イドラ
《国家特別公安局第零課》
・通称〈公安零課〉
・課章〈黒菊花章〉
・課旗〈旭日黒旗〉
〈零課の編成〉
・課長
・国家危機即応部隊(実働部隊)
・情報収集員(エージェント)
・潜伏工作員(スリーパーセル)
・広域連絡員(上級エージェント)
・研究開発室
・情報分析室
・準軍事部隊(WDUとして存在)
・候補生
存在するはずのない「零」の名を冠するこの部署は、日本国内で唯一、常時超法規的権限を有しており、徹底した秘密主義と極秘任務のため、警察やその他公安組織とぶつかることが多々ある。特に後述する公安六課とは国家特別公安局の身内でありながら宿敵関係にある。なお、零課は位置付けとしては国家特別公安局内の組織であるが、独立している非公式組織のため、国家特別公安局並びに首相への報告及び情報開示義務は存在しない。
《内閣官房国家安全保障局高等戦略情報室(国家特別公安局第六課)》
・通称〈公安六課〉
・課章〈銀菊花章〉
・課旗〈旭日銀旗〉
〈六課の編成〉
・室長(六課課長)
・第一セクター(ヒューミント部門)
・第二セクター(シギント部門)
・軍事部隊(国防陸軍第28独立情報保全隊として存在)
・高等技術開発局
・候補生
日本のインテリジェンス・コミュニティーの中心であるこの部署は、日本国内で非常時における超法規的権限を必要最小限の範囲で行使でき、対外情報機関として君臨している。構成員の人数や選抜方法、任務内容は秘密のベールに覆われているが、国防軍特殊部隊や国防軍情報部との深い繋がりが推測される。実際、六課の戦闘任務には国防陸軍第28独立情報保全隊が参加しており、六課が強大な戦力を有しているのは間違いない。
零課、六課ともに国益のために活動しているが、必ずしもその方向性が一致するわけではない。零課は下手をすれば国家崩壊の危機に繋がるような荒療治も選択肢に入れる一方、六課は安全で確実な選択肢を好む。情報量の優位性でいえば圧倒的に零課であるため、六課は零課により多くの任務を妨害された。
〈時刻1349時。日本、広島県〉
広島県南西部に位置する呉市。瀬戸内海に面しており、造船業や漁業、観光業などが栄えている。特に造船技術は世界最高峰で、有名な日本海軍戦艦〝戦艦大和〟が建設されたのも、ここ呉の海軍工廠である。また、呉市には海上保安大学校や国防海軍基地が置かれ、海の守りを司る重要な都市の一つだ。世間的に知られていないが、国家特別公安局員、特に公安四課(国防省中央情報本部統合戦略情報局)の海に関する訓練も行われている。
「さて、たいぎい視察が終わった終わった」
一は珠子とともに赤いスポーツセダンに乗り込む。
二人は国防海軍基地と海上保安大学の視察を一週間にわたって実施。これはスパイ調査を兼ねた零課員及びWDU隊員の候補生選抜でもあった。ただし、零課員候補生の選考基準は非常に厳しく、何年にもわたり候補生は審査される。なお、零課員候補生の選抜対象は警察組織、公安組織、国防軍、海上保安庁だけでなく学者、犯罪者、さらには一般人も含まれる。最終選考に合格すれば正式な零課員として任命され、零課員の証〈黒菊花章〉が授与されることになる。
「たいぎい?ですか?」
助手席に座った珠子は一に言葉の意味を尋ねた。
「ああ、広島弁だよ。身体が怠いと精神的にめんどくさいを合わせたような言葉さ。愛媛とかでも確か使われているんじゃなかったか」
「なるほど。でも、一は県外出身では?」
「そうだ。俺は隊長に引き抜かれて広島に来た。だから方言は隊長譲りだ」
「隊長が方言使っているところ、見たことない」
一は車を発進させ、海上保安大学校を出る。
「確かに。隊長は訛りがほとんどない。出身地を他人に知られたくないからだろう。たいぎいって言葉も俺といる時ぐらいしかない。ほんと稀だ」
「……隊長、大丈夫よね」
「ああ。隊長のしぶとさはよく知っている」
少し空が暗くなってきた。雲行きが怪しい。予報では午後からの降水確率は70%。雨が降りそうだ。
「滝も隊長の噂ぐらいは聞いたことあるだろう」
珠子は警察庁警備局警備企画課、通称〈ゼロ〉の出身。表向き存在しない国家特別公安局第八課で、六課とともに〝真の零課〟の隠れ蓑である。第八課は主に国内を対象とし、全国の協力者(情報提供者を含む)と都道府県の各公安組織への指示や管理を行う。公安のエリートだ。
「伝説の殺し屋、至高の賞金稼ぎ……そういう噂は聞いたことがある。隊長がその人だと知った時は驚いたけど」
「本当に驚いただけか?」
一の指摘に珠子は一呼吸置いて答える。
「恐ろしさも感じた。そして、若干の憎悪も」
「だろうな。隊長は過去に八課員を殺している。それも自殺や事故に見せかけて。隊長は滝の気持ちを分かった上で零課に招き入れたわけだ」
ここで不意に珠子は先日の零と一の会話を思い出す。表情に出したつもりはなかったのだが、一はそれに気が付いた。
「そうだな、俺と隊長の話でもするか。別に機密指定されているわけでも、隊長から箝口令を敷かれたわけでもないからな。俺は皆の知っての通り、公安六課の出身だ。六課は権限や活動範囲は異なれど、内容としては零課と同じく裏の仕事さ。ただ、六課は零課の存在を知らされていなかった。正しくいえば六課長と一部の課員だけが零課の存在を知っていたんだ。六課と零課は度々衝突し、死者が出ることもあった。当然、死者が出るのは六課の方で、仲間が殺されても、零課の存在が明かされることは無かった」
赤信号で車が停まる。
「俺が香港での潜入任務を遂行中の時の話だ。俺は長年連れ添った仲間とともに、中華連の第505機関と関わりのある企業やマフィアを調べていた。当時、公安六課は505機関の台頭を危険視し、機関の壊滅あるいは弱体化を狙っていた」
信号が青に変わり、車は再び発進する。
「ある日、俺達は何者かの襲撃を受けた。襲撃犯は三人。一瞬のうちに五人の仲間が殺され、俺は重傷を負った。正直、今でも生きているのが不思議なくらいだ。俺は間一髪救出され、日本に帰国。六課における香港の任務は全て白紙になった」
フロントガラスに水滴が付いた。雨だ。雨は瞬く間に勢いを増し大雨となる。フロントガラスの雨水を払うため、自動でワイパーが起動した。
「相手は零課……でもどうして零課は六課の妨害を?」
珠子の疑問は最もだった。
「今になってその理由が分かったよ。零課はブラックレインボーのことを見据えていたんだ。505機関を防波堤にするとともに、日本よりも中華連の方へブラックレインボーの注意を逸らさせるのが狙いだったんだ」
「さすが零課ね」
「俺は仲間の仇を取るため、そして日本のために、謎の襲撃者を追った。だが、思った以上にそれは難しいことで、六課長からも調査を止めるように言われた。何とか零に辿り着き、俺は零と戦った。ま、負けたけどな」
〝私を殺したいか〇〇〇〇?〟
〝私が憎いか?〟
〝ならば私の下に来い。貴様を強くしてやる〟
〝そして、貴様に背中を預けよう〟
〝いつでも好きな時に私を狙うといい〟
〝まあ、私を殺せることができるならな〟
〈日本、広島県(公安局本部)〉
射撃演習場ではブライアンと健がVR訓練を行っていた。ブライアンはXSR‐99Lレールガン式スナイパーライフルを構え伏せており、その左横にいる健は多機能観測器GIDで狙撃の着弾を確認していた。
平地に置ける超長距離狙撃訓練。単純に目標が遠方に表示され、それをいかに正確に射抜くかという訓練だ。ただし、目標が人間とは限らず、距離もランダムである。また、天候要素や重力が存在するため、それらを読み解く力が狙撃手と観測手両名に求められる。
シュッパンッ!
「ヘッドショット。距離4365メートル」
シュッパンッ!
「ハートショット。距離5890メートル」
観測手である健がブライアンに命中判定と狙撃した目標の距離を伝えていく。本来なら観測手は目標までの距離や風向き、角度等の修正を指示するが、今回の訓練ではブライアンが単独で超長距離狙撃を行えるようになるのが目標だった。ゆえに、健は事前に目標の情報をほとんどブライアンに教えず、ブライアンは淡々と狙撃を行っていた。
シュッパンッ!
「ミス。誤差修正、上に0.03度、左に0.10度」
今、ブライアンが外した目標はアンドロイド兵の頭。アンドロイド兵はその場からほとんど動いていないが、僅かな誤差が超長距離狙撃では命取りになる。
シュッパンッ!
「ブレイクショット。距離8802メートル。ブライ、今日はこのくらいでいいんじゃないか?」
「そうだな。もうあがろう」
目の前には今日の狙撃記録が表示される。
〈記録〉
狙撃手:矢羽田ブライアン
観測手:藤崎健
使用武器:XSR‐99L
最長距離8802メートル
最短距離4000メートル
ワンショット最長8370メートル
撃破目標数85
ミスショット5
「だが、目標とする一万メートルには程遠い」
「焦ることはないと思うぞ」
「分かってはいるけど、なかなか落ち着けないんだ」
「とりあえず休憩室で飲み物でも飲もうや」
「ああ」
二人はVR訓練を終了し、休憩室へ向かった。
〈殿堂入りレコード〉
狙撃手:伊波零
観測手:矢羽田ブライアン
使用武器:XSR‐99L
最長距離12233メートル
ワンショット最長12233メートル
〈XSR‐99L〉
試作レールガン式スナイパーライフルXR‐99をモデルに改造された新型狙撃銃。全長152.4センチ、重量14.64キロで、理論上の最長有効射程はSRA‐55Jを遥かに超える12238メートル(あくまでも本銃は対空・対装甲車用である)。非常に強力な銃だがハイテク要素を極力取り除いてあるため、使用者に問われる技量はかなりのものだ。
モデルとなったXR‐99は誘導弾を使用した対空・対装甲車用ハイテク狙撃銃で、超長距離の狙撃が可能だ。味方の偵察デバイスや偵察ドローン、人工衛星による標的マーキングにより、発射された弾が自動的に標的へ飛翔する。遠距離であればあるほど弾道補正が働くため、遠く離れた標的は何が起こったのかも知らずに吹き飛ぶことだろう。欠点は誘導弾の誤作動、位置補正の誤差、磁力フィールドによる弾道偏向等が挙げられる。
「もっと耐久性を上げないと」
開発室ではケナンが新型戦闘スーツの試作を行っている。これは零専用になる予定の代物だ。零の驚異的な身体能力と過酷な戦場へ適応できる戦闘スーツを開発することは、ケナンにとって緊急の課題であり、腕の見せどころでもあった。ケナンの予想をいつも超える零に合わせ、彼は装備を更新し続けた。零は今なお進化し続けている。彼女のパフォーマンスを最大限に発揮させることが彼の使命であった。
「ガントレットも一から作り直そう」
ガントレットは零が両腕に着けている多目的籠手。単純に防具として使えるだけでなく、ワイヤー射出器、ダガーナイフ収納、スライサーディスク射出器、通信及び遠隔操作パネルといった様々な機能を内蔵している。そのため、零にとって重要な装備だった。
「徹底的に軽量化、なおかつ強靭に。探知機にも引っかからず、それにもっと機能性を高めたい。隊長は平気で無茶するからねぇ」
《零用新型戦闘スーツ 開発目標》
・スーツ全体の耐久性の向上及び機能性の向上
・CBRNE防護機能の向上
・第五世代光学迷彩の改良
・着用時における不快感の低減
《零用新型ガントレット 開発目標》
・ガントレット全体の軽量化
・強度と柔軟性の両立
・ワイヤー射出速度の高速化及び安定化
・ワイヤー射出器の可動域拡大
・ダガーナイフ収納スペースの改良
・スライサーディスク射出口の調整
・操作パネルの高性能化及び耐久性の向上
・左右両方のガントレットを統一(ワイヤー射出器とスライサーディスク射出器の一体化)
・ガントレット側面(小指側)に内蔵式可変超高周波ショートブレードを追加
《新型ダガーナイフ 開発目標》
・非探知性の向上
・グリップ素材の変更
・耐薬品性、耐熱性、耐寒性の向上
《新型ユーティリティベルト 開発目標》
・全体の耐久性の向上
・軽量化及び携行性の向上
「どこまで実現できるかな~」
楽しそうにケナンは黙々と作業を進めていく。
情報分析室。ここは主に零課のエージェントや実働部隊が収集した情報を整理、保存、分析する部屋である。特に第三情報分析室は由恵やケナンが使っており、ほとんど二人の専用部屋と化していた。
「まさか鶴間があのレインマンだったとはな。驚いた」
「零課で知らなかったの、多分、直樹だけだと思うよ」
「それはそれで何というか……変な気持ちだ」
「あははっ。そういえば直樹はどうして零課に?元HRTなんでしょ?」
「そうだな」
第三情報分析室では由恵と直樹がブラックレインボーに関する情報の分析を行っていた。
「五年前、広島で起こった《シヴィル・ソサエティ事件》は知ってるかい?」
「知ってる。過激派新興宗教団体《シヴィル・ソサエティ》によって引き起こされた大規模暴動事件だよね。二週間ほど広島市内が封鎖されたやつ」
「そう。俺は当時、市内で多発していたCSによる人質事件の救出任務に就いてた。正直酷い事件だったさ。人質を救えない時もあったし、人質がCSの仲間だった時もあった。そして、恥ずべきことに警察だけの手では抑えられなかった。日本でよくある上層部の無能さよ。特殊部隊の投入が遅れ、事態は長期化。元々、公安がマークしていたこともあって、公安による介入が行われたんだ」
「零課の介入だね。公表されていないけど」
「三つの人質救出任務で隊長と一緒になり、そこで引き抜かれた感じかな」
シヴィル・ソサエティ、日本語で〝市民社会〟を意味するこの宗教団体は、公安二課による強制介入が行われる前にテロを実行したため、多くの市民へ被害が出てしまった。主なテロ発生地域は青森、東京、大阪、広島、福岡、沖縄である。警察機動隊による鎮圧作戦が行われたが失敗。国家特別公安局とWDU両方の支援を受けて、シヴィル・ソサエティは完全に解体された。
事件終結後、公安二課を中心とした公安警察はWDUと共に全国のシヴィル・ソサエティ支部を全て制圧し、関係者を例外なく逮捕した。国家特別公安局の調査により、本件にはブラックレインボーの関与が疑われたが、確固たる証拠は見つからず、また、信者から違法薬物は検出されなかった。しかし、幹部らは薬物中毒と思われる症状が確認されている。このため、現在の公安では事件の背景にブラックレインボーがおり、試作型ブレインシェイカーの実験だったと考えられている。
〝何も!女子供まで殺す必要は無かったじゃないですか!〟
〝何を言っているのか私には分からない〟
〝武器を捨て命乞いをしていたんですよ!それを!〟
〝最優先は社会の安寧。これは命令だ〟
〝ですが!〟
〝では聞こう。大人だったら、男だったら殺しても構わないのか?〟
〝そういうわけでは……〟
〝私にとって何も変わらない。むしろ女子供の方が恐ろしい。戦においてはな。子供は成長して、我々に牙をむくかもしれない。新たな同志を集って。歴史を顧みればこれは事実だ〟
〝…………〟
〝私の経験から言わせれば命乞いなどあてにはできない。数えきれない程殺されかけたからな。仮に生かしたとしても……彼女達が普通の生活を送れるようになれる保証がなかった。深層心理まで汚染されていたんだ〟
〝確かに彼女達の洗脳は深刻でした……〟
〝現実と理想は違う。それは嫌でも納得するしかない。それが私の仕事だ〟
〝……貴方はそれでいいんですか?〟
〝私に選択肢は無いんだよ。〇〇、私の下に来ないか?現実を、命を、正義を今一度見つめる良い機会になるだろう〟
二体のクロウが資料室で暇潰しをしていた。スマートデスクにホログラム画面が表示されており、零のプロフィールと顔写真が映し出されている。プロフィールといってもほとんど内容がない簡単なものだ。より詳しい情報を閲覧するためには課長権限が必要である。
《伊波 零》
・本名:データ無し
・年齢:データ無し
・性別:女性
・役職:内閣最上級特務調査官
・所属:零課国家危機即応部隊(隊長)
・記録:全訓練項目(VR訓練、総合演習を含む)で初回満点を獲得済み。
「隊長、復帰にはまだ時間がかかるみたい」
「大丈夫かな。人間の身体は壊れやすいのに」
「そうだよね。機械の身体にすればいいのに」
「でも、隊長は機械化しないと思う」
「何で?」
「うーん、隊長と長く一緒にいるとそんな感じがする」
スフルは零がサイボーグ化しないことを理解していた。
「おいおい~そんな曖昧な回答はなしでしょ。もっと具体的に」
「一生懸命生きているって感じ。それでいて死に場所を求めているようでもある」
クロウには高度な顔認証機能が搭載されているため、人間の表情を深く観察することができる。膨大な心理学的、医学的知識と合わせることで人間の深層心理を分析し、標的人物の行動予測や課員の心理カウンセリングに応用できた。
「矛盾していない?それ」
「矛盾しているよ。でもそう思う。多分、自分では死に場所を選べないんじゃないかな」
「人間って変だなー」
「人間全体というより隊長個人かな」
「まだまだ人間について、隊長について学習しなくちゃいけないね」
「そうだねぇ」
課長室では由恵が武佐へ資料を提出していた。ブラックレインボーが今後どのように動くかという予測である。
「ありがとう由恵。他にも仕事があるのに」
「データ自体はありますから。そんなに時間はかかっていません」
「そうか」
武佐は紙資料に目を通しながら、デスクに映し出されるホログラム資料にも目を通す。
「相手の次の手は潜入と暗殺か。それもかなり大胆だな」
「はい。仕掛けてくるとすれば二か月後でしょう」
「ラーンの動きは把握している。その点では安心できよう。問題なのはソールの動きだな……こいつは対応が難しい」
「各部署へ事前通達していますが、完璧な対応はまず不可能かと。スペードのクイーン、ソールは戦術兵器でありながら戦略兵器でもあります」
「君のハッキングも駄目か」
「おそらく。ブラックレインボーの対電子戦能力は日を追うごとに向上しています。クイーンへの直接ハッキングも間違いなく返り討ちに遭うことでしょう」
長い間、ブラックレインボーのクイーンはサイボーグと考えられていたが、それは間違いだった。彼女達は人間と見間違えるほどの完成度を誇るアンドロイドで、金属探知にも引っかからない。それに今までのクイーン達から分かるように感情の起伏があった。
「あまり頼りたくないが、軍を動かすことも考えよう」
〈時刻2311時。日本、東京都〉
1980年代のSFアニメを彷彿とさせる派手なネオン。自動清掃ロボットの清掃が追いついていないのだろう。道路の隅や排水溝にはゴミが溜まっている。ならず者達が徘徊しており、警察が出動することも珍しくない。
「相変わらず騒々しい街だ……」
東京は超高齢社会の到来により、人口の急激な衰退と労働力不足に直面したが、幸いにもそれを乗り越え、新たな世代が育ちつつあった。ただし、人口減少と超高齢社会で成長してきた若者の中には社会への反発と老年の排斥を顕著に表す者もいた。それはある意味、当然の結果ともいえる。彼らはそれこそ日本社会の氷河期を強いられ、過酷な労働のわりに賃金も低いまま。それにも関わらず、税金は上がる一方。社会保障費の増大だ。若者よりも高齢者を優遇する政府に反発するのも無理はない。
「これでも昔より穏やかになった方なんだよな」
久しぶりに東京へ来た響はバー〝ファンタム・レディ〟へ入った。
実在しない女(Phantom Lady)を意味するこのバーは地元の不良に愛されている店で、かつては暴走族の待ち合わせ場所としても使われていた。
「おいす」
手を挙げてマスターに挨拶した後、カウンター席へそのまま座る。
「ご注文は?」
「スケアクロウ」
「畏まりました。少々、お待ちください」
注文を受けたマスターはその場でカクテルを作らず、店の奥へ一旦下がった。
「はぁ、自動調合機か……おじさん、ちょっと悲しいぜ」
この時代、バーテンダーによるカクテル調合もあるが、ロボットや自動調合機による調合も普及している。カクテルを調合し終わったマスターが奥から出てきた。
「スケアクロウでございます」
案山子の意味を持つ灰色のカクテル。見た目としては少し地味だが飲みやすく、このお店では人気メニューの一つだ。
「ありがとう」
グラスを受け取ると同時に小さな紙片を貰う。
「ふーう、身体に染み渡る」
一口でグラスの中身は半分になっていた。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
響の左隣に新しい客が座る。男性だ。
「ラスト」
マスターは何事もなかったかのように、隣の客のカクテルを作り始める。スケアクロウとは異なり、ラストは自動調合機で作らないようだ。
「……久しぶりだな」
「お互い仕事が忙しいからな」
隣の男が言葉を返す。二人とも友人ではないが、知り合いであった。彼は公安二課、即ち法務省公安調査庁第六調査部別室の人間である。国家特別公安局の中では比較的まともな部署で、ドンパチすることは稀だ。
「何かいい娯楽でもないもんかね」
そういって、響はグラスに残っていたカクテルを全て飲み干した。
「そうだな。アイドルなんてどうだ?」
「おいおい、いい歳したおじさんがアイドルの追っかけか」
ここでマスターが隣の男に完成したラストを提供する。
「ラストでございます」
マスターへ小さく頷き、男は桃色のカクテルを一口含んだ。
そして再び口を開く。
「何言っているんだ。今の時代、アイドルを支えているのはおじさんさ。アイドルも多様化してバーチャルアイドル、アンドロイドアイドルなんてものもある」
「ほお。すごいな。一押しのアイドルとかいるのか?」
「そうだな……〝シスター・ダイヤモンド〟とかいいぞ」
「その名前は聞いたことあるな。三人グループのアイドルだったか」
「見てみろよ。二か月後に広島でライブがある」
「覚えておく。じゃあな」
酒代をカウンターに乗せ、静かにファンタム・レディを出た。
「課長、今戻りました」
白いセダンに乗り込んだ響はUCGで速やかに課長へ連絡を取る。
『どうだった?』
マスターから貰った紙片を開き、書かれている文字を見た。
太陽は大陸を枯らす
「四課によるとソールは中華連にいるようです。どうやら505と軍を相手に暴れているようで。また、二課はラストを承諾。さらに二課によるとラーンは予定通り、二か月後に日本に来るのは間違いないとのこと」
『クイーンの力は侮れない。引き続き、我々は奴らの動向を探り続ける。公安局とは連携を取らなければならん』
「ライバルに塩を送っただけでなく、今度は公安局と共同戦線ですか」
ここでいうライバルとはスミルノフ、505、ゼニス、ヴァイスを指す。
『秘密主義過ぎると我々も動けないことがあるからな。台湾やフィリピンとの水面下協力もあるだろう』
「課長の命令とあらば」
《ラスト》
国家特別公安局が一致団結して非常事態への対応を行うこと。また、その命令並びに態勢のこと。通常、この命令に零課が組み込まれることはない。ただし、今回は公安零課長の武佐が各課へ秘密裏に指示を通しており、二課を除く全ての課は既にラストを承諾していた。そして、先ほどファンタム・レディで二課の男はカクテルのラストを注文したが、これは零課に協力するというサインであった。これにより、国家特別公安局は創設以来、初めての零課主導ラストが決定した。
《零課のライバル》
零課の存在に感づき、零課と幾度も衝突してきた組織であり、なおかつ、尊敬に値する組織である。各組織はそれぞれ国に対して絶対の忠誠を誓っているため、零課として見ても内部にブラックレインボーがいないと言い切れる。零課は宿敵であるとともに最も信頼できる彼らへブラックレインボーの強襲計画(レクイエム計画)に関する情報を提供していた。
・「スミルノフ」
ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)に属する極秘特殊工作部隊。総局長直属であり、構成員は全て女性(ナチュラル)である。暗殺を得意とし、場合によっては身内でも処分を行う。大統領への報告義務はない。
・「第505機関」
中華人民連合の陸軍対外情報局。四つの特殊部隊が存在し、それぞれ玄武、朱雀、青龍、白虎と呼ばれる。その中でも玄武部隊は過酷で汚い任務を遂行するため、他の部隊よりも決死隊の意味合いが強い。
・「ゼニス」
イギリス秘密情報局軍事情報統括部危機管理室、通称ゼニス。ザ・スパイというイメージが強い組織で、独自のハイテク装備も数多く開発している。世界で幅広く活動しており、認知度は比較的高め。
・「ヴァイス」
ドイツ特殊部隊作戦指揮司令部直轄のサイボーグ特殊部隊。対テロ作戦を担う軍特殊部隊であると同時にテロを未然に防ぐ特殊工作部隊を兼ねる。対テロ戦闘やテロ組織撲滅のため、海外に多く派遣されており、その実力はスミルノフも認めている。
〈中華人民連合、某省〉
中華連陸軍第778機械化歩兵旅団はソール及びソール配下の特殊部隊により、壊滅的な被害を受けていた。ソールによる榴弾の雨は一気に地上兵力を削ぎ、武力偵察中隊と戦車大隊は全滅。UCGでの味方死亡表示は数え切れない。
「衛生兵!衛生兵はいないか!」
負傷者を抱えた兵士が衛生兵を必死に呼び求める。あちこちで銃声が鳴り響き、時折ソールによる爆撃が行われ、人間が肉片に変わっていった。まさに地獄絵といっていい。
「アハハハッ!誰も私を止めらない!もっと戦争を!もっと殺戮を!」
狂気に満ちたその笑みは幼い容姿に似つかわしくない。対空砲や対空ミサイルが散発的に飛来してくるが、それらを全て難なく回避した。
「天にあだなす者には鉄槌を」
レールガンUxE‐07から発射された弾頭は着弾前に炸裂し、地上を炎の渦で覆い尽くした。
『アクィラ4、こちらグリーンアイ。空軍の無人要撃機が60秒後に到着予定』
「問題ない。全て落とす」
各国の軍事ネットワークを掌握している電子戦指揮官〈グリーンアイ〉の情報に間違いはない。空軍はソール迎撃のために無人戦闘機JQ‐13を十二機投入した。
「これでさらに撃墜数が増える」
JQ‐13は中華連の次世代対無人機用無人戦闘機。新素材をふんだんに盛り込んだこの戦闘機は、従来の航空機概念を打ち壊す機体で、急旋回や急上下の際、鳥の羽ばたきのように翼が曲がる。この特徴的な翼により、全方位機動を実現するとともに、敵機に予測されにくい変則的な機動を描くことが可能となった。なお、ステルス性能は重視されていない。
「グリーンアイ、こちらアクィラ4。敵機視認。エンゲージ」
ただでさえ動きが奇抜で厄介なのだが、小型戦闘機のため通常の有人戦闘機が相手にするのは至難の業だ。というより事実上不可能だろう。
「イガルトリック社製の人工知能みたいだけど、全然大したことない」
しかし、ソールの戦闘能力は底知れない。驚異的な機動力を誇るJQ‐13だが、小回りで言えばソールに敵うわけもなく、さらにソール自身が手を下す必要もなかった。彼女を守る遠隔支援ユニット〝イビルアイ〟によって、JQ‐13はただの鉄くずと化す。
「へえ。諦めないんだ。馬鹿みたい。ま、降伏しても止めないけどね」
JQ‐13の増援部隊だ。その数8。
‐Tally-ho
‐Select Weapon
‐Supersonic Omnidirectional Cluster Missile
‐Lock on
‐Launch missiles
ソールをターゲットとし、JQ‐13から超音速全方位多弾頭ミサイル(SOCM)が二発ずつ発射された。SOCMは対高機動無人機用として開発された近中距離空対空ミサイルである。専用の発射装置と高い誘導性により、全方位に対応可能。発射されたミサイルは標的付近で無数の小型爆弾(子弾)へと分裂し、子弾は標的の予測機動を塞ぎながら、標的を撃墜又は損傷を与える。これにより、JQ‐13と同様の性能を持つ無人機でも容易に相手にすることができる。ただし、ソールは無人戦闘機ではない。アンドロイドだ。
「つまんない」
その言葉通り、このような反撃はソールの想定範囲内であった。レクイエム計画における各国の対応はどれも歯ごたえの無いもので、彼女は退屈極まりない。
イビルアイを事前に自身の周辺に展開させておき、シールドを展開させることで回避することもなく、SOCMの猛攻を防いだ。
『アクィラ4、接近するロシア軍機あり』
義眼のディスプレイには拡大表示されたロシア空軍のFI‐3sが十五機映し出されている。FI‐3sは第四世代光学迷彩を搭載したステルス戦闘機。サイボーグ兵士専用の一撃離脱特化機体で、他に類を見ない静音性とスーパークルーズ性能の実現に成功している。
「ロシアもしつこいねぇ……」
〝Select Warhead〟
〝High-Explosive Multi-Purpose(HE-MP)→ Electromagnetic Pulse(EMP)〟
〝Lock and load〟
UxE‐07の弾頭を榴弾からEMP弾へ変更。
「これで消えろ」
空へ発射された弾は高度爆発を起こし、発生した電磁パルスによりJQ‐13とFI‐3sは制御を失い全て墜落した。ただし、EMP弾頭による電磁パルス効果範囲はそこまで広くないため、影響は局所的である。
「シグナス・リーダー、こちらアクィラ4。脅威となる敵航空戦力は排除した。地上部隊を進めろ」
『了解』
「グリーンアイ、私は弾薬補給のためポイントJ1まで後退する」
ソールは落ちていった敵機の残骸を見ることもなく、補給地点へ引き返した。
〈ブラックレインボー補給地点J1〉
ソール用に設営された補給地点の一つ、ポイントJ1。
「イビルアイの起動停止。メンテナンスモード」
UxE‐07をスタンドに置き、部下が給弾箱を取り外した。
ここにはアンドロイドから構成される整備班と通信班、守備隊が駐屯しており、UxE‐07専用の各種弾頭と予備ハイマニューバ・フロートスラスターが用意されている。
「あまり使い込んでいないけど、ついでに交換しておこうか」
そういってソールは背中のハイマニューバ・フロートスラスターを外す。
ハイマニューバ・フロートスラスターは同じ空を飛ぶ装置であるフロートウイングと比べ、エネルギー消費が激しく、部品劣化が速い。そのため、激しい戦闘や長時間航行の終わりには交換する必要があった。
「クイーン、敵歩兵が接近中」
守備隊のHX‐8Qアンドロイド兵が銃を構え、警戒モードに入った。
「おかしい。ここを嗅ぎ付けられるにしても早すぎる」
中華連が展開している部隊情報は全て手の中にある。他の国に関しても同様だ。通常のデータベースにないということは独立した特殊部隊であろう。それも友軍にすら位置情報を共有していないことになる。下手をすれば同士討ち。それでもここに来た。かなりの手練れだ。
ヒュン……バシャッン!
ソールの背後から弾丸が飛来、装着前の予備ハイマニューバ・フロートスラスターを貫通した。
ガッシャッン!
続けざまにもう一発。
スタンドに置かれていたUxE‐07が吹き飛んだ。
「……ふざけたマネを。よほど死にたいようだ」
ガンブレードを両手に持ち、敵からの銃撃に備える。
三発の弾丸がソールに向かって飛んで来た。それらを正確にガンブレードで弾き、同時に狙撃手の位置を解析。HX‐8Qへ位置情報を送信した。
「まさか玄武の生き残りがいたとはね」
玄武部隊。彼らは陸軍対外情報局第505機関の最精鋭戦闘部隊だ。ロシア(GRU)のスミルノフ部隊と並んで、その恐ろしさは一言では語れない。
「いいだろう。サイファーの前に片付けてあげる。クソ虫どもめ」
部下達がやられていく中、ソールは大きく跳躍後転し、背後に迫っていた玄武隊員の首を左手のガンブレードで切り裂いた。溢れ出す鮮血が顔にかかったが、そのまま息つく暇もなく右のガンブレードの引き金を引き、三人の玄武隊員を射殺。ハイマニューバ・フロートスラスターに頼らずともソールの敏捷性は健在だった。
全方位からの射撃を受けてもソールが動じることはない。空を飛べない分、三次元的戦闘能力は低下しているが、彼女の小さい容姿からは想像もつかない跳躍力と瞬発力で玄武部隊を圧倒していた。
しかし、玄武部隊もただやられている訳ではなかった。彼らには相当量の腐食性ナノマシンが投与されており、ガンブレードで殺された時、その腐食性ナノマシンはガンブレードを少しずつではあるが、着実に侵蝕していた。ガンブレードだけではない。ソールの身体も蝕まれていた。
「こいつら体内に腐食ナノマシンを。チイッ!」
ガンブレードを胸に刺された玄武隊員が口を開く。
「我々は祖国のために、人間の誇りのために命を捧げるのだ……断じて貴様に殺された訳ではない」
この言葉にソールは怒りを覚えた。実に腹立たしい話だった。玄武はソールを止める気でいたが、同時に死ぬつもりでもいたのだ。腐食性ナノマシンは人体にとって猛毒であり、致死性が高い。おまけに、一度体内へ侵入したナノマシンを完全に取り除くのは困難を極める。
これは賭けだ。
全てはソールを止めるため。
玄武は一筋縄でソールを倒せないことは十分理解している。完全に倒せないまでも、今後の弱体化を狙ったものだった。
数分後、玄武部隊は全滅。
「こちらアクィラ4。玄武部隊と交戦、掃討した。だが、腐食ナノマシンによる汚染有り。除染チームを要求する」
『了解した。300秒後に除染チームが到着』
「忌々しい冥土の土産だ……」
この戦いが表の歴史に刻まれることはない。
しかし、後世に彼らを称える者達がいることもまた事実であった。
〈時刻1720時。日本、広島県〉
佐西市グランドさくらガーデン。ここは複合娯楽施設であり、オープンテラスの飲食店や自然公園、図書館、温泉施設、コンサートホールが併設されている。なお、テロ対策のため、危険物の持ち込み並びにドローンの持ち込み、使用は禁止。当然だが敷地内における迷惑行為も禁止である。
今日の目玉イベントはアンドロイド・アイドルグループ〝シスター・ダイヤモンド〟による広島ライブ。会場はグランドさくらホール。最大収容人数は六千人。開演時刻は午後7時、開場時刻は午後6時30分から。
シスター・ダイヤモンドは三人の女性アンドロイドからなるアイドルユニットで、日本だけでなく世界にも熱狂的なファンがおり、彼女達のライブは基本的に満員だ。ユニットの中心となっているのはイリス。冷静さとお茶目さを併せ持つ、知的天然系だ。イリスの右に立つのはアイグレー。お姉さん系で黒ぶち眼鏡をかけているのが特徴だ。一方、イリスの左に立つのはスキュラ。妹系キャラのはずだが、少々口が悪い。
彼女達はアンドロイドのため、老けることもなく、歌唱力は変幻自在。文字通り、永遠の〝アイドル〟と言えよう。
そして、ここからが本題である。
シスター・ダイヤモンドのイリスはブラックレインボー・ダイヤのクイーン〈ラーン〉ということだ。シスター・ダイヤモンドの所属事務所もブラックレインボーの所有物であることから、アイドル活動を資金稼ぎに利用しているのは間違いない。加えて、新たな拠点の増設、新たな部下の開発を併せて行っていた。
一人でガーデン内を散策している一。見た目では分からないが、ガーデン内には私服の公安警察官が多数巡回しており、来るべき時に備えていた。
『八課がブラックレインボーの動きを捉えた』
左耳のワイヤレスマイクから課長の声が届く。
「おおよその数は?」
『広島だけでも300。海や空からも含めると400以上だ。全国では二千以上』
「連中、随分と大きく動いたな。潜伏工作員については?」
世界企業連盟の生産したアンドロイドは世界各地で使用されており、日本も多くのアンドロイドが稼働している。そして、世界企業連盟はブラックレインボーの表の顔であることから、世界企業連盟のアンドロイドがテロを起こす可能性は大いにある。つまり、アンドロイドのスリーパーセルだ。
『アンドロイドに関しては五課が、他については二課、四課、WDUが対応する予定。既に全国で陽動と思われる事件が多発している。ただし、相手もこちらの動きを分かっていると考えるべきだろう。ミストやブレインシェイカーの脅威も去ったわけではない』
「まさかアイドルがテロリストなんてファンは夢にも思ってないだろうな」
『事は慎重に進めなければならんぞ』
「分かってる」
周囲の動きに注意しながら、一はガーデン内を進んでいく。
菅田と珠子の二人はカップルを装いながら、コンサートホールへ向かっていた。
「アイドルがブラックレインボーのクイーンとはねぇ」
「国連も、大企業も、そしてアイドルも……世の人がどれだけこの事実を知っているのかしらね」
ブラックレインボーは犯罪組織であるとともに、国連であり、世界企業連盟という三面の顔を持つ。治安維持の名目で国連常備軍を派遣し、ライバル過激派組織を葬り、大企業の力で国連を操る。大企業を隠れ蓑にし、違法活動を行い、世界情勢を煽る。
おまけに、有名アイドルすらブラックレインボーの手先というのは公安として非常に困った話だ。あまりにも堂々と世間の目を集め過ぎている。即ち、シスター・ダイヤモンドの対応を誤れば社会の混乱と日本警察の信頼失墜は免れないということだ。
「アイドルは大人しくアイドルでいて欲しいね」
心の底から直樹はそう感じた。
〈グランドさくらガーデン コンサートホール〉
シスター・ダイヤモンドのスタッフ達は舞台の準備を進めていた。照明器具、音響装置、撮影機材は万全の状態で用意されており、ステージ上には黒い布に覆われた長方形の箱がある。その箱には妙な凹凸があるが、おそらく演出に必要な特別機材だろう。
「イーグルアイ、こちらラーン」
イリスもといダイヤモンドのクイーン〈ラーン〉がニンバス総帥へ通信を繋げる。
『ラーン、状況を報告せよ』
「ライブの準備は完璧。部下の配置も予定通り」
『公安の連中はどうだ?』
「相手もどうせ気が付いているでしょう。お互い計画通りってとこね」
『油断するな。そこは日本だ』
「大丈夫。最高のショーを見せてあげるよ。リハーサル無しで」
〝本日はシスター・ダイヤモンドの広島ライブにお越しいただきありがとうございます。館内の警備スタッフにご連絡事項がございます。業務連絡、業務連絡、レインボーからPSへ。レジーナがお呼びです。至急、コンサートホールまでお越しください〟
館内アナウンスが響く。
一般人には何も関係のないこのアナウンスだが、公安警察官達は違った。間違いなくこれはクイーンからの挑戦状だった。
「先方からの特別招待だな」
一はすぐに館内を移動する。
警備スタッフというのは館内の警備スタッフということではない。警察官を意味していた。その証拠にレインボーはブラックレインボーのことで、PSというのは公安警察(Public Security)を示している。そして、Reginaはラテン語で女王。日本の公安警察を相手から誘っているのだ。
スタッフ用裏口に到着した一は男性の警備員に声をかける。
「お待ちしておりました。このまま案内標識に従い、ホールへ入場してください」
事前に話を通してあるのか、全てのスタッフは一の姿を見ても反応を示さなかった。
(一体どういうつもりだクイーン……)
ジャケットに右手を入れ、左脇のホルスターからCrF‐3100を抜き、ホールを目指す。
コンサートホール一階。ステージ上には照明で照らされた三人のアイドルが観客を待ち構えていた。観客は銃を構えた一、直樹、珠子の三人。直樹達も一とほぼ同じタイミングで到着し、クイーンを目に捉えている。
「全員その場を動くな!公安だ!」
一の一言で三人のアイドルは三人の観客にお辞儀をした。
「シスター・ダイヤモンドの広島ライブへようこそ!」
「聞こえなかったのか?動くなと言ったんだ!」
「皆さまに自己紹介をしていきたいと思います。私の名前はイリス。そしてブラックレインボー・ダイヤのクイーン、ラーン。今宵、貴方々の命は私達が頂戴致します」
舞台袖から黒子が現れ、長方形の箱を覆っていた黒い布を取り払った。
「おいおい!」
「何あれ……」
箱に並べられていたのは武器……大量の武器だ。
「撃て!」
だが、放たれた弾丸はラーンにより全て防がれた。まさかの防御シールドだ。
「私達の舞台衣装、いかがでしょう?」
「ハッ。趣味悪いぞ」
ラーンが装備しているのは強化外骨格とEX‐10λ二丁。
アイグレーが装備しているのはLγロングブレードとLγショートブレードの二刀流。
スキュラが装備しているのはB‐7μレーザーライフル。
華やかな舞台衣装から戦闘衣装への大変身だった。
「さあ、始めましょう!最高のライブを!」
互いの命を賭けたリハーサル無しの戦い。
そして、世界を舞台にしたこの物語もいよいよ終盤を迎えることになる……