〈遠雷〉
〈遠雷〉
初めて会った日、仁は自分の夕食から僕の分を取り分けてくれた。食べ終わると、仁はメモを読み上げた。
「ココ」
「ネロ」
「ノア」
迷ったけど、ノアに一声入れた。ノアールはフランス語で、ネロはイタリア語で黒の意味だ。ココはココアから来てるみたいだけど、僕にはちょっとかわいすぎた。
「じゃあ、ノアで決まりな」
僕がもう一度鳴くと、仁は嬉しそうだった。僕も今までつけてもらった名前でいちばん気に入った。
仁がどうやって生活してるのか不思議だったけど、まったくの引きこもりではなかったようだ。買い物はほとんどネットや宅配を利用していたが、それでも近くのスーパーやコンビニには出かけていくこともあった。
─どうして、ずっと家にいるの?
何かを恐れてるの?何かを待ってるの?
日がな一日、仁は本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりして過ごしていた。美大の卒業生らしく絵を描いてることもある。何かをしている方が気が紛れるってことはあるけど…すごく穏やかで、何か考え込んだり、悩みがあるようには見えなかった。僕が来たから急に元気になったわけでもなさそうだった。
『おまえと遊んでやれるほど元気じゃないんだけど』
確かにあの時、仁はそう言ったんだ。
仁の家に来て1週間がたった、その夜だった。
夜中に苦しそうな仁の声がして目が覚めた。
─仁!
足元で丸くなっていた僕は飛び起きた。やっぱり仁には何かあるんだ。仁は毛布の端をぎゅっとつかんで、うわ言のように何か言っていた。
僕は前足の裏側で仁の頬を軽くたたいた。
起きて、仁。
「…ゆうっ!!」
突然仁が大声で叫んで起き上がった。暗闇の中、仁の荒い息づかいだけが聞こえていた。少し呼吸が落ち着くと、仁はそばにいる僕に気がついた。
「…ごめん。起こしちゃったね」
仁は僕の顔を両手ではさんで、自分の額を寄せた。僕は仁にほおずりして、頭をぐいっと押しつけた。
「ノア、ありがとう。そばにいてくれて」
仁は僕を抱きしめた。細い指が震えていた。
夜明け前、今度は窓ガラスを小さくたたく音でまた目が覚めた。カーテンのすき間からのぞくと、ナギがくちばしでノックしていた。
『今ちょっと無理。仁が起きたら窓を開けてもらうから』
『わかった』
ナギはすぐに姿を消した。
ベッドに戻った僕は、仁の寝顔を見つめていた。あれからしばらくして、汗でびっしょりの服を着替えると、仁は僕の横でまた静かな寝息をたてて眠りについた。
『ゆう』
誰かの名前を仁は呼んだんだろうか。
家族、友達、恋人…誰であっても、その人は仁にとって大切な人に違いない。だけど、何かつらい記憶が重なっているんだ。誰のことか見当もつかないのに、仁がその名前を呼んだことが、僕は気になってしかたなかった。
今日もまた暑い日になりそうだった。
仁はいつもの時間に起きて、朝食の用意を始めた。昨夜のことは覚えてないのか、何も触れなかった。
鶏ハムのはしっこを分けてもらってると、ベランダにナギが飛んできたのが見えた。僕は鳴いて仁に知らせると、窓を開けてもらった。
「鳥にいたずらしちゃダメだぞ」
外に出ると、もわっとした空気が体にまとわりついた。
『涼しいうちがいいかと思ったんだけど』
『うん。でも、あの時は仁がちょっと心配で…』
真夜中のことをナギに話した。
『「ゆう」か。誰だろうな』
『わかんないけど、すごくつらそうだった』
『…フラッシュバックかもしれないな。だからなるべく外出を避けてるんだろう』
ナギはため息をついた。
『今日来たのは、大事なことを伝えるためなんだ。…えーと、今の名前は?』
『ノアだよ』
『ノア。この依頼には時間が必要だ。場合によっては数年かかるかもしれない』
『そんなに…まあ、仁は優しいし、僕はずっとここにいてもかまわないけどね』
『のんきなこと言ってる場合じゃないよ。一緒にいればいるほど、お互いに情が湧いちゃうだろ。それがおまえと仁にどんな影響を与えるかわからないんだ』
情が移って悪いことなんて、別れが寂しいことくらいじゃないか。僕は思ったけど、この話を聞いたのは初めてではなかった。
『集中できなくなったり決断が鈍ったり、仕事に支障が出るかもしれない。それも困るけどまだマシな方で、前にも言っただろ』
以前やっぱり年単位での依頼を受けたヤツが、消滅してしまったらしいとナギが教えてくれた。だけど、そばにいながら相手になんの感情も持たないなんて、僕にはできなかった。ほんの数日の間でも僕は精一杯、猫としてだけど、相手のことを思い支えてきた。
『おまえが本気で相手と向き合ってるのはわかってるし、それでみんなが救われてきたのも見てきた。俺はおまえのやり方が好きだよ』
『…でも、今回はそれが命取りになる、かも?』
『わからないけど、用心だけはしておいて』
ナギはそれだけ言うと行ってしまった。僕はしばらく青い空とベランダからの景色を見ていた。
僕はどうしてこの仕事を続けてるんだろう。
─嫌ってわけじゃなくて、この仕事がないほうが世の中はみんなが幸せだってことでしょ
自分でやると決めたことだけど、時々そう考えることがある。
ナギと僕は仕事上のパートナーで、役割が少し違ってるけど目的は同じだ。わかりやすく言うと天使と死神ってとこだと思う。ただ、人が亡くなる時に現れるのは全て天使であって、自ら死を引き寄せる人や逆に死を受け入れられない人には、死神として見えているだけだ。
ナギはいつもは白い鳥の姿をしているけど、天使と言ってもれっきとした青年だ。頭に輪っかはないけど、背中に白くて大きな翼がある。自由に飛べるからどこへでも行けるし、魔力も使える。いろんなことをよく知ってるけど、その分やることも多くてとても忙しそうだ。
一方、僕はオッドアイの黒猫だ。便宜上は「使徒」と呼ばれ、ナギたちの補佐を務めているが、空も飛べないし魔法使いでもない。多少の精神感応力はあるけど万能ではないし、基本は自分の知識や経験、感覚だけが頼りだ。
黒猫は魔女の使いなんて言われて毛嫌いされた時代もあったけど、依頼人たちは一時的にでも死と隣り合わせになってるわけだから、僕が死神ってのもあながち間違いじゃないなって思う。でも、正確には「まだその時じゃない人」が死神に連れて行かれないように守ってあげてるんだけどね。
たいていの人は僕を見ると気持ちが落ち着いて、自分のことを話しだしてくれる。人間相手だとなかなか言い出せないことも、猫だったら独り言のように呟いて吐き出せるんだろうね。僕を撫でたり抱っこしたり、一緒に眠るだけで安心できることもあるみたいだった。そして、そこから事態が好転していくことが多かった。
ちゃんとしたマニュアルがあるわけではないから、手探りでやってきたけど、ナギが言ってくれたように今まで全力で頑張ってきたつもりだった。
仁はこれまでに会った誰よりも優しかった。一緒にいて僕自身も不思議と落ち着くのも初めてのことだった。
『感情移入しないようになんて、僕には無理だよ…』
『まあ、やっぱり相性ってあるからな』
ナギがそう言ってたのを思い出した。
仁を救いたい。ずっと笑顔でいられるように、僕にできることは全部してあげたい。
いつも皆に対して思うことだけど、僕にとって仁はまた特別な存在だった。
「ノア」
仁に呼ばれて、僕は我に返った。
「俺、ちょっとコンビニ行って来るから、もう部屋に入ってて」
僕はぐーんと伸びをすると、開いた窓から部屋へ戻った。
「あのアジサシみたいな鳥は、友達なの?」
─アジサシ?
「アジサシは海辺にいるんだよ。この辺じゃまず見かけない。珍しいよね」
しゅっとしてカッコいいと思ってたけど、海鳥だったのか。それじゃ目立つよね。仁は鳥にも詳しいのかな。
僕はごろごろと喉をならして答えた。仁が出かけると、僕はまた空をながめた。晴天が何日か続いたせいか、今日は雲が増えていた。午後は雷雨がありそうだ。
空にはまだ雷の気配はなかったけど、僕は心のなかに少し不安を覚えていた。
ナギの話も気になったのは確かだった。それに今のところ仁が何を悩んでるのかが全くわからなかったのもある。仁が心を開いてくれるまでは、確かに時間がかかりそうだった。そばにいることはできるけど、具体的な手段が思いつかなかった。
─でも、やるしかないよね
僕はその不安を吹き飛ばすように、ぶるぶるっと体を震わせてから、ソファで丸くなった。