ノストラコン
ノストラコン
タイムリミットは二〇三一年。
それまでに歴史に名前を刻印できなかった者は、以後、何者にもなれず、単なる風景と化す。政治経済や文化の流行に対して、電線の雀や境内の猫程度のインパクトしか与えられなくなる。
小さなときから、英語は嫌いじゃなかった。大学も英語学科に進むことになり、じゃあ高校卒業までに洋書の一冊でも読んでおくかと思い、手に取ったのが、Ray KurzweilのThe Singularity Is Near:When Humans Transcend Biology。結局、独力で英文に立ち向かうのが辛くなり、邦訳も買うはめになった。
それをおれが解釈したところによると。
二〇三一年に人類の歴史は終了する。
手動レジスターから真空管、トランジスタから集積回路という、計算機械の加速度的な成長を鑑みると、二〇二七年には、人工知能が苦手とするはずの人間的な能力は、人間と同等にまで成長する。非人間的な能力は現在以上に人間を超越していることは当然。
人間が一つの能力を商業レベルまでに習熟するためには、三万時間が必要とされている。一日八時間経験を積めるとすると、およそ一〇年。人間と同等の人工知能も三万時間かかるのは同じだろう。だが、機械に休息は必要ないし、メンテナンスの時間は無視できるほど短い。二四時間、三六五日を経験値稼ぎに費やせるなら、三万時間は三年半で達成できる。
しかも人工知能は一つの個体が獲得した能力を、コピー・アンド・ペーストで即座に仲間と共有できる。
人間的な能力を兼ね備えた機械が生まれるのが二〇二七年。
それが商業ベースで通用するようになるのが二〇三一年。
以後は、機械がひとつ組み上がるたび、それに技能をコピー・アンド・ペーストするだけで、人間以上に勤勉な労働力ができあがる。そして、それらの人工知能は、加速度的な技術発達で性能を向上させるとともに、さらなる三万時間を経験し、共有し、あらゆる分野で人間を凌駕していく。
群れをなす狼や巨大な鯨や獰猛な虎が生物としては優れていながら人間の歴史にとっては無意味な風景としてしか存在していないように。
二〇三一年から先、無力な人間は地表では息はしていても歴史に対する影響力は動物と同等——ゼロになる。人間は歴史の主体から、歴史の背後の風景へと後退する。
この憂鬱を学部の誰とも共有できなさそうなのも、気分を一層暗くさせた。
少人数の授業ばかり履修すると、週に何度もその授業ごとにクラスメイト全員の自己紹介を聞くことになる。それで気付かされるのは、二〇三一年の終末まで何者にもなれずの終わるのはおれだけだということだ。誰も彼も、翻訳家になりたいとか、通訳になって日本と世界を結びつけたいとか、やりたいことが定まっている。中学高校の六年間をどっぷり海外留学で過ごしたのまでいる。どいつもこいつも二〇三一年までに自分のやりたい分野で三万時間をわけなく達成するだろう。おれみたいな、一八年間をぼんやりと過ごしてきて、ただ英語が嫌いじゃないという理由だけでこの大学に入った男が、彼らみたいな素晴らしい人間たちに話しかけるのは気後れした。おれみたいに目標もなく生きているのもいないではなかったが、どいつもこいつも鏡で見たおれに似た気持ちの悪い目つきをしているから、近づきたくはなかった。
卒業後の見通しは暗いし、在学中も人との関わりの薄い灰色の四年間がある。後悔しかない。なぜ、おれは情報系の大学を選ばなかった。英語ではなくナントカ言語みたいなのを学習して、二〇三一年までたっぷりと人工知能に媚を売り続ければ、人類が風景へと後退したあと、愛玩動物めいた幸福な生活があったかもしれないのに。
そんな劣等感のせいで、家族以外とはほとんど会話しないで四月を終えつつあった。かと言っておれは人間嫌いというわけではなく、寂しさや物足りなさを誤魔化す必要がある。図書館で借りた本を自室で音読することで著者と会話したり、授業のときに教壇の目の前に座ることで先生が構ってくれるのを期待したりした。
ただし、第二外国語の授業において教壇前戦略は自爆だった。英語で言えばhelloとかmy name isとかのレベルの短い会話をペアで行うのだが、おれの他に教壇の目の前に座る物好きはいない。黒板が近すぎて肩が凝るからだ。近くを見回しても組む相手がいない、いたたまれなさよ。
それでも、週がめぐれば第二外国語の時間もやってくる。移動の間、呼び止めてくれる知り合いもいないので、一番乗りで教室にたどりつき、反省を生かさずに教壇の前に陣取り、本当にこの教室であっているのか不安になりながら、シーンとした空間で図書館の本にじっと目を落とすのだ。
教室の後ろの扉が開き、足音が聞こえたときにはホッとした。足音は二つ隣の席に荷物をおろし、腰掛ける。おれ以外に最前列に座る人がいるのは珍しいなと思った。
「メ・リャモ・ハルキータ(ハルカちゃんって呼んで)」
不意に自己紹介され、はっと彼女に視線を向ける。見ると、彼女は教科書を開いていて、おれに話しかけたわけではない。単なる先週の復習だ。が、彼女の方もおれの気配に気づいて、こっちを見返してきた。しばしの間があったあと、おれの勘違いに気づいて、クツクツと笑いだした。
「メ・リャモ・ハルキータ。ムチョグスト(よろしくね)」
孤独さに、笑顔の施しを授けてくれる女神。
授業中、会話の練習で向かい合って話してみると、このひとは本当に女神なんだと実感した。言葉と言葉の合間に照れ隠しの笑顔を挟むのがどうしようもなく可愛らしい。
一方で、授業が終わったら足早に教室を去らねばとも思っていた。お近づきになりたいという気持ちは、ある。しかし、おれなんかが近づいてどうするんだ? 女神ハルキータの恋人には、並んで歩くと絵画になるような、賢く強く誠実で、一生ハルキータ一人だけを守るような男がふさわしい。おれが保証できるのは最後の一項目だけだ。
先生が黒板を消しながら雑談めいたことを話し始めると、おれは荷物をまとめはじめ、彼の「アスタ・ラ・プロキシマーナ(また次回)」の挨拶とともに立ち上がった。
と、上着の生地が引かれる感触があった。振り返ると、服の裾をハルキータが引いていた。
「ちょっと、話せる時間あるかな?」と、上目遣いで。
「いや……」
時間はあるし、あまりに嬉しい誘いを断る理由もないのだが、双方向的な会話が久々すぎて、それ以上言葉を接げなかった。
「時間がないなら、ストレートに訊くよ」といってハルキータは立ち上がり、声を潜めて、「きみ、自殺しようって考えてるでしょ。わたしにはわかるよ」
ハルキータ曰く、おれはいつ見ても悩み事を抱えているような暗い顔をしている。いつも人と距離を取っていて、呼んでる本は学部と無関係なものばかり。きっと受験に失敗して思い詰めているに違いない、ということだった。ハルキータの高校時代の先輩がそれで自殺してるからわかる、と。
「いつもおれを見てたの?」
「だって、自殺しそうで危なっかしいよ」
「今日最前列に座ったのもそれで?」
「うん」
「おれってそんなに暗いのか……?」
自殺を望んでいないことを示すには鬱病ではないことを、鬱病ではないことを示すためにはご飯を美味しく食べれることを示そうということで、ハルキータと学食に行くことになり、数日経つうちにそれがいつしか二人の間の決め事になっていた。
「きみが、日替わりの定食を一週間全パターン、好き嫌いなく美味しく食べれることはわかったよ」
「うん。おれは鬱病じゃない」
「じゃあどうしていっつも暗い顔して考え事しているの?」
「そんな暗い?」
「二人でいるとふつうだけど、一人のときのきみ、暗いよ。きみさ、絶対受験失敗してるでしょ。だから暗い顔しながら自殺しようかなって考えてる」
「この大学の英語学科、第一志望だったんだけど。C判定のところをなんとか」
「嘘だ。きみ、英語に興味、皆無だよ」
「英語、嫌いじゃないよ」
「じゃあ今日図書館で借りてきた本は?」
「Pythonで学ぶリカーシブ・ニューラル・ネットワーク」
「バイソン。バオー」
指で角を作っておどけて見せて、わざと聞き間違えたふりをする。興味がないってアピールだ。
「バイソンしたかったなら、素直にバイソンの大学行けばよかったんだよ。ここが第一志望なんて、負け惜しみの大嘘だよ」
とハルキータがいうので、おれが受けた大学を並べると、彼女は不服そうな目つきをしながらもう一度バイソンのものまねをした。
「全部、外語のとこだね……」と、ハルキータ。「きみはPythonしたいんだよね? 進路間違えてるよ?」
「仕方ないんだ。間違ってるのに気づいたの、合格したあとだったから」
「合格したあとにPythonしたくなったの?」
「したいことはわからない……。けど」
「けど、何? 続けて」
「……何もしないでいると、二〇三一年に、人類が終わる」
ハルキータはムっとしたように口を曲げると、じっと黙っておれの目を見てきた。面映ゆくて視線をそらすと、ハルキータは頭につけたままでいたバイソン角の指で、おれの眼球をつついてきた。はっと彼女の手首を掴み取る。
「そんな話聞いたことないよ。どこ情報?」
「どこ情報っていうか、おれが考えるに、そうなる」
「鬱病の人は、悪いことばかり考えるんだよ」
「ハルキータのPC、スペックどのくらい?」
「もしかしてきみ、コンピュータが世界を終わらせる系の話しようとしてる?」
「うん」
「まじか」
「まじ」
「わたしのは、先月買ってもらったばかりだから、ふつうのだと思うよ。intelも入ってるよ」
「じゃあそいつ、ある程度は人間の言葉がわかる素質がある」
「お手したり、おかわりしたり? まさか」
「犬よりはよっぽど賢い」
「嘘だぁ」
おれも二〇三一年の終末をただ絶望して無力に待ち受けているわけではない。この一ヶ月で、ある程度は彼らコンピューターの言葉を学んではいた。
「ちょっと語っていい?」
「いいよ」
「プログラムを組んでみたんだ。カードゲームのカードのテキストを入力すると、ショップでの販売価格を推定するってやつなんだけど」
「知ってる。遊戯王だ」
「違う。マジック」
「知らないやつだ」
おれは頷いて話を続ける。
「おおよそ一五〇〇〇種類くらいカードがあるゲームで、それぞれのカードにつき、プログラム上のパラメータとしては、印刷されたテキストと、そのカードの流通量と、一枚ごとの販売価格がある。で、三ヶ月に一回くらいのペースで二〇〇種類ずつ増えていく。おれが組んだプログラムは、過去に出版された一五〇〇〇種類のカードのテキスト・流通量・販売価格をもとにして、新規カードのテキストを入力すると、その価格を推定して出力してくれる」
「新しいカードの値段がわかるの?」
「うん。ここで二つ踏まえておいてほしいことがある。一つは、入力で使ったカードのテキストは、おれたちが普段話しているのとかわらない日本語、もしくはイングリッシュスピーカーが話しているのと変わらない英語で書かれていること。もう一つは、このプログラムを組んだのがおれで、制作に一ヶ月ちょっとしかかかっていないってこと」
「踏まえると、どうなるの?」
「コンピュータは、人間の言葉を入力にして、有意味な情報を出力できる。そして、そのためのディープラーニングの手法は、俺なんかが一月で習得できるものだ。マシンスペックも、型落ちのもので充分」
「ふむ」
「こんな一般人が手にできる技術ですら、そこまで進歩してる。このペースで技術が進歩していくなら、人類は歴史の主役から書割の背景へと後退することになる」
「それが、きみが説くところの、二〇三一年人類オシマイ説なんだね。で、人類オシマイにおびえて、自殺直前みたいな顔してたのか」
「やっとおれが自殺志願者じゃないってわかってくれた?」
「わかってくれたよ」
「てか、おれってそんなひどい顔してるの」
「見たい? こんな顔だよ」
といってハルキータは両手で左右から自分の顔を圧縮して、むちゃくちゃな表情を作る。
「やめなって!」
女の子がしていい顔じゃないから、おれは慌てて彼女の手を顔から引き剥がした。するとハルキータはおれの動揺を面白がってクツクツと笑うのだ。
「じゃあ、きみが考えるには、二〇三一年にはわたしたちは皆殺しにされちゃうわけだね。それは大変なことだよ」
「皆殺しにされるかはわからない。でもきっと、人間が人間以外の動物にしているのと同じような扱いをすると思う。街猫を風景として扱いながら餌を与えるのと同時に、風景を美化するために保健所送りにもする」
「天国だよ、それ。二〇三一年になったらコンピュータに、「うわー街人間ちゃんだー可愛いー。またたびとお魚……じゃなくて大麻とフォアグラあげるねー。ごろごろー」ってしてもらって生きていけるんだよ。社畜にならなくていいんだよ」
「いや、社畜にはならざるをえない。少なくとも、二〇三一年までは。それまでに過労で自殺する人は少なくないはずだ」
「自殺はいけないよ……。二〇三一年なんて、遅すぎるよ。もっと早くできないの……」
胸に、もやりとした違和感があった。ヒトが歴史の主役から風景へと後退することをおれは恐れているのに、ハルキータは、人類の歴史が終わっても生活が存続するならさして問題はないと考えているらしかった。このまえに図書館で読んだフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』をハルキータは内発的または所与のものとして衝撃もなく受け入れているんだ。
五月の終わりには、大学の文芸部に入っていた。二〇三一年の終末までに、なんの分野で三万時間を積み重ねるかを探すことよりも、すでに経験済みの三万時間を活かすことを選んだのだった。物語を書くのに必要な日本語は三万時間どころか生まれたからすべての時間、思考や会話で使っているものだ。
……というのは自己欺瞞で、ハルキータに勧められるままに入部届にサインしたというのが実情。ハルキータとおれの二人が新たに入ったことで、文芸部は細々と今年も続くことになった。
部誌を作ろうということになり、部員がたった五人しかいないので、一人一作のノルマを課せられ、おれもなにか書かねばならない事態になったのだが、夜一〇時にGoogle Documentを開いたきり、一行も進まないまま日付をまたいでしまった。小説の冒頭というのは何によって定義されていてどのような法則によって続きの文章が敷衍されていくのか見当もつかなかった。……というのは嘘で、いまさら大学一年生にもなって中学高校の授業中にノートに繰り広げていた空想を再展開するのが気恥ずかしかった。
執筆は一文字も進まず、単に眠らないためだけに徹夜をしているような状態になっていると、突然に机がブオオと振動したので、おれは三センチくらい跳び上がった。
ハルキータからのミッドナイト・コール。
「きみの家、ペット可?」
不動産の契約がどうなっているか以前に、おれのアレルギー体質のために動物はだめなのだが、ハルキータの声を聞いた時点でノーの選択肢は爆発四散していた。
「友達が、子猫を壁に叩きつけて殺したっていうんだけど……」
「はっ?」
ハルキータがいうには、こういうことだった。
彼女には感情の揺れ動きが不安定な友達がいて、何かしでかしはしないか常に見張っていた。が、突然に「子猫を壁に投げつけて殺した」のメッセージが飛ばされてきた。友達にもとに駆けつけてみると、実際には子猫は無事で、メッセージは感情のはずみでふと送ってしまったものらしい。それでもハルキータは子猫を友達から遠ざけたほうがいいと考え、ほとんど略奪するような形で保護したのだという。
「ハルキータ、やばい人と友達なんだ……」と、おれ。
「きみだって、やばい友達コレクションの一人だよ」
「おれが? どこが!」
「えー、入学早々自殺しようとしてたのは誰だったっけ?」
「少なくともおれじゃあないな」
「そうだった」
子猫は、今度こそ壁に叩きつけられて死んでしまうかもしれない。だから、もとの飼い主に見つかるような場所は駄目で、その意味で、ハルキータの家にいさせてやることはできなかった。
とある神社がその子猫を逃してやるのに最適に思えた。少し昔にやっていたアニメで、イニシャルRUというキャラクターが巫女として仕えていた神社のモデルになった場所なのだが、そこには野良猫がわんさかいるのだ。野良といっても近所のおばあさんが一日三食与えているので野生は失われている。
そのRU神社まで、自転車で一時間半はかかる。しかしハルキータがいうには、車を手配したり電車の始発を待ったりするよりは、友達に捕まる前に出発したいということだった。
大学の正門に自転車で集合すると、ハルキータの前カゴには、プラスチックの持ち運びケージがくくりつけてあって、中を覗くと、赤ちゃんっぽさは抜けているけどまだ成猫というには手足や目鼻のバランスに子供っぽさの残る元気そうなアメリカン・ショートヘアが、瞳を好奇心で活発に動かしていた。名前はアメリ。そういう映画が昔あった。
アメリに衝撃を与えないようにゆっくりと、闇夜の国道をRU神社目指して南下する。途中、コンビニで休憩をとったり、ひっきりなしにハルキータにコールする猫殺し未遂犯をなだめたりして、目的地についたときには午前四時を過ぎていた。
RU神社はおれの知っている風景とは違い、鳥居の前は重々しい鉄の柵で閉ざされていた。夜間だからだろう。とはいっても入れないのは人間だけで、格子の隙間は猫ならのびのびとした姿勢で行き来できそうだった。
ハルキータは自転車の前カゴからケージを外し、そっと地面に置いて扉を開けた。アメリはスンスンと空気の匂いを嗅ぐものの、外に出ようとはしない。
「航海の終わり。それでもこの子は生きていく」
自由律俳句を詠むようなリズムでハルキータがいった。
「どゆこと?」と、おれ。
「猫ってさ、家から自由に出られる子でも、三〇〇メートルより遠くには行かないんだよ。そこから先は、彼らにとっては考えもつかない別世界。人間にとったら、海が途絶えて滝のように落ちてたり、はたまたアメリカ新大陸があったりするような航海の終わりの場所に来ちゃったんだよ、この子は」
「ネコロンブスか」
ハルキータがクツクツと笑ってくれたので、おれは満足した。そうこうしている間にも、ハルキータからは、電話が来たことを伝えるブンブンという振動音がひっきりなしに聞こえていた。彼女は出ようとしない。
「いいの?」
「いい?」逆に問い返された。「予告しておくよ。わたしの近くにいると、この先、こういうことばかり起きるよ。じゃないと、わたしがふつうの人間のふりして生きていけないから」
「ハルキータは妖魔の類なの?」
ハルキータは指を振って、
「最恐のホラー映画は、幽霊とかモンスターとかじゃなく、生きた人間が狂ってるやつよ」
「ハルキータが狂ってるみたいに聞こえる」
「そう。だからわたしは頑張って、ふつうの人にまぎれないといけないのよ」
「でもハルキータは、壁に子猫を叩きつけたりしない」
「猫殺しみたいのは、ふつうの人が苦しくてどうしようもなくなった時にすること。狂ってるのとは別のことだよ。狂ってないから感情があって、感情があるから苦しくなる。ふつうって、そういうことだよ」
「ハルキータがふつうじゃないみたいに聞こえる」
「先輩が受験に失敗して自殺したときは、大笑いしたよ」
深夜四時、街頭で橙色にうかぶハルキータの瞳が、俺の表情を値踏みしていた。
「なんだって……?」
おれがどんなにひどい顔をしていたのかはわからないが、ハルキータは肩を小刻みに震わせて、クツクツと笑いだした。
「わたしが高校のときも文芸部だったのは前も話したよね……。受験シーズンになると三年生は部室によりつかなくなって、こっちから連絡をとらないと元気にしてるかわからなくなるものだけど、それでも、人づてに噂は伝わってくるよね。どこに合格したとか、売店でどのパン買ってたかとか。それで、死んだって噂も伝わってくるわけよ」
そういうハルキータのリズムはどこか楽しげで、猫のアメリはスンスンと鼻をひくつかせるばかりで、おれ以外のだれも死という言葉の意味をわかっていないかのように思えた。
「それで、わたしを含めた、先輩と中の良かった四人でいろんなところに問い合わせたんだけど、本当に死んでたよ。ていうか、わたしが先輩の家に電話してきいたんだけど。他のみんな、先生とか先輩の彼氏とか見当違いなところにばかりきいててまどろっこしかったよ」
最近わかってきたことだけれど、ハルキータには、事件の直中に好き好んで分け入っていくところがある。今回のアメリ解放もそうだし、おれに話しかけてきたのも、自殺したがっているという勘違いからだった。
「それで、先輩が死んだって決まってから、四人で部室から離れた廊下の端に集まったよ。周りで人が死んだの初めてだから、お葬式の服装どうしたらいいかとか、香典ってお小遣いからどのくらい出したらいいのかとかみんなと話したかったし、みんなもそれを知りたがってるんだなって考えるよ、ふつう。
そうしたら、みんなメソメソ泣くばかりで、何か話すにしても「先輩死んじゃったね」とか「どうして自殺したんだろう」とかばっかり。死んだのはわかりきってるし、自殺した理由も遺書が残ってるからはっきりしてるのに。
……みんなメソメソ泣いてるのを見てるうちに、どうしてこの人達、映画館でもないのに集まって泣いてるんだろうって不思議になったよ。映画を観て、一つの空間で感情を共有するのはふつうだけど、それを学校の廊下のはじっこでするのはすごく場違いに思えた。人間のトイレを使うドーベルマンがいたとか、空中を泳ぐデメキンを見つけたとか、そういうレベルで、映画館じゃなくて学校で集まって泣くのがおかしかった。大笑いしたよ」
「悲しいことがあったら泣くでしょ、どこでも」
「きみが正しいよ。狂ってるのはわたしだった」
クツクツとハルキータが笑っている。
「たださ、わたしにとって先輩が自殺したのがそんなにショックじゃなかったのと同じように。きみも、きみがいま生きてることの価値を、すごく小さく見積もってるよ? 二〇三一年世界終末説におびえて」
「おれとハルキータが同じ?」
「そう。わたしときみはおんなじ。……ところでさ、きみのパパとママ、西暦何年に結婚した?」
「一九九七年か、一九九八年だと思うけど……?」
今年が二〇一八年で、おれが今年で一九歳だから、そのくらいのはずだ。突拍子のない質問で、計算があってるか自信がないけど。答えを聞くと、ハルキータは満足げに手をパチパチとはたいた。
「それってノストラ婚だよ! うちのパパママとおんなじ!」
「オストラコン?」
大昔の、エメラルドドラゴンというRPGに、オストラコンという名前の大ボスがいた。
「陶片追放じゃないよ。ノストラダムス結婚」
「陶片追放は知らない」
ケージの奥に閉じこもっているアメリも、きっと知らない。
「一九九九年七の月って、知らない?」と、ハルキータ。
「ノストラダムスの大予言?」
「それ。わたしたちが物心つく前、日本人はみんな、二〇〇〇年を迎えずに世界が滅びるって信じてたんだよ。きみのパパママも、わたしのパパママも、死ぬ前に結婚しとくかっておもってプロポーズした。少なくとも、ノストラダムスが来る前に好きな人と一緒になっておくかって気持ちは、心のどこかにあったはずだよ。そして、世界の終末の向こう側で、きみやわたしが生まれたんだよ」
話が大きく本筋からずれているのは感じていた。それでも、おれはじっと呼吸を繰り返して、無理に先を促すようなことはしなかった。なにか大きなことを語るために足場を固めているのだとわかっていたから。
「先輩が死んでも、わたしは悲しくならない。映画館でもないのに集まって泣いてるみんながおかしいんじゃなくて、映画館しか泣く場所じゃないと思ってたわたしのほうが狂ってたんだよ。……どうしてわたしが狂ってるのか、必死で考えたよ。きっと、ノストラ婚のせいのはずなんだ。世界が終わるのが前提で生まれてきてるから、一人くらい消えたって、どうってこと感じないんだよ」
「……おれや、ハルキータの友達に、悲しいきもちがあることが、それだと全然説明できない。おれもみんなも、ノストラ婚の親から生まれてきたっていうのに」
「それじゃあ、きみはどう思う? 世界の終末の向こう側にいるのに、たったひとり死んだだけで悲しくなるような人たちが狂ってるのか。それともわたしのほうが生まれつきタガが外れてるのか。どっちだと思う?」
おれは首を横に振った。しかし、ハルキータが並べた二つの選択肢のうち、どちらかを否定したわけではなかった。
狂っていようが、狂っていまいが、ハルキータもおれも、生まれてしまって、こんな歳まで育ってしまった。
「……わたしが狂ってるのはわかってるよ。だから、予告しとくよ。わたしといると、今日みたいなことがジャンジャン起きるよ。きみの自殺を止めようとしたのも、アメリをここまでさらってきたのも、悲しいことが事前に起こらないようにするため。悲しいことが起きちゃうと、わたしが他の人たちと違う人種だってのが浮き彫りになっちゃうから。わたしがふつうでいるために、わたしがふつうの人たちと一緒に暮らしていくために、悲しいことをみんな消してくって、予告しとくよ」
「覚悟しとく」
「よろしく頼むよ、ノストラ婚チルドレン同士」と、ハルキータ。
おれはうなずき、手を差し出した。ハルキータが固く握手し返してくる。五月とはいえ、さすがにお互い、指先が夜風に冷やされていた。
そういえば、ハルキータから聞こえていたひっきりなしの着信が、いつの間にか途絶えていた。
それに彼女も気づいたようで、ポケットをまさぐる。操作を止めると、画面をおれにも見せてくれた。そこにあったのは、「私より猫畜生が大事か」というメッセージと、おびただしく血を流すリストカットのあてつけの画像。
「これって、自殺……?」
「止められなかったかあ。まあ、失敗もあるよ。人間だもの」
といって、ハルキータがクツクツと笑う。おれも真似して笑ってみた。案外、自然と腹から笑えた。
おれはノストラダムスよりあとの世界に生きていて、しかも二〇三一年には人類の歴史は終わるのだ。
日はまだ昇らず、しかし空が白み始めたころ、アメリはようやくケージから足を踏み出した。スンスンと風を嗅ぐ先、RU神社の鉄柵の向こうには、アメリとちょうど同じ年頃の猫が、背筋を伸ばして身構えていた。その猫が藪の中へ姿を消すと、アメリもそれを追って鉄柵の中へ走り去り、ひとの手の届かないところに行ってしまった。航海の終わりへ。
(了)