第九話 魔女の礼節
メリュジーヌが数年振りの寝坊をした日だった。朝も過ぎて地下から見えない太陽が真上に近づこうという頃、レフォリエはメリュジーヌのベッドのそばで鉄鍋を打って叩き起こした。
「メリュジーヌ! メリュジーヌってば!」
必死の呼びかけにきだるいメリュジーヌの瞳が開く。寝ぼけた様子のまなこも、必死の表情をしたレフォリエの表情を認めると少しずつ意識を覚醒させた。
そのいとまさえ勿体無く感じられて、レフォリエはまだ自分より大きな体躯の腹を揺する。
「レフォリエちゃん、どうしたの?」
「今日も上に行こうとしたら小鳥たちにとめられたんだ。どうしたんだって聞いたら、集落の人たちが殺気立っているからやめておけって」
「レフォリエちゃん、落ち着いて……」
なだめるメリュジーヌをさらに強く揺さぶった。
頭がくらくらして、とても黙っていられない。
「気になったから普通の鳥のふりをして調べに行ってもらったら、あいつら、森に踏み込む気だって」
「え?」
「しかもそれに気づいてヴァラールも不機嫌になってるのをみたって騒いで逃げちゃった! もしかしたら殺し合いになるかもとか、なんとか...信じられる? なんで今更! そんなことにはならないよな!?」
堰を切ったように早口で問い詰めるレフォリエに、メリュジーヌはすぐに答えられなかった。
暗く明かりもほとんどない寝室で、赤い宝玉が寂しげにしっとりと艶めく。
「そうね……もし本当に集落の人々が踏み込もうとしたなら、先にヴァラールが集落を襲うでしょう」
「どうして? いくら二代目が嫌いだからって自分から危険に飛び込むことはないじゃないか」
「彼だからよ、レフォリエ。それが彼の決めたことで、わたくしたちには手出しできないことなの。そして集落の人々も彼だから踏み込もうとするのだわ。いざ知っていることと体験することには天と地ほどの差があるもの。ヴァラールに敵わないと味わえばひとまずおさまるでしょう」
レフォリエにはメリュジーヌの言っていることがわからない。
自分を信じていないのだろうか。あの孤独で、しかし地上の森に住み続けている一匹の妖魔は仲間ではないと思っているのだろうか。
そんなのあんまりだ。
「わからないよ。集落の人だって入らないのが決まりなんだから入らなきゃいい。今までだってなかったわけじゃないんだろう? なんで今度だけだめなんだ、おかしい、おかしいよ」
生贄が事故で届かなかったときの保険も兼ねて、毎年全ての集落が一人ずつ生贄を捧げる。そういっていたではないか。
浮かんだのは先日、死んだはずの自分を見つけた少年の姿だ。
特に確信があったわけではないが、少年とともに人間の国へ戻れと言われそうで、或いは裏切り者と思われそうで、彼と遭遇したことは言えなかった。
レフォリエはその秘密を打ち明けた。そうすれば、彼女もまた自分の真剣さを受け止めてくれると願った。
メリュジーヌはひるふると左右に首を振る。
「毎年、長の昔語できいたのでしょう。彼は特別。幻想の種族のなかでも、竜が生まれるには女王のような強い魔法がないといけない。人が化けたなら類い稀な強い意志がないと。そして彼は二代目女王の騎士。彼が連れ去った子どもが妖魔になったかもしれないのが怖いの。いよいよ牙をむいてきたか、と。これが最初で、また同じことをしてくるかもしれない。明確で恐ろしい恐怖が自分たちに降りかかるのが、それぐらい怖いの」
「じゃあ、どうすればいい?」
自然にレフォリエは聞いていた。
「レフォリエ、やめておきなさい」
名を呼んで制するメリュジーヌに食い気味に反論する。気を引き締めた呼び方は、レフォリエが欲しかったものとは響きが違っていた。
「いくら強くてもたくさんの人に襲われたなら死んでしまうかもしれない。死ななくてもぜったいに苦しくてつらい。同じ妖魔なのに彼だけは放っておくのか」
「レフォリエ。これは彼がそういう生き方をすると決めた結果よ。誰かの決意に踏み込もうというなら、それなりの覚悟しなくてはいけないわ」
「ならば覚悟をすればいい。もしこのまま見過ごして、礼もいわず、語らうこともなく死んでしまったなら? そう思うとぞっとしないよ」
あの孤独な竜なら、レフォリエも自分だけが人間であることを気にせずに接することができるかもしれない。
もう一度、美しく激しい空を飛んでみたい。
レフォリエにとってヴァラールは夢のひとつだった。
なお渋い顔をするメリュジーヌに、かっと頭に血がのぼる。
レフォリエが竜を助けたいと望む声を聴こうともしないのも、メリュジーヌを知ろうとするのを妨げられるのも、優しいばかりでがっちりと足を掴まれているようでたまらない。
きっとこのまま頷いたら、一生どこにも行けなくなると思った。
――そこまで自分の邪魔をするなら、覚悟を見せてやろう。
寝室の扉前に放り投げていたカバンを乱暴に肩にかける。
「どこに行くの?」
「魔女の家!」
毛布に足をとられてベッドから転がり落ちるメリュジーヌに目をとられた。それでもレフォリエは落地郷外れの魔女の家に向かう。
木々に肩をぶつけ、つまづいた親指の爪が痛くなっても走る。
自分が正しいと思うことをしなくては。それがレフォリエを進ませた。
○
目的地にたどり着くことだけを考えて走った。着いてしまえばここまでどんな苦労と時間がかかったかなんて泡が弾けるように消えてしまう。
レフォリエは薄い胸を上下させ、苔に似た芝が生えた家の正面に立つ。
ここもまたメリュジーヌが助けてくれて以来、不吉な思い出に近づかなった場所だ。
しかし、この状況を解決できるとしたら魔女しか思いつかなかった。
レフォリエの健康な体がますます育ち、妖魔と暮らすうちただの人の一人や二人を軽くいなすだけの自信があったが、それでも集落に飛び出すのは無謀なことだとわかっていた。
「いるか?」
一声目は自分でも信じられないほどか細いものになった。これでは届かない。
魔女の家の周りは他より一際薄暗く、湿気も強い。呼吸に溺れるような冷たい空間に、レフォリエは何度目かの決意を迫られた。
レフォリエは自分の下腹に手をあて、今度はまとわりつくものが飛んでいくよう背筋を曲げて叫ぶ。
「いるか! グラヘルナ!」
「ああ、いる、いるとも。返事はするから、気安く名前を呼ぶんじゃない」
あっさり応えた魔女が、どろりと闇から滲み出てくる。
フードを被ったままおもてをあげ、黒い髪をまっすぐに垂らして見下されると背筋を冷たい汗が伝う。
あの日から少しも変わらない魔女は目線が近くなったレフォリエを見て、わずかに眉を寄せた。
「いつもしかめ面をしてるな、あんた」
「ふん。大きなくなったかと思えば生意気は変わっていないようだな。臆病で愚かな小娘、今日は同時にしてここに来た? 理由もなく来るほど馬鹿ではなかろう」
単刀直入な物言いが今のレフォリエには心地いい。
既に呪いは終わっているのだ。頭の中で言いたいことをまとめて、しっかりと魔女に告げる。
「集落の人たちとヴァラールが戦うことになるかもしれない」
「それで?」
「助けたいんだ」
「貴様の助けが何になるのだ。幼い人間が竜の役に立つなんて本当に思っているのか」
「そうかもしれない。でも何もしないのは嫌だ。なにもせずに助けたいなんて口先だけなのもわかってる。だからできることをしに来た。魔女ならわたしがどうすればヴァラールを助けられるか、わかるはず」
よどみなく答えれば、魔女は目を伏せた。
ローブを羽織り直す。空気がぴんと張ったような気がした。まばたきもせず真っ直ぐに視線があった。
「頼みごとをするのなら、礼を用意するのが筋というもの。それはここで暮らしたものなら骨身にしみついていること」
「何を用意すればいい?」
魔女は頭からつま先までレフォリエの体を観察した。
自分の部品ごとに品定めされる感覚にもぞもぞと体を動かす。魔女は難しい顔を浮かべた。
重々しく、青白い指が胸元を指し示す。
「命を」
「……そこまでしなくちゃ助けられないのか?」
「いや?」
意外にも魔女はそういった。
「高い代償、と思っているのかな? ん? しかし貴様のもつものをみろ。丈夫な体、美しい瞳、素晴らしい健脚。実に祝福されている。並び立つためのきっかけぐらいは、いずれかと交換してやってもいい。どれかと引き換えなら私の与える『手段』の価値に見合う。しかしどれか欠けたなら、助けにはいけまい」
「何故? わたしだって死ぬよりは体を切ってくれてやったほうがましだ」
「安易にそんなことをいうんじゃないぞ! 目が見えなくては向かえない。足がなくてもたどり着けない。心臓が動かなければ言わずもがな。それでも救いたいか? そうでなければ救えぬと信じるか? ならば差し出すべきを差し出せ。そうしたなら、私とて、貴様の全霊を賭けた願いを背負おう。それが私の仕事だ」
魔女の嘲笑はやはり真摯だ。
魔女も妖魔なのだとレフォリエは少しだけ安心する。
「何も死ねとはいわないさ。あくまで覚悟の話。どれくらいあるのか、という意味でね。私は一つでは足りないといったんだよ。足も手も瞳も失うというのは、それが当たり前だった貴様が死ぬようなものだろう?」
「わかった」
きっとメリュジーヌが聞いたら怒るだろう。彼女にとっては子どもの一時の癇癪だ。
本当に大切なことだから今、戦う。命さえあればなんだってできる。まだレフォリエには沢山時間があって、まったく新しい状況で立ち直るすべだって知っているのだ。
その決意が鈍る前に決めてほしい、と焦る。
「決めてくれ! 引き下がらないのはわかっただろう」
「そうか、そうか。大変結構。しかし私にとって大変残念なことに、もうひとつ聞かねばならないことがあるらしい」
「何を? これ以上答えることがあるか」
「貴様じゃあない。貴様は今、巣箱から飛び立とうとしている小鳥。そして子を守り慈しむことが仕事であるものがいる。お前が私に願うなら、そいつの言い分も聞かねばならん。それが貴様が奴の元にいた結果というわけだ」
嫌な予感がした。何もかもが過去に帰っていくようでうんざりする。
レフォリエはすべて彼女にかかっていることも頭からとりこぼし、魔女に詰め寄った。
ほんのりと赤い果実をすり潰した甘い匂いが鼻腔を過ぎる。
「いいじゃないか! わたしが決めたこと、わたしがしたいことなんだから! 早くしてくれ、してください!」
「いいや。滑稽なほどに愛とはそういうものだよ」
自分より大きく、長く生きるものの視界は、レフォリエより広い。
それゆえに自分の知らないこと、自分にとって当たり前でないことを当然のものとして話すのが他の妖魔たちと重なって、鼻の頭がつんとする。
「あんたたちのいうことはわからないことばっかりだ」
「わからなくても今日は帰れ。そのうち客人が来るんだ。貴様のためにも準備をするのだ」
「わたしのいないところで、わたしの話をするのか。勝手に?」
精一杯の悪意を込めた言い方が、まさか魔女に刺さるわけもない。むしろ一層嘲笑を深くされ、レフォリエは遂に黙り込むことを余儀なくされた。
「心配せずともそのうち自分で進むさ。貴様は人間なのだから」