キャベツ畑の魔女
「ねえ、このさきのジャンクションで降りましょうよ。あたしもう疲れちゃった」
リンダが叫んだ。フロントガラス越しの激しい走行風に、ハリケーンに晒されたヤシの木のように短いブロンドをなびかせている。オープンカーでの会話は聞き取りにくい。車体をやたらと震わせるクライスラーのエンジン音が、その上にさらにかぶさった。フロリダへ向かう州間高速は真夏の太陽にあぶられて、路面からは人の背丈ほどの陽炎が立ちのぼっている。
「聞こえた? ねえ、あなた?」
風に飛ばされそうなサングラスを指で押さえながら、今度は横を向いて尋ねた。運転席に坐っているのは、四十がらみの中年の男だ。
「聞こえたよ。でもまだ日が高いじゃないか。このままいけば、晩飯はデイトンで食える。明日の朝からビーチに行けるんだぞ」
「あたしもう疲れたのよ。お願い、ここらで今日は休みましょう」
甘い声に、男はしぶしぶ頷いた。
「しょうがないな。この辺にいい宿があるかなんて、俺は知らないぞ」
高速道路は大きな湖を渡った。その先に、サウスカロライナ州サンティという標識が立っている。車はそこで高架から降りて、下の国道十五号線に入った。
「ひどい田舎だな」男が言った。降りてすぐのあたりは多少の住宅地があったものの、道なりに五分も走ると、もう周囲は畑ばかりになってしまった。重低音を響かせながら走る二人の高級車は、いかにも景色とアンマッチだ。
「この先にモーテルがあるわ。そこにしましょ」男が頼みを聞いたことに気をよくしたのか、リンダの声はさっきよりも落ちついている。
「ほら、見えてきた」
なるほど、何百メートルか先に、確かにモーテルの看板がある。近づくにつれて、コースタル・ドライバーズ・インというひねくれた文字が、男の目にも読み取れるようになった。車は右にハンドルを切ると、道をそれてモーテルの駐車場に入った。駐車場は隅っこにオンボロのピックアップが停まっているだけで、ほとんどガラガラといってよい状態だ。
「荷物は全部持っていく。盗まれるといけないからね」
車から降りながら男が言った。リンダは不満げな表情をつくりながらも、一番小さいボストンバッグだけ手に取って歩き出す。あとのものはすべて男が抱えていった。
「リンダ! 久しぶりじゃない! どうしてたのよ!」
男がガラスのドアを押すと、かん高い女の声が耳に入った。男が声のしたほうを見ると、カウンターの前に立ったリンダが、彼の方を顎で示している。その隣では、フロント係らしい太った女が破顔して、何かしきりに頷いていた。男は不審に思いながらも、カウンターの前まで荷物を引きずっていった。
「紹介するわ。こちらダニエル・マクブランド。お友達よ。ダニー、こちらはロジー。あたしの幼なじみ」汗だくになってリンダを見つめる彼を、彼女は何食わぬ顔でフロントの女に紹介した。
「はじめまして、ダニー」女は笑顔を作りながら、好奇心に満ちた目でダニエルを見た。
「はじめまして、ロジー」
ぎこちない握手を交わしたあと、ロジーが部屋の鍵をダニエルに渡した。ロジーは丸顔にえくぼを作って、横目でリンダのほうに目をやった。
「ダンディな彼じゃない。お友達だなんて失礼よ。どこで捕まえたの?」
「やあね、仕事上のお付き合いよ」
「仕事? まるでハネムーンみたいよ。大荷物すぎるわ」
話が途切れたところで、ダニエルが割ってはいった。
「こんなところで知り合いに出会うなんて、君たちラッキーだね」
リンダはちょっと困った顔をして、「ええ、そうね」と気のない返事をした。ロジーは不思議そうな顔でそのやりとりを見ている。
「ダニー、先に部屋に行ってて。あたしロジーとお話していくから」
「ああ、ごゆっくり」
荷物を引きずって部屋に向かうダニエルの背を、再開したお喋りの声が追い越していった。
どうしてたのよ、長いこと……
おととしマンハッタンに移ってね……
彼、いくつなの……
四十四歳、ちょうど倍だわ……
……。
部屋はちんまりして小綺麗だった。窓は大きく開け放たれていて、乾いた風が吹き込んでくる。荷物を片隅に積み上げると、ダニエルは窓から外を眺めた。
外は一面のキャベツ畑だった。広い畑地に緑色の葉っぱが玉を並べて、アーリントンの無名戦士の墓のように幾何学的な配列を見せている。その向こうには木立の丘があり、そのさらに向こうは、もう雲が浮かぶ青空だ。
ダニエルは溜息を吐いて、あらためて部屋の中を見回した。大きなダブルベッド、電話台、冷蔵庫、鏡台とデスク、ゆったりしたソファにテレビ。まるで小さな家の中の家具を、ひとつの部屋に押し込んだようなたたずまいだ。壁にはサウスカロライナの地図が掛かっていた。ダニエルは地図に近づき、今いる場所を確認した。
地図の右四分の一ほどは大西洋で、その上には州都コロンビアの拡大地図が配されている。さっきまで走ってきた州間高速95号線が地図全体を南北に貫き、ガラス板を流れる水彩絵の具のようにピンクの稲妻線を描いていた。先ほど渡った大きな湖はすぐにわかった。湖の手前から高速と平行するのが国道15号線で、橋を渡ったあと二本の道路はいったん離れるものの、その先のジャンクションで降りるとしぜんにこの国道に行き当たるようになっている。二人はそこで左に折れて、国道沿いに何マイルか走ってきたのだ。
「何がコースタルだ。海岸から六十マイルも離れてるじゃないか」
ダニエルが悪態をついたちょうどそのとき、ドアが開いて、リンダが部屋に入ってきた。
「ダニー、ごめんなさい、怒ってる?」
「いや」
「怒ってるわよね」
「怒ってないさ。ただ――」
「……」
「君は、ここが初めてじゃない。そうだろう?」
「ええ」
「前に住んでたことがあるとか?」
「そう。ふるさとなのよ」
「なるほどね。そう言ってくれれば、疲れたなんて言わなくても寄ったのに」
「ありがとう。でも疲れちゃったのは本当よ。オープンカーで旅行なんて初めてだもの。それにこの近くに来るまでは、寄りたいなんて思わなかったのよ。いい思い出ばっかりじゃないし、もう身内もいないし」
最後の言葉を聞いて、ダニエルは安堵の溜息を漏らした。彼が恐れているのは、リンダが身内に彼を紹介してしまうことなのだ。
「かまわないさ。こんどの旅行は君の希望に添えなかったから、アレンジが必要なら何でも言ってくれ」
「希望? そうね。できれば西海岸までドライブがよかったけど、一週間じゃ無理だものね」
「すまん。それ以上は休みが取れないんだ」
「奥様がシンガポールから帰ってくるんでしょう。わかってるわ」
ダニエルの妻はインテリアのデザイナーで、シンガポールで開かれた品評会に出席している。リンダとダニエルの短い夏休みは、それに合わせて急きょ日程を組んだものだった。
「飛行機なら、カリフォルニアでもどこでも行けたんだが」
「ダメよ、ドライブでなくちゃ――。旅行っていうのはね、沢山のものを通りすぎることに意味があるのよ。飛び越えちゃいけないの」
「そうかな」高速道を使うなら、通り過ぎるのはコカコーラの看板くらいだ。
「ゴー・ウェスト。アメリカはね、西へ行くほど何でも若くなるのよ。人も、土地も、空気もね。もちろんあなたもよ」
「そのうち一緒に行こう。いつか――そうだな、いつか」
「行けるといいわね。でも多分夢のままよ。人生ってそういうものだわ」
「そんなことないさ」
「そうかしら。地獄で開かれるインテリア品評会があるなら、チャンスはあるのかもしれないけど」
ダニエルは渋い顔をした。
「ごめんなさい、冗談よ」
「わかってくれ。ぼくも辛いんだ」
「いいのよ。あなたは永遠に、あたしなんかの手には入らないひと。高い高いお城の窓に、暖炉のあかりに照らされてるのが見えるだけ。あたしは森の中からそれを見て、夜な夜な悲しく遠吠えをする狼でいいの。そして――」
「そして?」
「いつか奥様と、あなたのお肉を半分こするのよ。そのくらいの権利はあってもいいわよね」
その晩ベッドの中で、ダニエルは故郷についてリンダに聞いた。リンダは何から話そうかと少し考えた様子だったが、やがて男の胸で話しはじめた。
「話すことなんて大してないわ。普通に子ども時代を送って、ハイスクールを出て、演劇の勉強をしようと思ってフィラデルフィアの学校に行ったの。でもうまくいかなくて、ニューヨークに出てダンサーをするようになった。そこで偶然あなたと知り合ったの」
「フィラデルフィアからあとのことは、前も聞いたな、確か」
「じゃあ、そうね――あたしが魔女の子孫だって言ったら、ダーリン、信じてくれる?」
「魔女? 魔女って、ディズニー映画に出てくるみたいな?」
「まあ、そうね。あんなにワルっぽくはないけど。要はへんてこな術に親しんだ女の人、って感じかしら」
「面白いな。話してくれないか」
「いいわ。じゃ、最初から」
リンダは低い声で話し始めた。
「ずっと昔ね、フロリダは瘴気地帯で、悪魔の子どもが住んでるって言われてたのよ。当時はスペイン人たちがフロリダを支配してて、カトリックの古い道徳観が、移民やインディアンたちの間で主流だったの。魔女の力は悪魔由来だから、そういう場所の方が、むしろ魔女たちの力も強まったの。ところが十九世紀のはじめに、フロリダはアメリカになっちゃったじゃない?」
「ああ」
「そしたらフロリダにこだわっても意味ないじゃない。暑いし、風土病は多いし。そこで、フロリダの魔女はだいたい二手に分かれて移民したのよ。かたっぽはメキシコ経由かキューバ経由で南米へ、もういっぽうは海沿いに北へ。あたしの先祖は、サウスカロライナまで来て定住した魔女の一族なの」
「ほう。どんな魔法を使うんだ?」
「魔法自体はね、ちょっと幻を見せたりする程度よ。魔女っていっても、普段やることは薬屋さんとかモグリのお医者さんみたいなものなの。でも、それだけじゃないところが魔女のすごいとこね。あたしたちが来てから、ここはちょっと不思議な土地に変わりはじめたのよ。影響力ってやつ?」
「どういうふうに変わったの?」
「たとえばここでは、人生の不思議が、五割り増しくらい余計に続くようになったのよ。ほかの土地だと十歳くらいで失われてしまう世界のフシギが、ここでは十五歳くらいまでは有効なの。ジュニアハイスクールの子のところにも、サンタクロースが来るってわけ。二十歳くらいで気づいてしまう人生の矛盾にも、三十歳くらいまでは気づかない。三十歳で倦怠期に入る夫婦だって、四十五歳くらいまでハネムーン気分なのよ」
それは要するに、子どもっぽい人が多いだけじゃないか? そう言いかけて、ダニエルは思い直した。「そりゃ素晴らしいね」
「ほかにもいろんな摩訶不思議なことがこの土地に起こったのよ。でも、ひとつ問題があったの。この土地の魔力は、とにかくいろんなシンボルに影響されたのよ。シンボルっていうのは、山とか川とか道路とか、とにかくいろいろなもの。たとえば街中にあたらしい建物が建つと、それを中心に魔力の効果も、分布とかも変わってしまうの。科学的じゃないのね。まるで悪魔がダジャレ遊びをしているようなものだったの」
「予測不可能ということか」
「ええ。そして1926年に、ものすごい変化が起きたのよ」
「変化? どんな?」
「国道よ。大統領がクーリッジのときに、国道十五号線(Route 15)がこのあたりを真っ二つに分断したのよ」
「ルート15……モーテルの前を走ってる、あれか」
「そう。そして、ルート15のこちら側と向こう側で、不思議な変化が起こり始めた」
「どんな?」
「R−15の太平洋側ではね、キスをするだけで赤ちゃんができるようになったのよ」
「はあ? なぜ?」
「言ったでしょ、アメリカでは西に行くほど全てが若いの」
「そんな。じゃあ、人口爆発じゃないか」
「そうよ。村が一気に町になったわ」
「しかしそれじゃあ、女の子は大変だ。キスをするたびにいちいち子どもを作ってたら――」
「それは大丈夫。赤ちゃんは、キャベツが産むのよ」
「キャベツ?」
「そう。グリーンボールのキャベツ。キスをした男女の近くにキャベツがあると、その中から赤ちゃんが生まれてくるの」
「そんなバカな」
ダニエルはモーテルの裏にあったキャベツ畑を思い出した。墓石のように整然と並んだ、玉のようなキャベツ。
「嘘みたいな話でしょ、でも本当なの。R−15のこちら側では、そういうことが全部本当になるのよ」
リンダは悪戯っ子のように笑った。
「お話はこれでおしまい。明日のお昼くらいまでにデイトンへ行ければ、午後はビーチで遊べるわね。今日は早く寝ましょ」
「ああ、ゆっくり休もうか」
「じゃあ、寝る前にキスして」
ダニエルは一瞬ためらった。しかし値踏みするように見つめるリンダの目を見ると、すぐに彼女の後頭部に腕を回した。どうせ冗談に決まっている。
「おやすみ、ハニー」
「おやすみ、ダーリン」
翌朝、ピックアップのエンジン音でダニエルは目を覚ました。外はまだ暗い。ふと見ると、ベッドの中にリンダの姿がない。ダニエルはむくりと体を起こした。と、タオルケットの上から一枚のメモ用紙が落ちた。それにはこうあった。
――赤ちゃんが落ちついたら、また会いましょう。
あなたのリンダ――
ダニエルは飛び起きた。部屋を見回し、リンダのボストンバックを捜す。ない。次に窓に駆け寄って、思い切りカーテンを開いた。外は真っ暗だ。慌てて部屋の明かりをつけると、窓枠から漏れる四角い光が、畑の一角を照らし出した。
暗くてよくわからないが、キャベツが一個、なくなっているようだ。
ダニエルは急いで服を着ると、フロントに向かった。
呼び鈴を鳴らして出てきたのは、いかにも不機嫌そうな若い男だ。
「チェックアウトですか? こんな朝早くに」
「いや、リンダ――、妻が、ここを通らなかったかと思ってね」
「さあ? 存じませんね。わたしも眠ってましたから」
「ここから一番近いバス停はどこだ?」
「南に半マイル先です。こんな時間にゃ走ってませんがね」
「ロジーとかいう女はいるか?」
フロント係は、あからさまに怪訝な顔をした。
「誰ですか? それ」
「フロント係の――」
「うちのフロントは三交代ですが、全員男ですよ」
「……」
ダニエルは混乱した頭で部屋に戻った。すべてが何かの冗談で、バスルームにでもリンダが隠れているかと捜したが、やはり誰もいなかった。彼は荷物をまとめると、夜明け前にモーテルをチェックアウトした。朝の空気はオープンカーには冷たい。
そして、リンダとはそれっきりになった。その年のクリスマスまでは――。
その年のクリスマスプレゼントは豪華だった。サンタクロースの恰好をしたリンダが、二人の男を連れてダニエルの家を訪れたのだ。一人は弁護士で、凶悪な宣告を書き連ねた書類を彼にプレゼントした。もう一人は四ヶ月くらいの赤ん坊で、それは彼が父親になったことを示す、神からの贈り物だということだった。
「養育費の請求に関しまして、こちら側の準備はすべて整っています。ミスター・マクブランドにおかれましては、裁判で処理されることも示談で済ませることも可能ですが、いかがなさいますか?」
弁護士が言うと、ダニエルの妻はヒステリーを起こして家の中のものを破壊しはじめた。
法廷で「リンダの妊娠線を調べろ」「その子はキャベツが産んだ子だ」と息まいたダニエルの言葉は、往生際の悪い姦通者の妄言として、ながく法学生の冗談の種となった。心証もすこぶる悪く、慰謝料と養育費は彼の予想をはるかに上回る高額となった。裁判官はダニエルに、今後リンダとその子の周囲30メートルに近づくと、問答無用で逮捕されると宣言した。
「魔女め! 魔女め!」
法廷を去りぎわに叫んだダニエルの声に、リンダは満面の笑みで応えた。
年が明けて、妻はダニエルの元を去った。リンダは『不道徳な父親から赤ん坊を遠ざけるため』に、金をむしり取ったあとは彼の前から完全に消えた。
そして二年が経った。
妻を失ったダニエルは、はじめ仕事の鬼となった。やがて心が落ちつくと、以前の通り有能な実業家としてマンハッタンを飛び回るようになった。彼の奇矯な発言は伝説となって、いつしか彼自身のユーモア感覚の発露として扱われることになった。
今ではレタス料理の評論家として、ケーブルテレビに出たりもしている。
アメリカって、そういう国なのである。
注)
※ 地名、道路名称などは、実在のものとは何ら関わりがありません。
※ R−15区分はアメリカには存在しません。