3. 佐々木悟の回想(2)
心の傷は時が癒す。
そんな言葉の通りに、季節が移りゆくにつれて妻は明るさを取り戻す。
ただ、事故直後の彼女は見ているのが辛くなるほどに塞ぎ込んでいた。会う度に泣きそうな顔で僕に謝る彼女の姿に、距離を置いた方が良いのかと考えることもあった。妻のせいではない、たったそれだけの言葉を彼女にどう理解させるのか、昼夜問わず僕は悩んでいたと記憶している。
ある計画を立てたのは秋が深まる頃だった。
その頃には少しずつ妻の表情にも笑顔が浮かぶようになる。けれど、その笑顔には陰が見え、未だに引きずっているのだろうと感じた。早く計画を実行に移したかったけれど、準備が間に合っていない。僕は春の訪れを今かと待ち焦がれていた。
桜が満開になる頃に、僕らの社会人としての二年目が始まる。
「圭子ちゃん、桜を見に行かない?」
仕事にも慣れて忙しさを増す妻を連れ出したのは、四月の最初の休日だった筈だ。
僕は彼女と近所の神社に足を運ぶ。
「ちょうど満開だね! 綺麗だわ」
神社には一本の大樹が花弁を散らしていた。人足が少なく目立たない場所でひっそりと、だが可憐に咲く神社の桜はどこか妻を連想させる。だから、僕はこの場所を選ぶことにした。
「今日は圭子ちゃんに聞いて欲しい事があるんだ」
「どうしたの?」
大樹を根元付近から見上げ、笑顔を見せていた彼女は僕の言葉に視線を戻す。
僕はその場で彼女にプロポーズした。
「私なんかでいいの?」
「圭子ちゃんだからいいんだよ。どうかこれからも二人でいさせてください」
目を潤ませながら頷く妻に近づき、目元を指で軽く拭う。
僕らを守ってくれた親はもういない。お互いに親戚とも疎遠のため、僕たちはこの世界で二人ぼっちだ。これからは二人で支え合って暮らしていきたい。
これは誓いであり、それを神さまに温かく見守っていて欲しい。そんな事を僕は願っていた。
月日は流れ、今年で五年目の結婚生活を迎える。
お互いに仕事は充実しており、夫婦仲も良好。子供には恵まれなかったものの、その分二人の時間を楽しんでいた。事あるごとに妻を連れ出し、二人で色々な思い出を作った。
あの神社にも何度も足を運んでいる。プロポーズの言葉を毎回せがまれるんだ。恥ずかしさを感じる一方で、冗談を言える程に傷が癒えた彼女に安心する。
結婚してからずっと二人で支え合ってきた。隣で嬉しそうに微笑む妻の様子に、僕は幸せの輪郭の一部を見ていたと思う。
◇
始まりは、ほんの些細なことだった。
「圭子、その痣どうしたの?」
ある朝、妻の額には赤く腫れた痣が浮かんでいた。よく目を凝らすと、桜の花弁の様にも見える。
「うーん。いつのまにか出来ていたのよ」
「どこかにぶつけたんじゃないの? 圭子って昔から鈍くさかったから」
「そんなことないわよ! ぶつけたら流石に私だって気がつーー」
突然、何もないところで妻が転ぶ。地面に打ち付けた膝を摩りながら、妻は涙目でこちらを見ていた。
「ほら、今でも鈍くさいじゃん。怪我しなかった?」
「そんなことないって! でも、ありがとう。膝が痛いだけよ」
「良かった。でも同じように、転んで額を打ったんじゃないの?」
「そんなことないのにー。......そういえば、最近よく転ぶのよね。運動不足なのかしら?」
不意の転倒の増加。
歩行機能の低下を初期症状とする病があった気がする。過去に読んだ医学書の記憶を頼りに妻へ話しかけた。
「一度、病院で診て貰った方が良いかもしれないね」
「え? 膝を打っただけよ」
「いや、本当に転倒が増えているのなら、医者に診てもらおうよ」
「そんな。大袈裟じゃないかしら?」
「念のためさ。大したことなければ、それでいいわけだし」
「そう? ちょうど明日お休みだから行ってみるわね」
念のため。
僕の下したこの判断は正しかったのだろう。間違ってくれていればよかったのに、今でもそう思う。
◇
翌日、仕事から帰ると家は真っ暗な状態だった。
年度末の繁忙期のために日付が変わる頃の帰宅になってしまった。それでも、家中の照明が消えている事は初めての経験だった。
先に寝ちゃったかな、と思いながら玄関の扉を開ける。その後、居間の照明を付けた僕の心臓が突然跳ねた。
座卓の前で妻が座っていたからだ。
正座をしている妻の表情は、俯いておりこちらからは窺い知れない。
居間の照明は僕が付けている。妻は真っ暗な室内で何をしていたのだろうか。
「......真っ暗な部屋でどうしたの?」
恐る恐る話しかけるものの返事がない。
長い間の後、妻は顔を上げる。彼女の目元は赤く腫れているようだ。
「悟さん、お話があります」
トレスニッチサクラ症候群。その名前を知ったのは妻の口からだった。
この病は、脳が萎縮してしまうことにより、患者の運動機能低下や記憶障害を引き起こす。現代医学では治療法どころか延命方法すら存在しない不治の病だそうだ。
過去の症例によれば、発症した患者の寿命は長くても一ヶ月だそうだ。
長くても......。
「私の病気については以上です。それから、私の余命はおよそ一ヶ月と言われました」
淡々と話す妻の告白を僕は黙って聞いていた。なんと言って良いのか、掛ける言葉を紡げなかったのだ。鼻の奥がツンとして、僕は目を固く瞑る。
「お話ししたかった本題はここからです」
妻の言葉と共に、紙の擦れる音が聞こえた。その音に反応して僕は目を開ける。
「これにサインをしてください」
視線を妻の手元に落とす。座卓に置かれた紙には離婚届の文字が書かれていた。
「......理由を聞いてもいいかい?」
「私はもうすぐ動けなくなります。記憶も失い、悟さんのことが分からなくなってしまうかもしれません。だからーー」
声を震わせながら話す妻は、そこで言葉を切る。彼女の唇が震えており、それ以上の言葉を紡げない様子に見えた。
「圭子の言いたい事は理解した。なら、僕の答えはこうだ」
そう言うと、僕は離婚届に触れる。小さく息を吐くとそのまま紙を手に取り、クシャクシャに丸めた。
「悟さん、どうして?」
「約束したよね? ずっと二人でいるって」
「だって、私死んじゃうんだよ! それだけじゃない! 介護が必要な状態になって、悟さんに一杯迷惑を掛けるに決まっているわ」
「いいよ、迷惑掛けたって! それでも僕は圭子と一緒に居たいんだよ!」
両親が亡くなった頃は僕も辛かった。妻を支えようとしていたけれど、僕だって妻が隣にいたお陰で立ち直れたんだ。
僕らは今まで二人で支え合って生きてきた。だから、最期の瞬間まで彼女を支えながら生きていたい。その想いを彼女に知っていて欲しかった。
「でもーー」
「お願いだ。最期まで貴女と一緒に居させてください。僕ではダメかな?」
泣きながら俯く妻を落ち着かせて、彼女を寝室へ運ぶ。
明日もう一度残された一ヶ月の過ごし方を話そう、そう約束すると彼女は安心したように眠りについた。
◇
自室に戻った僕は、椅子に深く腰掛けて天を仰いだ。
「どうして......」
ふと、視線の端にお守りを捉える。
今年の初詣に近所の神社へお参りに行った。その時に妻と購入した健康祈願のお守りだった。
僕はお守りに手を伸ばす。
それを握り潰すと、そのままゴミ箱へ投げ捨てた。