第八話 花散る前に本を読め
窓際の作業台はレフォリエと妖精の専用の場所になって、毎朝起きると最初にそこに向かう。
十四歳のレフォリエは、その日も作業台の上で今日の荷物をひとつひとつ確かめていた。
「瓶に、ナイフに、あとは……鉢植えはいらないか」
「レフォリエちゃん、お弁当できましたよー」
「今いくー」
いつのまにか早起きするようになったメリュジーヌに、ちょっと悔しい気持ちがあるのは気恥ずかしいので秘密だ。
作業台から台所までは短い廊下でつながっていて、声が簡単に響く。
レフォリエは朝からよく響く明朗な声音で返事を飛ばす。
そして狼男が狩った獣の皮をなめしてつくったカバンに、装飾用の花をしまう小瓶とナイフを入れて、台所まで駆けていく。
入った途端、胃がきゅうと鳴き声をあげた。
台所のそばには大きな机があって、食事をすぐに並べて食べられるようになっていた。
今朝は小鳥の妖魔たちが集めてきたキイチゴのジャムと焼きたてのパンの甘く香ばしい匂いがする。
昔は肘をついて本を読めれば十分という大きさだった机を、レフォリエの食事を並べるために、大きなテーブルに替えたものだ。
メリュジーヌはパンの一つを割って、赤いジャムを塗り込んでいく。そのひとつを受け取ってレフォリエも口いっぱいにパンをほおばる。まだ少し熱い。必死に舌を丸めて、もふもふとした白い感触を味わう。
「今日はどこまでいくの?」
「妖精たちに新しいものがつくりたいっていわれたから、とりあえず花畑にいって色々とってこようと思ってる。今度はツタにあしらうんじゃなくて、花だけでやってみたいんだってさ」
「ウンディーネちゃんとこの水汲みのお手伝いは?」
「それは昨日の頼まれごとだよ」
「あらそうだった? ごめんなさいね」
頬を赤らめてメリュジーヌは新しいパンをレフォリエに差し出す。
メリュジーヌ自身は人の食事はしないので、いつもこうしてレフォリエが食べ終わるのを見守っている。
今日ももしパンが余ったらかたくなってしまう前に「食べる」妖魔に渡しにいくのだろう。
「ああ、そうそう。ルーガルーがまた獲物が余ったら持ってきてくれるそうだから、よろしくいっておいてね」
「わかった。花畑に行く前にお礼に言いに行く」
だとしたら、あまり出発が遅いと帰りが夜になってしまう。
レフォリエは胃袋が満足するだけのパンを口に押し込み、ぱさついた口内をコップの水で潤した。
妖魔たちは井戸に住むウンディーネに、毎日必要な分の水を桶にいれてもらって家の中に置く。
魔法がかかった水は丸一日に限りいつでも冷たく透明で、体の中を通る管を落ちて汚れを綺麗にしてくれる感覚がする。
「じゃあそろそろいってくる。メリュジーヌは何か必要なものとかない?」
「うーん……特にないわねえ。あえていうなら花を一輪」
「わかった」
レフォリエは短く請け負うと手早く弁当を布で包んで、カバンへ押し込む。
レフォリエにとっては全く不思議なことなのだが、妖魔というのは徹底して自分の仕事しかできない。
狼男のルーガルーは狩りをして、小鳥の妖魔たちは木の実をついばみおしゃべりをして、水妖のウンディーネは水を汲んだりあちこちを水浸しにしたりするのが仕事だ。
妖精たちが他人の未完成の仕事を完成させるのと同じである。
たとえ本妖魔たちが望んでも、自分の仕事と違う仕事は簡単には代われない。
だからいつでも好きな時に好きなように、なんでも他の妖魔の手伝いができるレフォリエは重宝がられていた。
レフォリエは言われた通りに狼男に礼をいってから、駆け足で花畑へかけていくことにした。
「俺のカバンは気に入っているかい?」
狼男には自分の狩った生き物が革のカバンに変わったのが面白いらしく、ニコニコと見送られた。
レフォリエは軽くこぶしを突き上げて、使い心地の満足度を示して見せる。
そして妖魔の地下世界:落地郷から秘密の通路で地上にあがる。
地上に行きたくないが地上の森のものが欲しい妖魔の願いをきいて、頼まれたものを拾ってくることもレフォリエの仕事だ。頼まれごとがない時は妖精たちと装飾品や物を作っている。
「はやくいこーよー」
「今日は黄色いお花がいいな」
「水色だってば」
「いっぱい花びらがあるのがいい、ぱーってひらくの、ぱーっと」
「小っちゃくいお花の方がかわいくない?」
いつのまにかカバンに潜り込んでいた妖精たちが口々に言い合う。
彼らのおしゃべりに付き合っていては日が暮れる。レフォリエは軽く聞き流し、人が立ち入らない場所にある、開けた花畑に躍り出た。
妖魔は人間にあわないために自分たちの土地に引きこもる。さらに気性が大人しい森の妖魔は、警戒してほとんどなるべく地下で暮らすようにしているようだった。
小さな妖魔は地上の森に棲んで普通の動物を装っていることもある。木の実を集める小鳥の妖魔たちがそうだ。森を出歩く妖魔たちには陽気なものが多く、聴かずともあれこれ語ってくれた。おかげで森のなかは勝手知ったる我が家状態だ。
しかし、妖魔にも例外がいる。あの美しい竜:ヴァラール。彼だけは一度も落地郷を訪ねることもなく、地上の森奥深くをさまよい続けている。
あの日以来、まだレフォリエはヴァラールに再会していない。
七年で様々な期待を積み上げて、いつか出会うことがないかと期待している。
「今日はすごくよく晴れてるな、空がまぶしい」
「お花がきらきらして、きれいだね!」
花畑は鬱蒼とした木々に邪魔されることもなく、燦々と太陽を浴びている。
憂うなどかけらも知らないような愛らしく純朴な花が足の踏み場もないほど咲き誇る光景は、まるで天の国の乙女が手入れをした庭園の如く。
レフォリエはワンピースのひざを押さえて、しわがつきにくいようにゆっくり座り込む。
そしてそのまま、じっくり採るべき花を選び始めた。集中するかたわら、遊び始める妖精たちに話しかける。
「エルフ?」
「ちがうよー」
「じゃあマーメイド」
「しっぽないでしょ」
「うーん。サキュ、バス?」
「まっさかー」
花を摘む間、レフォリエはずっと妖精たちと一緒にいる。
あれがいいといってくる妖精たちが頼んできた花も、自分が好んだものと一緒に集めるのだ。
妖精たちは、あとは基本的に花畑をごろごろ転がっているだけである。
もう怒るのも馬鹿らしいので、せっせと花を摘む代わりにあれこれ質問をぶつけることにしている。
質問の内容は色々だが、最近ではもっぱらメリュジーヌについてのことだった。
七年暮らしていて、レフォリエは一度もメリュジーヌの魔法を見たことがない。
料理は手作りで、洗濯物を干したり必要なものをとりにいったり、人間と同じ生活をしているといってもいいだろう。落地郷におけるメリュジーヌの仕事は、そうした食に関する娯楽品を作ることと細かに他人の家を掃除してやることだった。
妖魔たちの仕事と魔法は繋がっていることが多い気がする。
魔法なり何の妖魔であるか、妖魔としての彼女が知りたい。
七年も一緒に暮らせば、家族のようなものではないか。
ただでさえ七年も過ごして人間のまま、一人ぼっちの人間であるのに、メリュジーヌのことをほとんど何も知らないのは、ひどく苦痛に感じた。
「とびっきり大きな花の冠つくるから、メリュジーヌのこと教えてよ。なんでもいいから」
「彼女のことはもう知ってるでしょ? 料理が得意で、美人で、きみが大好きだな妖魔だよ」
「そうじゃなくって、わたしと会う前の、とか、なんの妖魔なのか、とか!」
「いっちゃだめっていわれてるから、だめー!」
いつもこうだ。
隠す理由がわからないから、余計に自分が仲間外れにされている気分になる。
七年も妖魔と暮らしているのに、レフォリエはつま先に至るまで人間のままだ。
妖魔たちはみな親切だ。それが信頼されていないようで、近頃のレフォリエは突然の怒りに突き動かされて、喧嘩してしまうことも多々あった。
「別に、そういうのならいい」
いじけた口調で口をつぐめば、たいてい妖精たちは言い訳を並べ始める。
しかし今日は、いきなりあわててカバンの底まで潜り込み、うんともすんともいわなくなった。
カバンのひもをもって、中を探ろうと覗き込む。
「どうしたっていうんだ」
「なにが?」
答えたのは妖精ではなかった。背後からかけられた大声に、とんで大きく後ろに下がる。
「誰だ!?」
「お前こそ誰だよ。ここは妖魔の森だぞ、怒られるんじゃないのか?」
敵意交じりに問う。声のした方向を探ると、自分と同じくらいの背丈の少年が花畑近くの木の裏から顔を覗かせているのを見つけた。
その厚手の服は久方ぶりに見かける海の集落のもので、レフォリエは目を白黒させる。
海からやってきた妖魔であれと願う。
「君こそ。ここは誰も入っちゃいけないのに。しかも君は海のやつじゃないか」
「やっぱり森の集落の子? まあ、秘密にされると来ちゃうよな」
照れくさそうに笑う少年に、レフォリエは笑い返すことができない。
ただそっとカバンを背中の後ろに回し、決して開かないように手でおさえた。
「じゃあ、誰にも秘密だ」
「わかった」
「よかった。わたし、今朝からここにいたから君のことを知らないんだ。海の商人の子か」
「ううん、でも連れてきてもらったんだ。他の集落を知っておくのも悪くないって」
「ふうん。いいお父さんだね」
養父を思い出して胸がちくりと痛む。
少年は嫌そうな、それでいて誇らしそうな複雑な表情を浮かべ、こちらに歩み寄ってこようとする。
とっさにいやいやと首を振った。少年は戸惑ったが、それ以上近づくのをやめた。
「見つかったら大変だから、もう帰ったら」
「え、う、うん。でも森ってきれいだね、また来ていい?」
「わたしに聞いてどうするの、お父さんとお母さんに聞いたらどうだ」
「無理に決まってるじゃないか!」
少年は楽しそうに話すがレフォリエは気が気でない。
あまり花を踏まないよう立ち上がって、彼がいなくなり次第花畑を離れることにした。
少年はまだ聞きたいことがあるようで口をもごつかせている。
それにまたいらいらしてきた。
「あのさ」
「何? わたしにきいてもほとんどのことはわからないと思うよ」
「多分分かると思う。昔、父さんがここですごく勇敢で綺麗な女の子を見たって言ってたんだ。黄金を溶かした髪と目の女の子――一度会ってみたいってずっと思ってたんだ、もしかして君が」
そう聞いた途端、生贄の日を思い出す。頭を撫でた無骨で大きな手。重く鋭いものをもって戦った皮の厚い掌。
自分の正体がばれた。焦りに突き動かされ、少年が去るのも待たず森の奥へ向かって全力で走り出す。
己の髪がさらさらと視界を遮り、きらきらと見える世界が輝いた。
後ろから少年が追いすがる声が聞こえる。
まさかそれが引き金だとは、その時のレフォリエは少しも思っていなかった。