抱いてくださいと言われたら
俺は世間的には、大企業と言われる会社の中堅社員だ。
その日は三日間のセミナーに行くよう会社に指示された。
俺はもともと勉強が好きで、会社の金でセミナーに行かせてもらえるのは、有り難かった。
最終的に部長の意見が通るのは、わかりきっているのに、三時間も会議をしてるより、よっぽど有意義だと思う。
初日の自己紹介、紅一点の二十代の女子が、「H大学からきた須藤です。よろしくおねがいします!」とハキハキ挨拶した時は大学生なのかと不思議に思った。
すぐに彼女は大学職員なのだとわかった。二十人中、女子は一人だと言うのに、彼女は物怖じせず、セミナーに参加していたが、昼休みは、ポツンと一人で弁当を食べようとしていた。
なんとなく仲良くなった俺ら男三人が「こっち、来なよ」というと、嬉しそうに笑い、ニコニコと話に加わってきた。
最終日、男三人で、飲みにでも行くか?と、盛り上がり彼女にも声をかけると、「いいなー。私、シングルマザーで、保育園のお迎えが 涙」
「あ、でも、名刺交換してください!」
数日後、メールのやりとりから彼女の実家と俺のアパートが、隣駅だと分かった。
「私、金曜日の夜なら9時までなら飲めるんです。暇な日があったら、地元で飲みましょう」
一ヶ月して、定時であがれた日にメールすると、彼女オススメのバーを指定された。「わりと安くて、カクテルとつまみが、めちゃくちゃ美味しい。都内で飲むのが、バカバカしくなりますよ」
サシ飲みは、たのしかった。お互いの仕事の話で、民間と法人は違うねー、とか、面倒くさい上司の愚痴とか、話題は事欠かなかった。
それ以来、俺が定時であがれた金曜日には、そのバーで待ち合わせるようになった。
そんな関係が半年。
彼女が突然「今日は、飲むのは一杯にして、ホテルに行きませんか?」と言った。
正直、戸惑った。シングルマザーの彼女に恋愛する余裕があるとは、思っていなかったのだ。
俺は1年半前に長く付き合っていた女と別れ、特に好きな女性もいなかった。
「別に付き合って欲しいとかじゃないんです。ただ、私は好きな人に抱かれたいんです。」
そこまで、言われたら、据え膳食わぬは男の恥だ。
数ヶ月に一度、何度か抱き合ううち、俺は彼女を恋人にしたいと思うようになった。
ただ、結婚は考えられなかった。
彼女は、「女の喜びを味わえるだけで、充分、幸せですよ」と、いつも満足そうだった。
俺が「結婚を前提にせず、付き合ってほしい」と、言うと、彼女は「それは無理です。恋人になったら、結婚したくなるから」
そんな関係を、二年ほど続けた後でバーが移転した。
潮どきだと、お互い言わなくてもわかっていた。
俺は、自分の子どもでない子どもを可愛がる自信はなかった。彼女を幸せにする自信がなければ、プロポーズしても、不幸にしてしまうだけだろう。
彼女は、明るく言った。「私、もうすぐ三十路です。仕事も責任が重くなるし、息子にも手がかかります。小学生になると、勉強もみてあげたいし」
好きだから、別れる。
そんな別れがあることを初めて知った。
したたかで、たくましい彼女は、強がりながら、きっと幸せに生きていくのだろう。
俺は仕事を頑張ろう。
「道で偶然、会ったら、知らないふりをしましょうね」
経済的、精神的に自立して、余裕がもてるようになろう。俺が幸せな家庭を築いたら、道ですれ違う彼女が微笑むような気がする。