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黒猫桜花譚  作者: 星空
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〈慟哭〉

〈慟哭〉

 

 仁の家に来てから2度目の春がめぐってきていた。

時折来るフラッシュバック以外、取り立てて何も起こらずにいた。間隔はバラバラで、2週続けて起こることもあれば、1ヶ月近く開くときもあった。

 僕にあげるために食事の用意をするからか、前よりはきちんと食べるようになり、骸骨(がいこつ)みたいな顔が柔和になった。

ただ、依然として仁が何を(うれ)いているのか判然としなかった。相変わらずゆったりとした暮らしを続けているのが、かえって僕の心をざわざわさせた。


 ナギが色々と調べてくれて、わかったことがいくつかあった。

 「ゆう」は、仁の弟だった。

仁より5歳年下で、2年前の夏に姿を消した時はまだ高校生だった。未だにいなくなった理由も、生死もわからないままだ。そのことで仁が沈んでいるのは、わかっていたが、詳細までは突き止められなかった。


─家族は、このまま仁を放っておくつもりなんだろうか…


 仁もそうだが、家族の誰も「ゆう」の話を持ち出さない。意識して思い出さないようにしてるみたいだった。

多分、仁に対しても見放すと言うよりは、腫れ物に触るような扱いなんだと思う。

弟は行方不明、兄は心を閉ざしてしまって、仲のよかった兄弟を見ることが叶わなくなった家族も、心痛のあまり為すすべがなかったのだろう。「ゆう」がどこかで生きているかもしれないと、一縷(いちる)の望みを託してしまうのは、仕方のないことのように思えた。


─仁は、僕に心を開いてないわけじゃない。でも、なぜこんなに長い間何も掴めないんだろう…


 人が困難を乗り越える力は、その人が大切にしているものや、物事の感じ方や受け止め方で変わってくる。他の人から見たら、そんなことでと思うようなことでも、本人にしたらボーダーラインに達することはよくあることだ。メンタルが強いとか弱いとか、悲しみの大きさとか、そんなことだけじゃない。

 僕は仁が自分から話してくれるのを、ずっと待っているつもりだった。それができるなら、仁が優のことを乗り越えようと考え始めてるからだ。そしてこの数週間、その兆しが見えてきたのかもしれないと僕は感じていた。

頭の片隅ではずっと気になっていたけど、一方では仁と一緒にいると僕はただの猫でいられたから、それは楽しかったし、ずっとこのままでもいいなんて考えたりもした。


でも、やっぱり静かな日々は終わりを告げることになった。しかも予想もしなかった形で。


 珍しく昼間にフラッシュバックを起こした仁は床に座りこみ、ソファに頭を預けて両手でカバーをきつく握りしめていた。息は荒く、目をぎゅっとつぶっていたが急に大声で叫んだ。

「優!」

その瞬間、僕のなかでその名前がこだました。

初めて聞いたときは、誰かの名前でしかなかった。そのあとに、弟の「ゆう」のことだと知った。

だけど今は、誰のことを呼んだのかはっきりわかったんだ。


─どういうこと…「優」は、


肩を上下させて、仁はソファに身を沈めた。いつもなら僕はそばに駆けつけるはずが、動けずにいた。体中が粟立っていた。


─僕の…中にいる…?


「…ノア?」

そばに来ないのを不思議に思った仁が、僕を呼んだ。僕ははっとして、すぐに仁の膝の上に乗った。

さっきの感覚は間違いじゃない。僕の中の「優」が反応したのが、はっきりとわかった。

 もし、僕の中に優がいるなら、猫になる前は優だったことになる。だけどそれは、優がすでに死んでしまっていることを意味している。

でも、そうだとすると変だ。僕には「優」としての記憶が一切ない。前世の記憶は引き継がれるはずだった。たとえ断片的で不完全なものであっても。突然見つかった優の情報は、まるでピースが揃わないパズルのようだった。


─仁はずっと揺れてるのか…話したいのと、忘れたいのと


 この2年半もの間、仁はトラウマからずっと逃げ続けていた。つらい気持ちのまま、時間だけが過ぎていった。そばにいること以外に、仁にしてあげられることがないのは僕も歯がゆかった。

仁が優のことを必死で思い出すまいとしているなら、僕に何も伝わらないことは納得がいく。つらい記憶を閉じこめようとしているのか…

 でもそれは人間の防衛本能でもある。無理に思い出させると、仁が一気にボーダーを越えてしまうかもしれなかった。


─僕の中の優と、話すことはできないかな


その夜、僕はナギにとりあえず明日会いたいことだけを伝えると、仁の隣で眠りについた。


 翌朝、ナギは来てくれた。

仁は他の依頼人と比べたら落ち着いた状態だったから、頻繁に連絡する必要もなかったので、ナギと会うのも久しぶりだった。

ベランダに出してもらうと、僕はすぐに本題に入った。

『…おまえの中に、仁の弟が?』

『仁はずっとあんな感じで、話をさせるにはまだ時間がかかりそうなんだ。家族だって同じような状態で無理そうだし、「優」に聞いてみようかと思って』

ナギはしばらく考え込んでいた。

『…確かに、それは突破口になるかもしれない。でも、リスクも大きそうだな』

『うん、僕もそう思う』

『もし、優から話を聞き出せたとして、それからどうするんだ?』

『仁は僕に心を閉ざしてるわけじゃない。呼びかければ話をしたり、優の言葉を伝えたりもできるかもしれない』

ナギはまた少し黙った。

『何が起こるか、わからないんだぞ』

『…僕は仁と過ごすのが楽しかった。本音を言えば、ずっとこのままここにいたいと思ってるよ。でもやっぱり、今のままじゃ仁は救われない。仁に幸せになって欲しいんだ』

こんな展開は想定外だ。僕だって怖い。仁との平穏な生活を失うかもしれない。それでも仁と一緒にハードルを越えて、その先にある未来をまた生きていきたい。

ナギが静かに微笑んだ。

『わかった。俺も手伝うよ』

『ありがとう、ナギ』


 ナギが片方の翼を広げて、僕の頭上にかかげた。僕は目を閉じて、優に呼びかけた。自分の中の奥深くへ入っていく感覚があって、初めは真っ暗だったのが、どこからか音が聞こえてきた。

風と、雨…?いや、違う…


─海だ


少しずつ明るくなってきたので、僕はゆっくり目を開けた。これは、優の記憶…?


***


 晴れ渡った青い空と、同じくらい青い海がどこまでも続いていた。僕は兄さんとふたりで、白波が繰り返し砕け散る砂浜を歩いていた。

天気はよかったけど、風がとても強かった。そういや、台風が近づいていると天気予報で言ってたっけ。

『結局、俺のスケッチ旅行に付き合わせちゃったな』

兄さんが申し訳なさそうに言った。

『ううん、楽しかったよ。どこもキレイだったし、天気もよかったし』

『そんならよかったけど。今日はもう東京に戻るからな』

『就活、どうするの?』

『それな。忘れてたのに思い出させないでくれよ』

『あはは。ごめん』

その時、ひときわ強い風が吹いて僕の帽子が飛ばされた。風は海に向かって吹いていたので、帽子はあっという間に波の合間に見えなくなった。

『あっ』

僕は思わず波打ち際へ走り出していた。兄さんが去年買ってくれた、お気に入りの帽子だった。

『優!』

『すぐ戻る!』

僕はサンダルのまま海に入り、すぐ先に見える帽子を掴もうと手を伸ばしながら進んでいた。とたんに引き波に足を(すく)われ、僕はしりもちをついた。

『わっ』

びしょ濡れになった僕は、笑って兄さんの方を振り向いた。その時─

一瞬何が起こったのかわからなかった。急に体がぐいっと波に引き込まれて、目の前に砂と海水が渦を巻いているのが見えた。どっちが上なのか下なのかわからない。口の中が塩辛くてざらざらしていた。

息が、できない…


─助けて!


『優!!』

声は聞こえたけど、兄さんがどこにいるのか僕にはわからなかった。



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