〈夏日〉
〈夏日〉
いつからだったか、僕は他人の家を転々とする生活をしていた。
そこに住んでる人とは、仲良くはなれてると思う。皆はずっと一緒にいようって言ってくれる。僕もそうしたいっていつも思う。
でも、また呼ばれるんだ。
寂しくて、悲しくて、ぬくもりを必要としている、誰かに。そして僕はその人のところに行かなきゃいけない。そうしないと胸の奥がざわざわしてくる。助けてって言葉にならない心の叫びを聞いたら、いても立ってもいられなくなってしまう。
僕だって、優しい膝の上でずっと微睡んでいたい。暖かい陽射しが差しこむ部屋で一日中ごろごろしていたい。だいたいこの姿になったのなら、そんな生活ができると思ってたのに…
「また何か考え込んでるな」
仁は僕の顔をのぞきこんで笑った。
「おまえ、ホントに人間みたいなヤツだな」
そう言って僕の頭をわしゃわしゃと撫で回すから、僕は抗議の声をあげた。それでも仁は意に介する様子もなく「わかったよ」と嬉しそうに笑うだけだ。
それもそうか、僕は黒猫だ。金と碧のオッドアイなのを除けば、その辺にいくらでもいる猫でしかない。
いつから猫になってるのかは覚えてない。自分が何歳なのかもわからない。でも人間だった時はある。知識も経験も少ないから、まだ若い頃に猫になってしまったみたいだけど、自分に何が起こったのか、その記憶はなかった。
本当ならいわゆる前世、ひとつ前の記憶があるはずなんだけど…。たまに記憶が不完全なヤツもいるみたいで、僕はあまり気にとめていなかった。
仁は僕の98人目の「依頼人」だった。
独り暮らしで、初めて会ったときは引きこもりみたいな生活をしていた。あの時の仁の瞳は完全に輝きを失っていたな…
じりじりと太陽が幅をきかせている、2年前の夏のことだった。
ただでさえ暑さに弱い僕は、真っ黒な体が日光を吸収する前に、朝早く起きて外へ出た。午前中には目的地へ着けるだろうと思っていた。熱帯夜のせいで地面はすでに温かかったので、とにかく日陰を選んで歩いていった。
今いる場所と次の場所が近いこともあるけど、今回は少し遠かった。電車やバスで行きたいところだけど、この姿じゃ無理だし…。
1時間ほど歩いて、涼しそうな木陰があったので一休みすることにした。
─それにしても、今回は連絡がないな…
僕がそう思った時、微かな羽音がして目の前を影が横切った。一羽の白い鳥が僕の前に現れた。
『遅かったね』
『探したよ。ずいぶん早くに出たんだね。まあ、今日も夏日だしね』
ずっと飛んでいたわりに、ナギは呼吸ひとつ乱さなかった。
『今回の依頼人は、澤村仁。23歳。美術大学を卒業したけど就職せずにひとりで暮らしてる。去年の夏頃に「何か」あったらしくて、しばらく実家にいたみたいだ』
『1年前…。「何か」はまだわからないの?』
『探ろうとしても、なかなか掴めなくてね。まあ、緊急性は高くないみたいだな。今は家族とはほとんど連絡を取ってないけど、暮らしには困ってないみたいだよ』
『ふうん…』
─お金の心配がなくても、死ぬことを考える人がいるんだ…
『何に悩んでるかは人それぞれだよな』
ナギにはなんでもお見通しだ。
初めはそのすました態度が気に入らなくてよくぶつかったけど、怒ってるのは僕だけで、ナギはいつもクールで仕事をきっちりこなしていたから、突っかかるのがだんだん馬鹿らしくなってきた。
仕事仲間って割りきってからは、僕をサポートしてくれるし、時々はアドバイスもくれるナギを、僕は頼りにしていた。それに何と言ってもナギとはふつうに会話ができたから、今となってはそれが楽しみでもあった。
端から見たら、白い鳥を狙ってる黒猫という構図でしかないけど。
『でも、なんで皆はそんなに死にたいとまで考えるんだろうな…』
ナギはぽつんと言った。仕事はそつなくこなすけれど、永遠の命を持ってるナギには、人間のその感情はなかなか理解できないようだった。
『僕にもまだよくわかんないよ。だけど、それだけつらいんだってことだけは理解してあげなきゃって思ってる』
『そうだな…』
僕の「依頼人」は皆何かに悩んでいて、そのまま放っておくと心を病んでしまい、自ら死を選びかねない人ばかりだ。そして僕とナギはそれを止めるのが仕事だ。
『そろそろ行くよ。まだ半分も来てないからね』
『俺は他に寄るところがあるから、後でまた会おう』
『ナギが乗っけてくれると助かるんだけど…』
『無理だよ。おまえの方が大きいだろ』
『鳥じゃない格好になればいいじゃん』
『あれは、取っておきのヤツだからダメ』
『ケチ』
ナギは翼を広げて夏空に飛び立っていった。小さくなるナギを見送って、僕はまた歩きだした。
そのあともう一度休憩して、仁の住むマンションに着いたのは11時だったが、すでにうだるような暑さになっていた。
─さて、どうやって接触するか…
当然だけど、仁は僕がここに来ていることを知らない。まずは僕の存在を伝えなければいけなかった。
相手の感受性が高かったり波長が合えば、心の中で呼びかければ反応してくれるから、それがいちばん簡単だった。でも、仁は部屋にずっと閉じこもった生活をしているようだから、ちょっと手強そうだなと思った。
─まずは物理的に距離を詰めとくか
しばらく待ってると、マンションの入り口が開いて人が出ていった。チャンスとばかりに、僕は扉をすり抜けて中に入ると階段へ向かった。3階の角部屋。
─陽当たりがよさそうだな
そんなことを考えながら仁の部屋の前に着くと、僕は深呼吸して一声鳴いた。すぐには反応がない。心のなかでも呼びかけながら、何回か鳴き続けた。なるべくなら、他の人が気づく前に何とか仁に知らせたかった。
前足でドアに爪をたてた。かしかしと音をさせてみたが、中で人が動く気配はなかった。
出直そうかと思った時、鍵が開く音がした。ドアがゆっくり動くと、玄関の灯りが差してきた。その向こうに背の高い痩せぎすな男性が顔をのぞかせた。
伸びかけたぼさぼさの髪と無精髭。それでも元々の顔立ちのせいか年齢のせいなのか、みすぼらしくは見えなかった。仁は虚ろな表情で辺りを見回したが、僕を見つけると目を丸くした。
「え…ホントに、猫…」
僕はできるだけ甘えた声を出すと、仁に近づいた。仁はびっくりした顔のまま僕をじっと見ていたけど、猫が苦手な人は僕を呼んだりしないから、仁の足の間をくぐって玄関に入り込んだ。
「あ…」
後ろで仁が声をあげたけど、僕はかまわず部屋の中へ進んでいった。
閉じこもってるって聞いてたから、ゴミがたまってたり、空気がよどんでたりするのかなって思ってたけど、エアコンがほどよく効いたリビングはすっきりと片付いてて心地よかった。
「まいったな…」
仁は呟いた。僕はソファに登ってちょこんと座った。
「おまえ、どこの子だ。自分の家に帰れよ」
仁は手を伸ばして、僕の頭を優しく撫でながらそう言ったけど、僕にここにいて欲しいと思っているのも伝わってきた。
「なあ。俺さ、今、おまえと遊んでやれるほど元気じゃないんだけど」
─だから、来たんだよ
僕が鳴くと、仁は少しだけど笑った。とてもやつれてはいるけど、優しそうな人だなと思った。いや、優しいからこんなに我慢してつらいんだろうか…
「何だか、俺に会うために来たみたいだな…」
そうだよ。ああ、不便だな。ナギと話すみたいにしゃべれたらいいのに。でも、それじゃただの化け猫になっちゃうか。
仁は僕を優しく抱き上げてソファに座ると、僕を膝にのせた。
「お腹すいてないのか。でもおまえにあげられるものなんてあったかな」
猫になってからの僕は空腹感もあまりなく、1週間くらいは食べなくても大丈夫だった。食べ物の心配をさせないように、僕は仁の膝の上で丸くなって眠ったふりをした。
「疲れてるみたいだな。休んでていいぞ」
仁がまた撫でてくれたのが気持ちよくて、僕は本当に眠くなってしまった。ずっと歩いてきて疲れてたのは事実だったから。何よりも、仁の手はとても温かくて僕を安心させた。
そんなふうにして、僕と仁の日々は始まったんだ。