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夫婦の形  作者: なか
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1. プロローグ


数多の作品の中から、本作に目を留めていただきありがとうございます。

よろしければ最後までお付き合いいただけますと幸いです。


 狭い会議室には男女が向かい合うように座っていた。


「佐々木さん、そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」


 紺色のスーツに身を包む若い女が柔かに微笑む。女は、取り敢えず一杯どうぞ、と目の前に置かれたままの冷たいお茶を勧める。


「はい、ありがとうございます。取材を受けるなんて初めての経験で緊張してしまいまして」


 佐々木と呼ばれた若い男はそう答えると、お茶の入ったコップに手を触れた。


 四人掛けの机と椅子が置かれただけの質素な会議室は、白い壁紙も色褪せており全体的に年季の入った印象を受ける。先程からカタカタと音を立てている空調では、窓の外に広がる初夏らしい茹だるような暑さを打ち消すには心もとない。


「ふふ。過去に取材した際には、ご協力いただいた皆さん同じ事をおっしゃるのですよ。今日は私が質問しますので、佐々木さんはそれに答えていただくだけで大丈夫ですから」

「ははは。頑張ります」


 佐々木は貼り付けたような笑みを浮かべると、ハンカチを取り出して手汗を拭う。アイロンの掛かっていない黒色のスーツは、彼の人相と相まって頼りない印象を相手に植え付ける。


「午前中は外に出ていたのですが、休暇に入った学生達で電車が混んでいましたよ。佐々木さんがこちらへいらっしゃる際は大丈夫でしたか?」

「確かに混んでましたね。お昼に山足線で人身事故があったようで、その影響でしたけど」

「人身事故ですか。帰る頃には運行ダイヤが元に戻っているといいんですけど」

「そうですね」


 そう答えた佐々木は、目の前のコップを口元へ運ぶ。ハンカチで唇を拭った彼は、空のコップを静かに置いた。


 突然、木のような物を叩く音が二度、会議室に響き渡る。その音に反応した佐々木と女は、示し合わせたかの様に揃って視線を扉の方へ向けた。


「先輩、準備できました」


 丁寧に扉が開かれると、ラフな格好の若い男が入ってきた。無地の白いシャツの胸元には黒い一眼レフが存在感を示している。


「大野くん、遅いわ。佐々木さんをお待たせしてしまっているじゃないの」

「すみません、先輩。機材を用意する途中で編集長に捕まっちゃって」

「いいえ、それほど待っていませんので僕は大丈夫ですよ」


 佐々木と女のやり取りを尻目に、大野と呼ばれた若い男は機材の準備を始めた。


「では、改めまして。佐々木悟さん、取材にご協力いただきありがとうございます。本日の聞き手は、わたくし『にこやか新聞社』の野田恵が担当させていただきます。隣の男性はカメラマンの大野啓介です」

「佐々木さん、今日はよろしくお願いいたします。自由に撮っていますので、カメラのことは気にせずに取材に集中してください」

「はい、よろしくお願いします」


 ◇


「続いての質問です。亡くなられた奥様の病気について教えていただけますか?」


 先程から、野田と佐々木の間で同様の質疑応答が続いていた。


「妻の病名は『トレスニッチサクラ症候群』でした」

「トレスニッチサクラ症候群? 聞き慣れない名前ですが、どのようなものなのでしょう?」

「トレスニッチサクラ症候群は、運動機能と共に記憶が徐々に欠落する脳の病気で、現代医学では治療方法が確立されていない不治の病です」


 ーートレスニッチサクラ症候群

 脳が萎縮してしまうことにより、患者の運動機能低下や記憶障害を引き起こす奇病。世界的にも症例は10件にも満たず、病気の全容が解明されていない難病でもある。故に、予防法や治療法は無く、延命方法すら研究が進んでいないのが現状だ。過去に発症した患者たちは例外なく一ヶ月以内に命を落としている。


「症状をお聞きするとアルツハイマー型認知症を連想してしまうのですが、違いは何かあるのでしょうか?」

「トレスニッチサクラ症候群の患者は、額に桜の花弁の様な痣が出来るのだそうです」

「痣ですか? 不思議な現象ですね」

「ええ。妻の額にも同様の痣が出来ていました。医者に尋ねてみましたが原因は分からないとのことです」


 トレスニッチサクラ症候群は、ドイツの医師であるトレスニッチ氏によって発見された。彼の妻だった日本人女性が最初の患者と言われている。鏡の前に立つ妻の漏らした、桜の花弁の様で綺麗な痣ね、という一言から『トレスニッチ()()()症候群』と名付けられたそうだ。


「あと、症状についてですが必ずしも記憶障害が見られるわけではないのかもしれません。実際に妻には記憶を失う様子が見られませんでしたから」

「そうなのですか。まあ症例が少なく、分からないことが多い病気とのことですからね。表現が正しいかは分かりませんが、その点では不幸中の幸いといった所なのでしょうか」

「そうですね」


 野田の相槌に対して、神妙な表情で佐々木は頷く。口を固く閉じ、漏れ出そうな心の叫びを必死に堰き止めている様にも見える。


「なるほど。続いてです。奥様との思い出の品を持参していただくよう、こちらからお願いさせていただきましたが」

「ええ。こちらになります」


 佐々木の足元に置かれた鞄から出てきたものは一枚の離婚届だった。クシャクシャに丸められた跡が残っており、氏名欄には『佐々木圭子』とだけ書かれている。


「......離婚届ですか。奥様がご用意されたもののようですね」

「はい。妻から病気に関する相談を受けた際に一緒に手渡されました。受け入れずに握り潰してしまいましたけれども」

「そうでしたか。奥様はどのような心境だったのでしょうね?」

「僕には分かりません。ただ、妻は優しい人でした。きっと僕の負担になりたくなくて......離婚を切り出し.....」


 感極まった様子の佐々木の目から一筋の雫がこぼれ落ちた。すみません、と鼻声の彼がハンカチで目元を覆う。

 その様子を見た野田は視線を隣の大野へ向けた。大野は頷くとカメラを構えてシャッターを切る。会議室には鼻を啜る音とシャッター音のみが響き渡っていた。


 ◇


「少し落ち着かれましたか?」

「ええ、すみませんでした」


 神妙な表情の野田と、目を赤く腫らした佐々木とのやり取りは続く。


「続きまして。奥様の日記もお願いさせていただきましたが」

「はい。一応持ってきました。ただ......」


 そこで言葉を切る佐々木には逡巡の色が窺える。


「佐々木さん。気が進まないのでしたら断っていただいても構いませんよ?」

「お気遣いありがとうございます。お約束通りに日記はお渡しします。ただ、一つお願いしたいことがあります」

「お願い? 何でしょうか?」

「日記の内容を記事にせず、僕にも知らせない様にして欲しいです」

「それは構いませんが、理由をお尋ねしてもよろしいですか?」

「その日記は病気に苦しむ妻の心の内が書かれていると思います。日記を公開するということは妻の心を晒し上げる行為に感じてしまいますし、僕自身も知りたくないです。だから、限られた人が日記に目を通す程度であれば許容しますが、記事にするのは止めてもらいたいです」


 坦々と主張する佐々木の言葉を聞いた野田は、一度隣の大野と視線を合わせる。少しの間の後に、野田は口を開いた。


「承知いたしました。佐々木さんのおっしゃる内容でお約束します。但し、医学的に貴重な情報があれば医師会へ情報提供したいと考えています。その点はご理解いただけますか?」

「ありがとうございます、問題ありません」

「快諾いただきありがとうございます。それでは、奥様の闘病中のご様子についてもう少し詳しく教えてください」

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