〈孤独〉
〈孤独〉
僕が猫として初めて会った人間は、紗季子さんだった。あれは台風が通りすぎた日の夜だった。遠くから紗季子さんの声が聞こえてきたので、ぼんやりとした暗闇の中を、彼女の声を頼りに歩き続けていた。
そして突然、霧が晴れたように視界が開けたと思ったら、目の前に紗季子さんがいたんだ。彼女は夜道をさまよっていた。僕が見たのは彼女が橋の上から、ごうごうと唸りをあげて流れる真っ黒な川をのぞきこんでいる姿だった。
増水した川の勢いは凄まじい。じっと見ているだけで吸い込まれそうになる。心が弱ってる時にはなおさら…
とっさに僕は彼女に駆け寄り、足元をうろうろしながら鳴き声をあげた。
─危ないから、戻って!
紗季子さんは暗闇に突然現れた黒猫に驚いていたけど、僕の勢いに気圧されて、欄干から距離を取った。
しばらく呆気にとられていたけど、正気に戻った紗季子さんは僕に話しかけた。
「猫ちゃん、どこから来たの」
─とにかく、おうちに帰ろうよ
紗季子さんの家がどこかわからないけど、この場所から早く彼女を引き離したくて、僕は先に歩きだした。時々振り返って鳴いて呼ぶと、彼女も僕について来た。
紗季子さんの家は橋から20分くらいのところだった。6畳2間にキッチンが付いた年季の入ったアパートで、動物は飼えそうにもなかったけど、紗季子さんは僕を部屋にあげてくれた。
「さっきはありがとう、猫ちゃん。助けてくれたんだよね」
僕も夢中でどうしたらいいのかわからなかったけど、気持ちが通じてよかったと思った。布団では、娘の栞奈ちゃんがぐっすり眠っていた。紗季子さんは栞奈ちゃんの額に愛おしそうに手を当てた。
「もう少しで、取り返しのつかないことをするところだった…」
紗季子さんは呟いて身震いした。僕はゆっくり彼女に近づくと、膝の上に頭をのせてごろんと寝転んだ。お腹を見せて首をかしげると、紗季子さんはくすっと笑った。
「人懐っこいのね。キレイな目をしてる」
─ありがと
オッドアイを褒めてくれたのが嬉しくて、僕は小さく鳴いてウインクするみたいに軽く目をつぶった。
彼女は夫に先立たれたシングルマザーだった。小さな子どもを抱えてるのに、パート先も会社の業績不振の煽りを受けて、クビになってしまった。若かった二人にまだ十分な備えはなく、わずかな生命保険金も生活費とお葬式代でほとんど使いきってしまった。
「これからどうしようって、思ったら不安になっちゃって…」
─誰か相談できる人はいないのかな
「引っ越してきたばっかりで、あの人が事故にあってしまったから…。知ってる人なんて…大家さんくらいかな」
僕は紗季子さんを安心させるように鳴いた。紗季子さんは、僕のお腹を優しくなでながら話を続けた。
「おばあちゃんでね、とても親切だったけど、体調が悪いみたいで」
─誰かに話したら、少し気分が軽くなるよ
「心配させたら申し訳ないって思ってた。駆け落ち同然だったから、自分たちの親にも頼れなくて…」
こんなかわいい子どもがいたら幸せそうなのに、みんないろんなことを抱えてるんだね…。一人で全部背負わなくていいんだよ。
「自分がしっかりしなきゃって。でも、あの人がいなくなってから、どうしていいかわかんなくて…」
紗季子さんがうつむくと、涙がこぼれた。
─ずっと、泣くのを我慢していたんだね
紗季子さんの膝の温もりとぽたぽたと落ちる涙が、彼女が生きてることを伝えてくれた。
生きるのって時々とてもしんどくなるよね…
僕もそうだったな。
僕は紗季子さんの膝の上で丸くなったまま、しばらく彼女を泣かせておいた。
次の日の朝、紗季子さんは、大家のおばあちゃんを訪ねた。僕は見つからないように毛繕いするふりをして、物陰から二人の話を聞いていた。
「そりゃあ、大変だったねえ。もっと早く相談してくれればよかったのに」
大家のユミさんは、気の毒そうな顔をしてため息をついた。
「お加減が悪いのかと思って、ご心配をおかけしてもと…」
紗季子さんがそう言うと、ユミさんはあっはっはと笑った。
「もういい年だから、あちこち色々出てくるんだよ。年寄りには普通のことさね」
1歳になったばかりの栞奈ちゃんは最近歩き始めたらしく、自分の足でどこへでも行きたがっていた。茅葺き屋根の農家の土間はよちよち歩きには少し危なっかしかったけど、栞奈ちゃんは一歩一歩踏みしめて歩いていた。
「そうだ、あんたさえよければ、うちの畑仕事を手伝ってくれんかねえ。その合間に新しい仕事を探してもいいし、ずっと手伝ってくれてもいいし。もしそうしてくれるなら、もちろん家賃だっていらないよ」
「え?」
「うちの若い人は週末しか来れないし、私一人じゃとても全部はこなせないんだよ」
「…私、経験もないですけど、本当にいいんですか」
「なあに、家庭菜園に毛が生えた程度のものだよ。でも本気でやりたいんなら、声をかければ教えてくれる人はたくさんいるよ」
紗季子さんの顔が、見る見るうちに輝いた。
「ありがとうございます!ぜひやらせて下さい」
ぺこりとお辞儀する紗季子さんを、ユミさんは優しい笑顔で見守っていた。
「…でも、どうしてそこまでしてくださるんですか。私がどんな人間かもよくご存じないのに」
「こんだけ長く生きてるとね、相手がいい人かどうかぐらいすぐわかるんだよ。悲しいことがあったから、今は落ち込んでるけど、あんたは大丈夫だ」
紗季子さんは目を潤ませた。
「…ありがとう、ございます」
「それに、この子はこんなに幸せそうじゃないか。親に愛されてきた証拠だよ。そんな人が悪い人なわけないだろう?」
栞奈ちゃんは、土間の隅っこから大きな竹のざるを持ち出して遊んでいた。紗季子さんが慌てて走り寄ると、ユミさんはまた笑った。
「そのままでいいよ。何でもおもちゃにするんだから、子どもはすごいね」
和やかな三人の様子を見て、僕はそっとその場所を離れた。
─よかった。とりあえず最悪な状態からは抜け出せたみたいだ
お互いにどんな人かもわからないのに、こうして話して歩み寄ることで、救われることがある。僕はこの時、それを目の当たりにした。
後から思えば、これが僕の「初仕事」だった。試された訳じゃないけど、右も左もわからない中で自分なりに答えを出したつもりだった。
こんなにすんなりと上手くいったのは、たまたまユミさんが親切な人だったから、紗季子さんが真っ直ぐな人だったから、この二人の人柄もあるかもしれない。でも、僕は紗季子さんと言葉を交わすことはできなかったけど、お互いに気持ちが通じたのははっきりと感じていた。
ナギに仕事を正式に依頼された時にこう言われた。
『おまえはまだ子どもだけど、この仕事に向いてると思う。それにおまえも、誰かと関わりたいって思ってるみたいだしな』
『そうだね…』
『心当たり、あるんだろ?』
『…うん、ずっと誰かと話がしたかった。誰かの力になりたかった。紗季子さんみたいに困ってる人たちを助けてあげたい』
『じゃ、決まりだ』
僕は紗季子さんに会って、この仕事を続ける覚悟を決めたんだ。今まで出会った人のことは全部覚えてるけど、彼女と栞奈ちゃんのことは今でも忘れられない。