4. 佐々木悟の回想(3)
しばらくは変わらぬ日々を過ごす。
食卓で珈琲を口にする僕は、正面で朝食を取っている妻を見つめていた。
「ん? どうしたの?」
「いや......身体に不調はない? 何かあればすぐに言って欲しい」
「ううん。特に問題ないわ」
大丈夫よ、と笑う妻の姿を僕は見つめ続けていた。
「もうー。そんなに心配しなくても大丈夫だから!」
「それならいいけど......」
早く行かないと遅刻しちゃうわよ、と急かす妻の声に、僕は慌てて珈琲を飲み干す。
病院から連絡を受けたのはその日の昼ごろだったと記憶している。
妻が職場で倒れた。
幸い意識はすぐに回復し、命にも別状はなかった。逆に言えば、無事だったのは命だけだった。
「圭子! 身体は大丈夫か?」
仕事を早退した僕は病室へ駆けつける。病室のベッドに横たわる妻を見つけると、息の整わないままに尋ねた。
「悟さん。足がね......動かなくなっちゃったの」
おどけた口調で話す彼女の表情には、引き攣った笑みが浮かんでいた。
彼女の発した言葉に僕が何を返したのか、あまり覚えていない。彼女を元気付けなければ。それだけが頭を占めていたからだと思う。
「佐々木さん、電動車椅子を用意しました。奥様の今後のために必要なものです」
妻の担当医に挨拶した際に詳しい病状を聞いた。
病気の進行により、妻は下半身麻痺を起こしたとのこと。自立歩行は不可能で、車椅子を手放せない状態だそうだ。
進行のあまりの早さに担当する医者も首を傾げたと言う。
「なにしろ症例が少なくて、分からない点が多い病気ですからね。出来れば、このまま奥様には入院してもらいたいのですが」
「先程お断りした通り、妻は自宅療養させます」
治療や延命が出来ないのに入院させる意味はない。であれば、少しでも妻といる時間が欲しかった。
事前に妻と話し合った通りに、入院の申し出を僕は断る。
◇
その日の夕方、妻は退院し、僕らは自宅へ急ぐ。
「座っていても勝手に前へ進んでくれるのよ。電動車椅子って結構便利だわ」
僕に視線を合わせながら、妻は明るく答える。
いや、明るく振る舞おうと無理をしているだけに見えた。彼女の笑顔が強張っている。
自分で出来る事が少しずつ減っていく。その事実がどれほど怖いものなのか。きっと妻の心は傷付いている。僕が励ましてあげなければ。
「いいね。僕なんて今日はたくさん走ったから、足が張って痛いよ。早く家に帰って椅子に座りたい」
「悟さん、運動不足なのよ。少しは身体動かした方がいいんじゃないの?」
妻の調子に合わせるように、おどけた口調で返事を返す。
こんなことで妻を元気付けられるのだろうか、その疑問を胸の奥に隠したまま。
「そうだ! たまには僕が夕食を作るよ。圭子は食べたいものある?」
「うーん、特にはないかな。でも、この間みたいにお肉は焦がさないでね」
「僕だって少しは料理の腕が上達してるんだよ? 心配なら圭子が隣でコーチしてよ」
「ふふ。じゃあ、厳しくするけど覚悟しておいてね」
「えー、お手柔らかにお願いします」
赤く照らされた帰り道には、僕らの笑い声が響いていた。
◇
僕らの生活は少しずつ形を変える。
まず、妻は保育士の仕事を辞めた。
病気の進行速度が読めない以上、職場に迷惑を掛けるわけにはいかない。そう考える妻の判断を尊重することにした。
園長先生のご厚意により妻の職場で送別会を開いてもらった。特別に僕も参加させてもらう。
同僚の皆さんはとても温かく妻を見送ってくれた。妻は子供達に一番人気のある先生だったそうだ。照れながらも楽しげに、思い出話に花を咲かせる妻の姿を最後まで見る事ができず、僕は目の前のアルコールを一気に飲み干した。
次に、僕は職場に休職を願い出た。
妻に残された時間は少しずつ、だが確実に減っている。だから、僕の時間は可能な限り彼女のために使いたかった。そのためには仕事に縛られたくない。
急な話にも関わらず上司は理解を示し、快諾してくれる。復職する際には全力でサポートするぞ、と豪快に笑う上司に対して、僕は深く頭を下げた。
悔いだけは絶対に残すなよ、激励と共に上司から貰ったその言葉。僕は最期の時までその意味を考え続けていた。
「え? 休職するの?」
妻に知らせたのは、職場で受理されてすぐのことだった。
「うん。仕事の区切りも良かったし。いいタイミングだったかなって」
「順調に出世できそうって言っていたのに。......私のせい?」
「違うって。ほら、ずっと忙しかっただろ? だから、どこかで纏まった休みを取ろうと思っていたんだ」
「......そう」
「そうだよ。圭子と一緒にいる時間が増えて僕は嬉しいよ。それから、介護の勉強も始めようと思うんだ。良かったら一緒に勉強しない?」
「介護?」
無知のまま、一方的に介護されることは妻も嫌がるだろう。私のせいだと自分自身を責めてしまう気がする。
だから、妻と一緒に介護を学ぼうと思った。介護する側とされる側。お互いに心の準備が必要だろう。僕たちにとっても必要な事だ。
このくらいの頃だっただろうか。妻が日記を手放さなくなったのは。
常に日記を手元に置き、何かがあれば書き込んだり読み返したりしている。普段日記を書かない僕には奇妙な姿に映った。
「圭子、日記ってそんなに書くことある? 普通は寝る前にサラリと書くだけのものじゃないの?」
僕の問いに、日記を抱きしめる妻は少し考え込む。
「残された時間は少ないの。だから、日々起こる素敵な出来事を書き留めておきたいのよ。それに、素敵な出来事だからついつい読み返して思い出に浸ったりしちゃうわ」
「そういうものなの?」
「ふふ。そういうものよ」
「ちなみに、圭子はどんなことを書いているの? ちょっと見せてよ」
「ダメよ。日記は私の心そのものなの。だから悟さんにも秘密です!」
悪戯めいて笑う妻の顔を見て思う。
あの日記の中には幸せが詰まっているのだろうか。更に幸せを詰めるために僕が出来ることは。
付けっ放しにしていたTVからは、桜の開花を知らせるニュースが流れていた。