5. 佐々木悟の回想(4)
病状の進行が止まらない。
朝、寝室で目が覚める。
隣を見ると、妻は既に起き上がっており、日記を抱きしめて固まっていた。
「圭子、おはよう。今日は早いね」
僕に気づいた彼女は、不恰好な作り笑いを浮かべる。しきりに彼女の目が泳いでいた。何かあったのだろうか。
「どうかしたの?」
僕の問いに彼女は必死に喉元を押さえた。
「もしかして、声がーー」
戸惑い気味に尋ねた言葉に彼女は首を縦に振る。
朝、目覚めたら声が出なくなっていたそうだ。異変を訴えたくても僕に伝える術がない。彼女は途方に暮れていたそうだ。後で彼女から聞いた。
この日を境に僕ら夫婦の会話は、紙に文字を書く音となった。
◇
ベッドから抜け出して身支度を整えた僕らは外へ繰り出す。
道すがら、僕は妻に話しかけた。
「学生の頃はこの道をよく通ったよね」
車椅子に座る妻は俯いている。
「あの頃に比べたらだいぶ街並みも変わったなあ」
妻の膝の上にあるスケッチブックには何も書かれない。
「でも、あの神社だけは昔のままを保ってくれているよね」
スケッチブックの上で重ねている右手が微かに震えているように見えた。
声を失った。その事実は妻にとって余程の衝撃だったのだろうと思った。
「さあ、目的地に着いたよ」
神社の境内に入った僕は、車椅子を押して大樹の根元まで歩みを進めた。ふと上を見上げる。
「三分咲き。いや、五分咲きといったところかな」
枝を大きく広げた先には、桃色の花弁が点々と咲いていた。残された蕾も膨らみかけており、もう少し時間が経てば満開となりそうに見える。けれど、僕らにそれを待つだけの時間は残されているのだろうか。
「圭子、少しここで待ってて」
妻に声をかけると、少し彼女から距離を取る。あの時もこの位の距離があったはず。
反転して、彼女の方へ向いた。大樹の根元で佇む妻の姿を見つめる。
変わってしまったものは、確かに存在していた。
あの頃と比べて桜の色付きは寂しく感じる。車椅子に座る彼女はあの頃よりも背丈が小さく見えた。俯く姿からは、あの頃に感じた眩しい明るさを見ることができない。
けれど、変わらないものだって存在している。僕はそれだけを信じて口を開いた。
「今日は圭子ちゃんに聞いて欲しい事があるんだ」
僕の声に彼女は顔を上げる。
不意に強い風が吹く。僕らの周りを薄い桃色の雪が静かに舞い落ちていく。
「圭子ちゃん、僕は貴女と桜のような夫婦でいたいです」
彼女の表情に驚きの色を見て取れた。
「五年前、僕はこの場所で貴女にそう言ったよね。その気持ちは今も変わらない、そのことを知っておいて欲しかったんだ」
桜の花言葉は『純潔』だ。
清いままの夫婦になりたい。お互いを一途に想い合う、そんな関係を妻と築きたい。
そんな願いを込めて、五年前のこの場所で僕は彼女にプロポーズした。
自己満足なのかもしれない。単なる言葉が、彼女の何を救えるのだろうか。僕にはよく分かっていない。
それでも苦しんでいる彼女に寄り添いたくて。何かを救ってあげたくて。僕は想いを告げた。
「それだけが言いたかった。圭子、聞いてくれてありがとう」
妻の膝に置かれたスケッチブックには、いくつもの雫がこぼれ落ちていた。
僕は彼女に近づくと、目元を指で軽く拭った。
◇
帰り道の妻は饒舌だった。
スケッチブックには思い出話が所狭しと並ぶ。
「ほら、余所見してると危ないよ」
思わず苦笑する。
危ないから前を向く事に集中して欲しかったのだが、妻の右手が止まることはない。時には、僕が忘れていたような昔話まで彼女は引っ張り出す。
心の底から幸せそうに話しをする彼女の表情が嬉しくて、僕らのお喋りは家に着いてからも続いた。
記憶障害。
運動機能障害と共に現れる、トレスニッチサクラ症候群の症状。今のところの彼女からは、その予兆を感じられない。
今日の様子を見る限り、記憶にも問題はなさそうだ。不明な点が多い病気と聞いているが、患者によって症状に差があるのかもしれない。
どうか、このまま何事もありませんように。
神さまに祈ることを止めた僕だが、この件に関してはどうしても祈ってしまう。