6. 佐々木悟の回想(5)
無情にも時は進む。
液晶画面の向こうでは、満開の桜の下で花見をしている人々を映していた。
「ようやく満開かー。また今度一緒に桜を見に行こうね」
そう話しかける僕は、妻の口元に食べ物を運ぶ。
彼女の身体は、上半身も満足に動かせない状況になっていた。辛うじて右腕と、首より上が動く様な感じだ。笑顔の可愛らしかった彼女が笑わなくなったのは、表情を作る筋肉を動かせないせいなのかもしれない。
そんな状況でも、妻は日記を手放さずに何かを書き込んでいる。
僕には見つけられない『素敵な出来事』がここにはあるのだろうか。そんなことを思いながら様子を眺めていた。
不意に、今朝の主治医との会話が思い浮かぶ。
「奥様の心肺機能がどれ程持つのか、私たちにも分かりません。そろそろ覚悟してください」
妻の病状は毎日主治医へ伝えていた。その度に前向きな言葉で僕を励ましてくれていた、とても優しい先生だった。そんな彼が告げる厳しい言葉。
「圭子、もう少し食べられそう?」
再び、妻の口元へ食事を運ぶ。口に含んだ彼女は、飲み込みづらそうにしていた。
飲み込む力が弱まっている。そろそろ固形物はダメかもしれない。残された時間の少なさを痛感していた。
◇
その日は、初夏と誤解しそうな位に暑さを感じる一日だった。
まだ五月だというのに、天気予報は季節外れの夏日を伝える。
妻の葬儀を終えた僕は、家中の後片づけに精を出していた。
体を動かさなければ気が滅入りそうだったからだ。
寝室を片付けていた僕の視線は使い込まれた日記を捉えた。
「妻の日記。どうしようかな......」
日記の表紙を丁寧に摩る。
この日記には素敵な出来事が詰まっている、妻はそう言っていた。
本当にそうなのだろうか?
人生は楽しい事ばかりではない。辛い事だって沢山ある。闘病中の辛い気持ちもここには記されているのではないだろうか。あるいは、僕に対する不満なども。
妻は幸せになれたのだろうか。そればかりを僕は考えてしまう。
最期まで彼女と一緒にいたい。
そう願った僕は、結局彼女のために何をしてあげられたのだろうか。もっと思い出を作ってあげればよかった。あるいは、想いを言葉で伝えてあげればよかった。僕の心に残るものは後悔しかない。
この日記を開いてしまえば、妻の本心と向き合う事になる。
それがとても怖くて、僕は中身を見ずに日記をダンボールへ入れた。
ふと、爽やかな風を感じる。
窓の方へ視線を向けると、床には桃色の何かが落ちていた。窓際へ歩みを進める。
「......桜の花弁?」
もう五月だ。桜はとうに散っている。どこから迷い込んだものなのだろう。
妻は桜の様な人だった。
この花弁は彼女の残した忘れ形見なのかもしれない。
押し花にしよう。そう思い、丁寧に拾い上げるとハンカチで包んだ。