第五話 さかしまにおちる
背中が、もぞもぞ、もぞもぞ、くすぐったい。
何かがレフォリエの背中を触っている。
レフォリエは飛び起きようとしたが、できなかった。そういえばひどく頭が痛む。
全身がまるで動かない。仰向けに転がったまま、悪魔がのしかかって抑え込んだように鈍重で苦しい。
――ひどいことをする!
こんな状態においこんだソクルタへ恨み言を飛ばす。
ソクルタと彼女の操る竜:《クルイグ》に攻撃され、落下したところまでは覚えている。
どうやらしたたかに頭部をうちつけ、気を失っていたようだ。命まで失っていないことは、我が身を頑丈に生んでくれた見知らぬ両親に感謝するしかない。
ソクルタは生け贄を逃がすくらいなら殺してから連れて行けばいいと思ったのだろうか。
もしそうだとしたら、泉に沈めるため、まだレフォリエを探し回っているかもしれない。すぐ近くにいるかもしれないのだ。
自分の足で立たなくちゃ。それすらできない現状は、真綿で首を絞める拷問のそれだ。一瞬ごとに心が削られていく。
「誰……いる、……」
『誰かいるのか』。どうにか一言を絞りだす。
誰にも届かない声量だ。しかし、よい発見もあった。
レフォリエの体は自分で思う以上に頑丈だったらしい。意識を取り戻すのと同時に、少しずつ身体の自由が戻ってくる。
しばらく休めば動き回れるだろう。かといって、脅威が去ったわけではない。
――いるわけないか。
そして嘆息する。
落ちたのは森の中だ。誰かがいるはずがない。
――いや、いる、か?
人はいずとも妖魔はいる。
そう思い至り、再び焦燥が強くなる。
まだ瞼もあけられない状態だ。いったいどこに落ちてしまったのだろう。警戒しようにも、優れた他の五感があっても、はっきり確かめようがないのだから信用に欠ける。
少しでも早く立ち上がって、寄っているかもしれないすべての危険から離れたい。
苛立ちのまま、せめて背中に張り付いている鬱陶しい虫か何かを振り払おうと手足をばたつかせた。
指先が見えない対象に当たる。ふにっ、とした感触があった。
妙に柔らかい。表面はつるっとして豊かな弾力がある。赤ん坊の肌に似ていた。
「もう、やめてくれよ! うまく運べないじゃないか」
「な、に?」
動かしていた指が止まる。
今返事をしたのは何だ。
声を発した何かがぎょっとした悲鳴をあげた。同じ様な声がこだまじみた響きで重なる。
――わたしの背中に、いっぱい妖魔がいるんだ。
妖魔は動めきながら騒ぎ出す。もぞもぞ、もぞもぞ。
とても小さい妖魔が合唱する。
「びっくりした。この子、生きてる!」
「びっくりした。いつもと違うよ」
「びっくりした。魔女さまのところに連れて行っていいのかな」
「びっくりした。魔女さまは死体をもってこいっていってたよ」
「びっくりした。でも死んでないよ」
「びっくりした。ここは泉じゃないから、逃げてきたのかな」
「びっくりした。まさか、まさか」
どれもこれも似たり寄ったりでわかりづらい。
恐らく七つの妖魔が困りきった様子で話しあう。
死体に用があるのなら、このまま捨て置いてくれるかもしれない。動かない唇が祈りの成就を願ってわななく。
「どうする?」
「うーん。もう連れてきちゃったしなあ。とりあえず、魔女さまのところへ連れて行こう」
――おい、やめてくれ。待って!
静止の声はのどの奥につまったままでてこなかった。
レフォリエはこの時ほど己の口を憎んだことはない。
待てと言われたことも知らない七つの妖魔は、ものすごい勢いで動き出す。
下からあちこち突き上げられ、どう逆らうか思いつかない。坂を滑り落ちるような速さだ。
上下にぽんぽんはねて進んでいるようで、運ばれているレフォリエも顎ががちがちぶつかる。
「あが、あががが」
間抜けな鳴き声をあげるレフォリエはどんどんどんどん運ばれていく。
「運ばなきゃ、運ばなきゃ、魔女さまにどうすればいいか、おうかがいしなきゃ!」
「ま、まっ、」
「生きてる人間、初めてみた。なんて綺麗なひとだろう」
「もしも死んでしまったら、髪のひとふさでももらえるかしら」
「そうしたら細く編んで僕たちの髪ひもや首飾りにするんだ」
そんな恐ろしいことを語られ、言葉もつむげないとなれば、レフォリエもぎゃあぎゃあ叫ぶばかり。
そして急に、文字通り放り投げられた。
また落ちていく感覚がする。穴のなかに入れたれたようだ、とわかったのは下からふきあげる風と両手をのばすとあっさり両手が壁をついたからだ。
細長い道を上下左右がわからなくなるほど転がって、今度は顔から思い切り地面の上にまろびでる。
砂が押しつぶされた豪快な音に肌のひりつきが増す。気絶するほどの痛みでないだけ、落下した時よりも苦痛を覚える。
「いっつ……!」
鮮烈な感覚はレフォリエの無意識な油断を叱咤した。
どれほど危機的な状況にあっても、まだ心のどこかにのんびり構える余裕が残っていたらしい。
新たな危機を前にして、ないちからを振り絞って腕を動かす。ひきつる瞼を開け、自分のいる場所を確認する。
こすって、瞼をぬぐう。目に砂が入ってまた涙がでた。一日にこんなに泣いたことはない。
だから「今日はこれ以上絶対泣かないぞ」と心に決めて顔をあげた。
「……ここが、森のなか?」
ようやく四つんばいの態勢にまでなったレフォリエは、あたりを見渡して茫然と呟く。
何があっても泣かないとは決めたが、何があっても驚かないとは考えていなかった。
レフォリエの眼前に広がっていたのは、岩でつくられた果てだ。
変哲のないものはただ一つ。転がった先にあった芝の家である。多少部屋を多く作っているらしい以外は、暖を取るための造りといい可愛らしい見目といい、レフォリエのいた集落とよく似ている。
その安堵すべき姿をした家がかえって異様だった。戸を叩いて助けを求めようとする自分を抑え込む。
崖に落ちたのかと思い、上を見上げた。しかしそこもまたほとんどが岩で覆い尽くされていた。でこぼこの表面は鉱石の艶はなく、無骨な土の肌をさらす。しかしその中には大きな紅玉の様なものが挟まっていて、レフォリエが伏している場所を地上の如く照らしている。
それだけでも異様なことだが、この場所を彩るものはあらゆるものが人のそれとは異なっていた。
白い幹と緑の葉の木々などどこにもなく、曲がりくねった青緑の木々が並ぶ。奇妙な青緑の幹はつるりとして、光る実をたらしたツタがからまっている。ぽつぽつ点在する木々は景観を考えられたかのような配置だった。
流石に天井の石だけで周りが見えるほどは照らしきれない。足で歩く場所はこの光る実によって明らかにされているのだろう。日当たりが悪いせいで屋根の芝もはつらつとした色がない。
ここまで見れば混乱し混濁したレフォリエの頭でもわかる。
レフォリエは妖魔の棲みかに運ばれてしまったのだ。
「魔女さま、魔女さま! 生贄の体を持ってきた、でも、大変なの!」
「ああ、騒がしい。おまえたちはもう少し丁寧に仕事ができないのか?」
ぼろけた芝の家の前にレフォリエをほうりなげた七つの妖魔は、困惑するレフォリエに気付かない様子でわめく。
対し、戸の向こうから聞こえてきたのは耳にしただけで呪われるような低い女の声だ。
立てつけが悪いらしく嫌な音をあげさせて、芝の家の戸が開く。
「この声、お前、」
聞き覚えのある声だった。
驚愕と畏怖のにじむレフォリエの言葉に応え、それはくつくつと笑う。相手もこちらが誰か気づいたのだ。
「呪いの匂いがする。さては貴様、私の石のささやきをきいたな」
扉の隙間から青白い指が覗き、陰から抜け出た幽鬼じみた女が姿を表す。
漆黒の髪は地につくほど長い。目深にかぶったローブではっきりと顔を確かめることはできないが、動くと時たま、猫の様な瞳孔がいやらしく歪んでいるのが見えた。
真夜中の暗がりに覆われた真実をもたやすく見通す瞳だった。暗闇の中でらんらんと輝き、好んで帳のうちにひそむ陰湿な両眼だった。
「おお、妖精ども。この哀れな子どもをどこから連れてきた?」
「ヴァラールと《御使い》が久しぶりに暴れてて、うっかり近づかないよう見ていたら空から落ちてきたんだ。そのまま動かなくなったから、きっと死んでしまったのだと思って……」
「空から落ちたのか。ヴァラールが挑発に贄を奪いでもしたのかね。そりゃまた随分健康なこと」
妖精と呼ばれた七つの妖魔のおびえた返事に、魔女はにやにや嗤う。
気持ちの悪い笑顔だと思った。唇を曲げているくせに、何の感情も伝わってこない。不機嫌、陰湿。そういう形としてたたずんでいる。
ひどく空っぽな表情は、レフォリエを蔑むでもなく死ぬべき定めを背負ったものとして見下していた。
「なれど無為だったな。いずれにしても絶えるなら、早い方が楽であったのに」
「無意味なんかじゃない。わたしはまだ生きてる。ここまで生き残った。まさか目の前にいるっていうのにわからないのか?」
半ば偶然に助られた形だが、少なくとも「生きよう」という意志を捨てなかった。
意志を捨てなかったことだけは心から誇っていいのだ。それを背骨を支えてくれる柱に、震える足で立ち上がる。
――ここでおられてはいけない。
諦めなければ一分の幸運を掴める可能性もあるのだから。
「生意気な子どもめ」
鼻からため息をつき、魔女がしずしずとレフォリエに近づいてくる。
逃げるほどのちからはないが、せめて一発殴るぐらいはしてやるぞ。いかにもひょろい魔女のこと、案外よろめくこともありそうではないか。
そう覚悟を決めたレフォリエの出鼻は、すぐにくじかれることとなった。
「あら、あらあら、ちょっとお待ちくださいまし!」
にらみあう双方の張りつめた空気を抜いてしまう、間延びした呼びかけがかけられた。
振り向けば、翠の髪を編んだ女が後ろからえっちらおっちら走ってきていた。
一見、手足二対の人間に見える女の額には、真っ赤な紅色の玉が生えている。
前門の魔女、後門の妖魔。もはや逃げ場がないかと思われたが、女はレフォリエの横に立つ。まるでよりそうように。
「魔女さま、貴女のような方がその子を殺してしまうだなんて、とんでもないわ」
「……何を言っている?」
魔女が忌々しそうに唸った。
レフォリエもまた一日に二度までも妖魔にも助けられるとは思わず、驚愕に目を見開く。
しかも、ヴァラールは敬愛する二代目女王を殺した三代目の部下に対する八つ当たりとも受け取れたが、こちらは明確に助けようとしている。
「知っているだろう。死者はこの私のもの。命が燃え尽きた後の魂は私の奴隷。三日後の死を約束された身ならば元よりない命。死体であるも同然ではないか、何もおかしなことはあるまい」
「それはどうかしら。まだ呼吸をして、またたきをして、心臓を一生懸命に動かしているわ。これが生きていなくてなんだというのでしょう。生きているものを無駄に殺すのはよくなくてよ、グラヘルナ」
「メリュジーヌよ、この私に意見するつもりか? 約定を破るつもりなのか?」
魔女の髪が逆立ち、目がトパーズ色にきらめく。
恐ろしい形相に再びこぶしを握ろうとするレフォリエの前にメリュジーヌと呼ばれた紅玉の女がそびえたつ。
そして魔女に向かい、優しく微笑む。
「とんでもないわ。よりにもよって貴女が間違えようとしているから教えに来たのです」
「間違い? 間違いだと? 貴様が気づいて私が気づかぬことがあるとでも?」
「ええ、わたくしも信じられないけれどまさにそうなの。とんでもないことでしょう」
「さぞ自信のある解答のようだな! 過ちであった時が見ものだぞ。いってみろ」
叩きつける口調は己の知性を信じる証。魔女に比べて明らかにやわな紅玉の女は、それでも優美なしなをもつ腰も、ふっくらとした唇も崩さない。
紅玉の女もまた、自信たっぷりに言い返す。
「喜んで、グラヘルナ。約定によれば自ら領域を侵したものの命は我らのもの。領域の外の人間を引きずりこんだならば破滅の呪いが待っている。けれど、どうしたものかしら。その子は自らここに来たわけではないし、妖精たちもまた最初は死体だと思って穴に放り込んでしまったのだわ。わざとではない。誤解が重なった以上、その子の命はその子のものだし、妖精たちも清らかなまま」
レフォリエからすれば屁理屈同然だった。
だが魔女にとっては違うらしい。魔女は白い歯をむき出しにして眉間に深いしわを刻む。
今のうちに逃げようと弱い部分がささやく。数歩前や後ろに進んで、やめる。すんでのところでレフォリエは思いとどまった。
逃げるということは追われるということだ。今はなぜか紅玉の女が庇ってくれているが、理由がわからないうちに逃げれば追撃の口実を与えることになりかねない。
今はじっと耐え、守られるべきだ。正しい時、適したものに運命を任せることもまた選択だと自らに言い聞かせ、じっと話の推移を見守る。
「しかしここは落地郷。妖魔たちの最後の隠れ家、人のものならざる地下の世界よ」
「そうね、ですからこの子をわたくしにくださいませんか?」
「待て、待て。百歩譲って、お前の論を認めてやろう。しかしどうしてそこに繋がる?」
「もちろんわたくしにいただくからには、この子を返すのかとどまらせるのか、わたくしに一任していただきます」
「答えろ! メリュジーヌ!」
激高する魔女に紅玉の女は困ったように自らの頬に手のひらを添えた。
レフォリエには二人の間でずっと同じような会話が繰り返されてきたかのように思った。
なぜなら、自分が感情にふりまわされて、養父がなだめる時にそっくりだったからだ。
紅玉の女はさながら手のかかる子どもに言い聞かせるように、ひとことずつゆっくり言い聞かせる。
「だって、貴女は死者の魂を担うものではありませんか。生きた、それも若々しいちからに満ちた子どもは正反対の存在ではございませんこと? もっと小さい妖精に任せたら踏みつぶされてしまいそう……ここにはあとはわたくしめしかいませんわ。ここまで聞けばおわかりでしょう。わたくし、約定を守りに来んですの」
「なにゆえ従うと思うのか。それには私の呪いがかかっているのだぞ」
「あら、もうお認めになったと思ったのは聞き間違いでしょうか。先ほど、確かに百歩譲ると。一歩でも進んだらもう動き出した後、定めたときとは別物です。ああそれに、こうして話しているあいまにも、既に生け贄の儀式の刻限もすぎたのですから。この子は運命を乗り越えたのですよ、褒美が必要です」
紅玉の女が時を告げるのを聴き、魔女が小さな小さな穴を見上げる。
レフォリエには白い点が浮かんでいるようにしか写らない。それが夏の太陽の色に似ていたから、あれは外なのだろうと思った。
魔女は数瞬の間、彫像のように固まって、やがて乱雑に哄笑する。
「おのれ、はめたな! この愚か者め! よろしい、どうせか弱い人の子よ、行くがいいさ!」
ローブを翻し、魔女はぼろぼろの家へ戻っていく。
「しかしゆめゆめ忘れるな、貴様は終わらせるでなく踏み越えてしまった! 既に紡がれた運命の糸を通り過ぎた以上、必ずや波乱の未来が待っている。生き残り、一線をこえたあとこそ本当の闘いなのだと!」
捨て台詞はなぜか深くレフォリエの胸中に刻み込まれた。
ああ、まさしく、その通り。これから何をしなくてはならないのか、すべて自分にかかっている。
魔に囲まれた我が身を振り返り、レフォリエは心臓の上で毛布をぎゅうと掴んだ。