〈限界〉
〈限界〉
その時、遥人の携帯電話が鳴り響いた。
僕は床に転がったスマホを見つけると、緑のボタンに触れた。同じ俳優で友人でもある安西拓真からだった。スピーカー通話にすると、拓真の心配そうな声が聞こえてきた。
「…もしもし、遥人?」
遥人は身じろぎもしなかった。
「無期限の休養って聞いたからさ、気になって」
拓真は話し続けている。
「大丈夫なのか?おまえはいつも頑張りすぎるから」
僕は淡い期待を抱いていた。
遥人をちゃんと見てくれてる人がいる。拓真のこの電話が抑止力になればと思った。すると遥人は急に立ち上がってスマホを掴みあげると、抑揚のない声で呟いた。
「…ごめん、俺、もう無理かも」
そう言うと電話を切ってしまった。僕は歯がみする思いだった。
─ダメか…。もう、届かないのか…
遥人がまた椅子の方に戻ろうとするので、僕も再び彼に飛びかかった。僕を払おうとしたはずみで、遥人はよろけてひっくり返った。そこへちょうど鮫島さんが部屋に入ってきた。
─助けて!遥人を止めて!
「何やってるんだ、遥人!」
「うるさい!こいつが俺の邪魔をするんだ」
今度は鮫島さんが遥人ともみ合うことになった。僕は二人のそばで威嚇しながら遥人を牽制し続けた。
「遥人、落ち着け」
「俺のことは放っておいてくれ!」
「自棄になるな!お前は何も悪くないんだ」
「俺が弱いからっ」
悲痛な声で遥人が叫んだ。部屋の中が一瞬しんとなると、彼の息づかいだけが聞こえてきた。
「あの女にもつけこまれるんだ。仕事にだって穴を開けて、結果も残せなくて…」
「違う、お前のせいじゃない!少し疲れているだけだ。体を休めれば、また仕事はできる。皆、お前が戻ってくるのを待ってるんだ」
遥人は首を横に振った。
「…こんな俺を必要としてるヤツなんて、いるわけないよ…」
遥人がそう言ったのがとても悲しくて、僕はありったけの声で鳴いた。
─遥人、そんなこと言わないで。
今まで遥人が頑張ってきたのは、皆知ってるよ
「もう十分、お前は頑張ってるよ。これからだってまだまだやれる。大丈夫だから少し休めよ。
それにこいつは、お前のことを助けようとしたんじゃないのか…」
鮫島さんが僕を見てそう言うと、遥人もゆっくり僕の方を向いてその場に座りこんだ。
遥人の瞳からさっきまでの激しさが消えていた。僕は唸り声を出すのをやめ、遥人に近づいて足の傷をなめた。
─ごめんね、痛かったよね
僕が見上げて鳴くと、遥人の瞳に涙があふれてきた。
「何だよ…おまえ、ただの猫だろ。何で、そんな…
猫に何がわかるんだよ…」
「…何で突然やって来たのかずっと不思議に思ってたけど、こいつはお前を守りに来たんだな」
鮫島さんの言葉に僕は一声鳴いて、同意を示した。
呪縛から解放されたように、遥人が泣きだした。鮫島さんに背中を優しくさすられて、子どもみたいに声をあげて。
遥人の本当の気持ちが聞けたようで、僕はほっとしていた。
僕はまず、少しでも食事をとるように仕向けてみた。僕自身はお腹はすいてなかったけど、鮫島さんが差し入れしてくれた時はなるべく遥人に食べさせるようにした。
僕がまとわりついて鳴いてると、遥人は僕が何か食べたいのかと思って用意するのだが、僕が一切手をつけないので、仕方なしに自分で少しずつ食べ出した。彼がある程度食べたのを確認してから、僕も少しだけおすそわけしてもらうことにした。何回かすると、遥人は僕の意図がわかったようだった。
「おまえ、賢いな」
感心したように遥人が言った。僕が得意気に鳴くと、彼はやわらかく笑った。少年のような、はにかんだ笑顔だった。僕が来てから10日ほどたっていた。
あのあとにまた同じようなことがあったら、入院させた方がいいと医者には言われていたが、遥人は少しずつだけど元気になっていった。
「…俺、ずっと自分に自信が持てなくて。頑張れば何とかなるって思ってた」
遥人が話し出した。
「でも、やってもやっても届かなくて、いつも焦ってて。誰かに話したくても素直に甘えられないし…」
─弱音を吐かないのはすごいことだけど、時々は誰かに寄りかかってもいいと思うよ
「でもまさか、おまえが聞いてくれるとは思わなかったよ」
遥人は僕の頭を撫でた。僕は喉をならしながら甘えるように鳴いた。
─僕はいつでも聞くよ。遥人が話したければ
「この仕事が好きで、自分のためにやってるんだって思ってた。でも、どこかであの人─母親に認められたくて、振り向いて欲しくて…そういう俺もいたのかも」
遥人は寂しそうに言ったけど、その顔は心なしか穏やかだった。
「結局あの人は、自分のことしか考えてなかった。だけどそれがわかってからも、なかなか思いきれなくて」
─どんな人でも、母親は母親だからね
僕は遥人の手にほおずりした。
「週刊誌やネットでいろいろ言われたり、ドラマの数字が良くなかったり、最近そういうのが重なってさ…。今まで自分が頑張ってきたのが、無駄なように思えたよ。何だったんだろうって。自分に何の意味もないんじゃないかって怖くなって。でも、そんなの間違いだってやっと気づいたんだ」
─遥人が手にしてるものは、全部君が皆と一緒に作り上げたものなんだ。誇りに思っていいんだよ
「…きっとおまえはそのうち、また俺みたいなヤツのところに行ってしまうんだろう。でも、もう少しだけ俺のそばにいてくれよな」
うん。ひとりぼっちの夜がつらくなくなるまで、僕は君のそばにいるよ。
越えてはいけない境界がある。
それは、一人きりの夜や何かに絶望したときに目の前に不意に現れる。昨日まで元気でいられたのに、いろんな悪い条件が重なったら、一瞬にして踏み越えてしまうこともある。何かが1ミリでもずれてたら、救えなかった命がたくさんあったはずだ。
そして、越えなくてはならない過去がある。でも心が弱ってる時に、軽々と飛び越えられる人はそうはいない。僕は相手に寄り添い、這ってでもくぐってでもいいからハードルを越えさせる。ともかく「こちら側」に呼び戻すんだ。ボーダーラインの手前なら、またいくらだってやり直せるんだから。
死んだ時、僕はまだ17歳だった。
知識も経験もない若い僕が、こうして誰かを救うことになるなんて思ってもいなかった。仕事を本格的に始める時に、ナギから研修みたいなものは受けたけど、それでもこの仕事にはある程度の年齢の、せめて社会人としての経験がある人が相応しいと思っていた。
─だってそうでしょ、僕じゃ説得力ないもんね…
でも、ナギに教えてもらったりいろんな人に出会って話をしたり経験を重ねていくうちに、人間や社会の裏側にある醜い部分をまざまざと見せつけられて、嫌でも少しずつ大人になっていった。そして多くの「依頼人」たちがそういったものに心を痛めたり、悩まされたりしていることに気づいたんだ。
嫉妬や欲望は誰にでも芽生える感情だけど、特に凶暴化したものは僕にとっては衝撃であり、時には目を背けたくなることもあった。
だけどそのおかけで、僕は皆の悲しみをより深く理解することができたように思う。皆が生きるのを諦めたくなる気持ちに共感できることが増えた。でも、その喪失感は決して死を選ぶ理由にはならない。
こんな圧倒的な破壊力を前に、よく頑張ったね。
つらかったね、寂しかったね。そう言って寄り添ってあげるだけで、人は安心できるはずなんだ。
─君の苦しみはわかるよ。でも、死んじゃダメだ。
いつかきっと、乗り越えられるから
僕はずっとそう言い続けてきた。
仕事を始めた頃は、人間だった時の記憶が鮮明にあったけど、月日が経つに連れて少しずつ靄がかかったようにぼんやりしていった。今は17で死んだことくらいしか覚えていない。そのうち何も思い出せなくなるかもしれない。
でも僕は嬉しかった。もう一度誰かのために生きていけるなんて、思ってなかったから。誰かの役に立てるなら、それだけでよかったんだ。