下. 蝶の残光
北の森の奥深く。
巨大な木の幹の中に出来た小さな家。
そこには魔女と子供が住んでいる。
その子供であるコーリーは齢9歳の少年となっていた。
コーリーは粥を彼女の元に運ぶ。いつのまにか粥作りは得意となっていて、初めのものとは比べようがないほど美味しくなっている。
運んだ先にはベッドに座って窓を眺めている魔女がいる。
魔女は時々咳こむとため息を吐いた。
「魔女様、お食事ですよ」
その声に気づくと笑顔を作り、微笑んだ。
力の抜けた苦しそうな笑顔。
「ええ、いつもごめんなさいね」
「そんな謝らないでください」
粥を魔女は受け取ると、木の匙でそれをすくい、ゆっくり口に運ぶ。
「ああ、今日は味付けが少し違うのね。いつも私が飽きないように味を変えてくれるなんて、コーリーは優しいわね。コーリーの作ったものを食べると元気が出るわ」
僕は貴方ほど優しい魔女を知りませんよ。
本当なら食べなくても死なないのに食べてもらっているのは僕の自己満足でしかない。
そんな自己満足に付き合って笑顔で食べてくれる。
でも僕は知っている。
徐々に魔女様の体が細くなっていることを。
コーリーは空になった器を片付け部屋の掃除をする。
その時書斎でふと見つけてしまった氷の呪いについての研究書類。
恐る恐る開くと羊皮紙にはびっしりと文字が書かれている。
それは氷の魔女と呼ばれた魔女様にかけられた生まれつきの呪いについてだった。
氷の呪いの特徴は、まず身体が白みがかる。
それから触れるものが凍りつくようになる。
それだけだと考えられていた。
しかし、私は腕を切断されたことにより呪いが活性化し、氷の魔法を扱えるようになった。
光の魔法以外ならさまざまな属性の魔法も扱えるようになった。
さらには不老不死となった。
でも、コーリーを拾ってから変化が起きた。
一年、二年目に変化は無いと思われた。
しかし、三年目の今になって変化が顕著に現れた。
髪が溶けていた。
熱にも耐性があるのに溶けるはずのない氷の髪が知らぬうちに溶けた。そのことに気づいてから私の体をもう一度調べることにした。
私の体を観察すると急に涙を流したり、運動もしてないのに汗をかいたり、それが急速に身体が溶けて出来たものだ。
徐々に体が溶けているのは確実。
黄道十二宮星図によると残された日数は六年と二十八日。
黄道十二宮星図は言った。
コーリーを手放しなさいと。
その記述を見てコーリーは黙ってはいられなかった。
魔女様の元まで走り、ドアを開ける。
驚いた様子の魔女様はコーリーの表情で理解したのかベッドまで来るように手招きをする。
「…どうして言ってくれなかったんですか?」
「…」
「僕がいるから…魔女様は…」
「コーリー。それは違うわ」
魔女様は力強くそう言ってコーリーの手を握る。
影も骨よりも細い弱々しいものになっていた。
「貴方がいるから私は救われたのよ」
そう魔女様は笑った。
「私ね、貴方が来るまではこーんな顔してたのよ」
そういって魔法で簡単な仮面を作り出すとそこには無表情の魔女様がいた。
「…毎日、なんで生きてるんだろう。今日はどうやって暇つぶししようか。そんなことしか考えない無味乾燥な日々だったわ」
今の魔女様からは考えられない言葉だった。
魔女様はいつも僕に新しいことを教えてくれた。退屈しない日なんてなかった。
昔を思い出すと少し怖かったような気もするけれど今は笑顔が絶えない素敵な人だ。
「…でも貴方が目の前に現れてくれて私の人生は変わった。貴方は暗闇の中の太陽ののように眩しくて、毎日が幸せだった。今ならそう言える」
「でも、魔女様!死んじゃうだなんて嫌です!どうして魔女様が死ななきゃいけないんですか?!」
コーリーは泣き叫ぶ。
六年と二十八日。
書かれた日付から推測してもそれは"今日"だった。
「…話せずにいてごめんなさい。貴方が現れる前に何十年もこの呪いについて調べて解呪方法がなかったの」
「…」
「貴方がこの呪いを解いてくれたの。長年の呪縛を貴方が解いてくれたのよ」
「…僕は解いた覚えなんてない!生きてよ魔女様!呪いで魔女様が生きながらえていたなら僕がもう一度呪いをかける!だからさ____!」
コーリーの両眼からは大粒の涙が溢れ出ていた。
それが魔女様のベッドを濡らしていく。
「…生きてよ。魔女様」
「…」
魔女様が金時計を取り出す。
残り時間が少ないのか彼女は静かに時計を凍りつかせて止めた後、仕舞うとコーリーを抱きしめた。
「貴方を育てることができて私は幸せだった」
「…うっ、うぅ」
「唯一の心残りとしたら貴方がおじいちゃんになるまで見守れないことと____」
そう言ってコーリーの角を撫でる。
「____森の精霊の角の花の開花を見られないことかしら」
そう悪戯な笑顔で微笑んだ。
「…精霊?」
「そう、貴方は精霊子。特別な力を持った子なのよ」
「…え?精霊って架空の存在じゃ…?」
「あら、それなら私も架空の存在よ。この森の精霊は私がこの森を冬に変えてから太陽の精霊は死んでしまったわ。だから人間の子にその精霊の力を宿したと言ったところかしら?」
理解できずにいるコーリーに微笑みかけ、魔女様は自分の青水晶のネックレスをコーリーにつける。
「私がいなくなったらこの森に春が訪れる。永遠の冬は居なくなるのよ。貴方はこの森の精霊王になるのだけど…自分の運命に縛られる必要はないわ。自由に生きなさい」
「魔女様…いえ、母様」
「ふふ、恋しくなった?」
そう言って魔女はコーリーを抱きしめる。
それはとても力強く。
気づけば背中が少し濡れていくのを感じた。
「また一年経てば冬が来る。季節とは本来そういうものなの。冬になったらまた私を思い出して」
魔女様の身体が軽くなっていく。徐々に背中ももっと濡れて、顎横ほどまで短くなった髪の毛はもっと短くなっていった。
身体は光の粒となって空中に消えていく。
「…!そんな、母様!!」
「心配しないで、私はいつも貴方と共にいる」
言葉に反して魔女の声は震えていた。
冷たい身体が完全に無くなっていくのがわかった。
そして魔女は笑う。
「ありがとう神様。最高の贈り物よ」
ベッドに布が落ちる。
それは魔女の着ていたものだ。
「…ぁっ…ぅ」
体に残る冷たい温度が消えていった頃、漸く大声を上げて泣き出した。
心の底から泣き叫ぶコーリーの声は静かな冬の森に一日中響いていた。
ただ首にかけられた青水晶のネックレスを握りしめて泣き続けるしか出来なかった。
コーリーにとって魔女は全てだったのだから。
*
魔女が居なくなってコーリーはただ空を眺め、人形のように魔女の消えたベッドに横たわっていた。魔女の寝ていた場所を避けてその跡を消さぬようにと。
「…こんなんじゃ魔女様に叱られる」
コーリーは漸くベッドから降りると重たい脚を引きずって歩く。
目の横が酷く乾いていて動かしにくい。
顔を洗って一日を始めよう。
だが思うように一日が過ごせるわけがなく。
憔悴しきったコーリーは無意識のうちに魔女の書斎に入っていた。
(…なんで来たんだろう。魔女様はもういないのに)
考えることすら辛かった。
その時、夜空が浮かんだままの黄道十二宮星図があった。
コーリーは不思議に思って近づくと徐々に文字が浮かび出す。
そしてコーリーからは涙がまたこぼれ出した。
"よく食べて、よく寝て、よく笑うこと。私の可愛い愛し子のコーリー、大好きよ"
膝から崩れ落ちたコーリーは青水晶を握りしめまた泣いた。
コーリーはなんとか笑顔を作る。
そして決意する。
もっと魔法を極め、人々を救おうと。
何故なら僕は世界で一番優しい氷の魔女の子供なんだから。
ちょうどその時、何処からか蝶々が舞い込んでくる。
青い宝石細工のような綺麗な蝶。
蝶はひらひらと舞うとコーリーの角に止まる。
そこには春を告げる小さな蕾が出来ていた。