何かを思い出したように、はっとした。
『…「朧間」だ。前に聞いたことがある。生死が定まらないまま漂っている人たちがいるところだ』
『優は死んではいない。多分、仁のことを今も待ってるんだ』
─2年半もの間、ずっと…仁を救うために
『…それじゃ、優は仁のためにずっと朧間に留まってたのか』
『どういう巡り合わせなのかは、わからないけどね。でも、そんなことってあるのかな』
ナギは首を横に振った。
『そういう場所があるとは聞いてたけど、本当に人がいるなんて…しかも何年も』
『…ねえ、ナギ。考えたんだけど、あの時の優を仁に助けてもらうんだ。そうすれば二人はまた一緒に過ごせるかもしれない』
何でそんなことを思いついたのか、わからない。でも、僕はそれが当たり前のように言葉にしていた。ふたりがお互いを待ち続けているなら、会わせてあげればいいんじゃないかって。
ナギは驚いて僕の顔を見つめた。
『…でも、もしそれが成功したら、そこから始まるのが仁の新しい未来なんだ。優が行方不明にならなければ、おまえと仁が出会うことはない。つまり…』
『…そう、僕が消えるって訳だ』
消滅するっていうのは、本当だったんだ。だけど、不思議と僕の心は穏やかだった。
『おまえは、それでいいのか』
『そりゃ、嫌だよ。仁にもナギにも会えなくなるなんて。でも、僕は仁が幸せなら、ずっと笑ってくれるならそれでいい』
ナギがため息をついた。
『…おまえが何で全力でみんなと向き合ってこれたのか、ようやくわかったよ。おまえも大した力を持ってると思ってたけど、優と一緒にいるからだったんだな』
『優は仁にもみんなにも愛されてたんだね』
『ふつうは愛情をもらった分しか、他人には分けてやれないからな。優は自分が愛された以上に、皆を救うことができる稀有な人間だったんだ』
『うん』
僕は自分が褒められたみたいに嬉しくなった。
その夜、眠りについた仁のそばに座って、僕は仁をじっと見つめて呼びかけた。
『仁』
仁はすぐに僕を感じとったみたいだ。
『…ノアが、話してるのか?』
『うん、そうだよ。あのね、優からの伝言があるんだ』
『…何を、言ってるんだ、ノア。優は…』
『優は、仁のことをずっと待ってる。あの日あの時のままで』
『そんなはず、ないだろ…』
『聞いて、仁。あの日の優を必ずつかまえて。優を絶対に離さないで』
『ノア、待って。どういう意味だよ』
『忘れないで。波にのまれる前に、優を引き戻すんだ。それだけだよ。そしたらまた優に会えるから。大丈夫、仁ならきっとできるよ』
『…ノア、おまえ、もう行っちゃうのか?』
優が帰ってくれば、仁は仁に戻れる。それでよかった。僕は笑ってさよならするつもりだった。
『……』
『ノア?』
言葉が出てこなくなった。何かしゃべると涙がこぼれそうだった。
『ノア!まだそこにいるんだろ』
『…いるよ』
心地よい低音の声、温かい手、優しい笑顔─
僕は仁の優しさに包まれて過ごした日々を思い出した。2年足らずの間に、こんなにも仁のことを大好きになっていたなんて。
ナギが仕事に差し支えると言った意味が、わかった気がした。今はふたりのためにやらなければならないことがあるのに、集中できなかった。弱気な自分を振りきるように、僕は言った。
『でも、もう行くね。ありがとう、仁。僕と一緒にいてくれて』
『それは、俺のほうだろ』
『僕もそう思ってたけど、逆だったんだ。今になって、わかったよ』
癒されていたのは、むしろ僕のほうだった。
『さよなら、仁』
***
ノアの声がふっつり途切れて、俺は目が覚めた。
辺りを見回してノアを探したが、もうどこにも姿はなかった。
─夢じゃ、なかった…
ノアは別れを言いに来たんだ。でも何でこんな急に…
俺は、まだノアに何も…
─それに、優のこと、絶対に離すなって
思いがけず優のことを思い出したせいか、2年半の間心の奥に閉じこめていた記憶が、急によみがえってきた。
夏の気配が残っていた。優がいなくなったあの夏の…
蝉しぐれが、まだ聞こえていた。
『専門家の話では、「戻り流れ」という現象だったらしいんです』
従兄の篤さんは、詳しい話を両親と俺に聞かせてくれた。あの頃の俺たちは、優がいなくなってから何も手につかなかった。表立ったことは全部、篤さんがやってくれた。遺族への説明会にも彼が出てくれたのだ。
『戻り流れ…』
父さんが呟くように繰り返した。聞いたことのない言葉だった。
『あの時は台風が近づいていて、うねりも風も強かったんです。他の地域でも水難事故が相次いだけど、あの海岸の地形にも要因があったらしくて…』
『俺が…止めてれば』
優は波に消えたまま、見つからなかった。
『俺が、もっとちゃんとあいつを見てたら…』
『仁くん、そんなに自分を責めないで。あの引き波の速さでは、人間には何もできることはないそうだよ』
『でも、あんなに近くにいたのに。もっと早く手を伸ばしてたら、あいつをつかまえられたのにっ』
俺は拳を壁に叩きつけた。母さんが泣き出した。
誰も俺を責めなかったけど、俺はそれがとてもつらかった。
─いっそのこと、お前のせいだと言われたほうが…
明るくて素直な優は、みんなから愛されていた。両親も彼を可愛がり、俺もそれを妬く暇もないくらい優が大好きだった。頼りない俺を兄と慕ってくれた、自慢の弟だった。
─それなのに俺は、あいつに何もしてやれなかった。
最後の最後まで。
『忘れないで。大丈夫、仁ならきっとできるよ』
ノアの言葉が脳裡に響きわたった。
そして突然、夏の強い陽射しが照りつけた。
俺は眩しくて目をつぶった─
晴れ渡った青い空と、同じくらい青い海がどこまでも続いていた。俺は優とふたりで、白波が繰り返し砕け散る砂浜を歩いていた。
─これは、あの夏の…
俺の卒業製作の素材探しの旅に、優も連れていったんだ。天気に恵まれて、あちこち見て回ったけど、優はどこへ行っても景色に見とれて、とても喜んでいた。
あの日は天気はよかったけど、風がとても強かった。そういや、台風が近づいていると天気予報で言ってたな。
『結局、俺のスケッチ旅行に付き合わせちゃったな』
あの時の会話が、自然に口から出てくる。
─何だ、これ。既視感か…
『ううん、楽しかったよ。どこもキレイだったし、天気もよかったし』
『そんならよかったけど。今日はもう東京に戻るからな』
『就活、どうするの?』
『それな。忘れてたのに思い出させないでくれよ』
『あはは。ごめん』
優が無邪気に笑った。その笑顔に、俺は泣き出しそうになった。ああ、優だ…
─俺は今、あの夏の日にいるんだ。優と一緒に
その時、ひときわ強い風が吹いて優の帽子が飛ばされた。風は海に向かって吹いていたので、帽子はあっという間に波の合間に見えなくなった。
『あっ』
優は波打ち際へ走り出した。
『優!』
『すぐ戻る!』
─優、ダメだ、行くな!
体がすぐに動かず、優の背中が遠くなっていった。
優はサンダルのまま海に入り、すぐ先に見える帽子を掴もうと手を伸ばしながら進んでいた。
『優を絶対に離さないで』
ノアの声がまた響いた。
俺はようやく走り出した。
早く、速く。波が優をのみ込む前に─
引き波に足を掬われて、優はしりもちをついた。
『わっ』
びしょ濡れになった優は、笑って俺の方を振り向いた。
あの日の最後に見た優の笑顔。
それをまた見たいと思った。このまま会えなくなるなんて、絶対に嫌だ。
俺は精一杯手を伸ばして、背中から優を抱きしめると、両足をぐっと踏みしめて優を引き寄せた。
同時に大波がしぶきをあげて、砂浜に倒れこんだ俺たちを盛大に濡らしていった。波はそのまま海へ戻っていった。
「あーあ、兄さんもびしょびしょだ」
優の声が聞こえてきて、はっとした。
「ごめん、せっかく買ってくれた帽子が…」
俺を振り向いた優が、急に真顔になった。
「…どうしたの、兄さん」
「え?」
「何で、泣いてるの?」
─泣く…?
波をかぶったせいで顔が濡れたのかと思っていた。
だけど違った。涙があふれて止まらなかった。
なぜかとても嬉しくて。でも、同じくらい寂しくて。
理由はわからなかったけど、この気持ちを忘れてはいけないような気がした。
「波がかかったからだろ。おまえのせいじゃないか」
照れ隠しで俺が笑いながら優の頭を小突くと、優はまた弾けるように笑った。