〈虚像〉
〈虚像〉
もう一人、忘れられない依頼人がいる。
俳優の緒方遥人だ。今もテレビで時々見かけるけど、僕と一緒に過ごしてた頃とは別人のように穏やかな笑顔をしてる。
依頼人とその後に会うことは滅多にないから、元気で過ごしてるのか気になる時はある。その点遥人の場合は、テレビをつけると顔が見られるので、僕も安心できたし嬉しかった。
教えられた住所は無機質な建物が並ぶ一角で、いわゆる高級住宅街ではなかった。
都心での撮影や事務所を行き来するには便利だったけど、他の芸能人たちが住んでいる華やかな街とは雰囲気が違っていた。
『遥人の希望らしいよ。ここは賃貸だし、間取りだってそんなに広くないし』
『家と言うより、ただ寝に帰ってくる場所って感じなのかな』
『実際、多忙だったからな』
ナギと並んで8階建てのマンションを見上げると、遥人の部屋の灯りが見えた。最上階だったけど、この時はちょうど彼のマネージャーが訪ねて来たので、その後を追って僕も部屋に入り込んだ。
『わ、何だおまえ。ついてきたのか』
マネージャーの鮫島さんは、僕を追い出そうとしたけど、僕はすかさず遥人のそばに座って鳴いた。
─来たよ、遥人
初めて会った時、遥人は憔悴しきっていた。
それでも僕の鳴き声にわずかに頬を緩め、部屋にいることを許してくれた。
遥人は放っておくと一日中ぼんやりしたままだった。瞳に映るものも耳に届く声も音も、彼の心を動かすものは何もないように思えた。食事もろくにとらず、アルコールしか口にしていないのを、毎日のように心配して訪ねてくる鮫島さんがやんわりと窘めていた。
ナギは僕に、遥人のこれまでのことを聞かせてくれた。
遥人は若手の俳優の中では、群を抜いて将来を嘱望されていた。努力家で、求められた以上に結果を残そうとする。それでいて誠実で謙虚さを忘れない。
大人びたビジョンを持ってるかと思えば、少年のようにシャイで繊細な部分も持ち合わせている。そのアンバランスな魅力は期せずして彼の内面を表しているようにも見えたが、概ね好意的に受け止められていた。
『いつも穏やかだし、周りにさりげなく気を遣えるから、皆から慕われてるみたいだ。彼を悪く言う人は誰もいないね』
『映画も完成したって聞いたけど』
『台本の行間まで読み取ったり、テーマについてもかなり勉強したらしくて、知識が半端じゃないって監督が誉めてたよ。これまでになく役にのめり込んでいたって本人もインタビューで話してた』
ただ、ストイックなまでのその直向きさに、「生き急いでいる」と言う感じが否めなかったのも確かだった。笑顔を絶やさないけれど、誰にも弱みを見せない、その心のなかはどうだったんだろう。
プライベートが取り沙汰されることはあまりなかったが、気の合う同世代の友人や共演者たちと飲みに行くことも多かったようだ。
─ひとりでいたくないのかな…
一人なら気を遣う必要もないし、違う楽しみがあるだろうけど、寂しがりだったのかもしれない。
彼の家庭環境は複雑で、父親は早くに亡くなっていて兄弟もなく、祖父母や親戚とも疎遠になっているということだった。
小学生の時に母親に遺棄された遥人は、飢えと寂しさを抱えて過ごしていた。その後施設に保護されたが、高校卒業と同時に上京し、偶然今の事務所の人間に声をかけられたのをきっかけに芸能界に入ったらしい。
社会的に成功した子どもを食い物にする親は一定数いる。悲しいけどそれが現実だし、特にこの世界ではよくあることだった。
遥人の母親も例外ではなく、有名になった彼の元に押しかけてきた。遥人も初めは当たり障りのない対応をしていたが、向こうがお金の話を持ち出すと、きっぱりとはねつけた。
だけど、母親も簡単には引き下がらなかった。今度は週刊誌の記者たちに遥人の情報を切り売りし始めたんだ。その中にはいい加減な話もたくさん混じっていたらしい。
記者たちにも好かれていた遥人と、母親とどっちの言い分を信じるかは、火を見るより明らかだった。それでも口さがない奴らにとって、遥人は格好の餌食だった。
加えて、数日前からの体調不良を理由に、遥人はすべての仕事を見合わせることになっていた。ドラマの撮影が始まっていたけど、代役が立てられることが決まったばかりだった。それからのネットやニュースでは、遥人のことで持ちきりだった。
『今まで頑張りすぎてたからな。無理もないよ』
ナギがため息をついた。
誰かを全力で演じきることは役者冥利に尽きるだろうが、人によっては元の自分に戻れなくなったりすることもあるらしい。いつも「誰か」になったままで、自分を見失ったりするんだろうか。
それに、全てを出しきって演じたとしても、数字に繋がらないこともある。一見華やかな仕事に思えるが、周りを蹴落としてでも自分が這い上がるくらいの気持ちがないと、生き残れない世界だとも言われている。そして、遥人はここでやっていくには優しすぎた。母親に酷いことをされてきたけど、同じようなことをまた誰かにできるほど狡くはなかった。
同期や後輩の活躍を心から喜び励ますのと裏腹に、遅れをとったような焦りや不安も感じるだろう。あからさまに言われることもあるだろうし、眠れない夜だってあったはずだ。
人知れずそんな複雑な思いを抱えて過ごしているうちに、行き場のない感情は澱のように積もって、遥人は少しずつ蝕まれていった。
酒量が目に見えて増えていき、酔うと感情的になって急に泣き出したり、激昂したりして抑えがきかなくなった。泥酔するまで飲み、彼らしくなく女性に軽率な発言や行動をとることもあったらしい。酔いが醒めた後も、自己嫌悪からまたアルコールに手を伸ばし、どんどん不安定になっていった。
笑顔の裏で遥人は心の中ではずっと悲鳴をあげていた。遥人が皆に心配をかけないように上手く隠していたのもあるけど、それに気づいてあげられる人は、誰もいなかった。遥人の助けを求める声が聞こえた、僕以外には。
そして、限界は突然やってきたんだ。
遥人の家に来て3日目のことだった。僕はその日、何だか胸騒ぎがして、体中ぞわぞわしていた。
やけに静かだなと思って遥人の様子を見に行くと、彼がダイニングの椅子を持ち出してその上に立ち、繋ぎ合わせたネクタイを引っ掛けて、固定しているのを発見した。
すうっと背筋に冷たいものが走った。
何をしようとしてるのか瞬時に悟った僕は、遥人に飛びついて足に爪を立て、加減しながらも噛みついた。
─何してるんだ!
普段は手荒なことはしないように気をつけているけど、ここまで切羽詰まったのは初めてだったし、人間と言葉で話せない僕には、とっさにそれしか思いつかなかった。
「痛っ!」
バランスを崩した遥人は足を押さえて床に転がった。僕を見ると、悔しそうな顔で大声をあげた。
「邪魔をするな!」
遥人は僕を忌々しそうに睨んで、手当たり次第に物を投げつけた。その中のひとつが僕の頬を掠めていくと、後ろでガシャンと砕ける音がした。
僕も背中の毛を最大限に逆立てて歯を剥き出すと、唸り声をあげ遥人を正面からキッと見据えた。僕は必死で遥人を呼び戻そうとしていた。
─ダメだよ、遥人。お願いだから戻って来て!
魔が差した、とはこういうことを言うのだろうか。
不意に広がった心の闇に、遥人は飲み込まれそうになっていたんだ。