第六話「炎の目玉」
ソクルタは激しい全身の痛みとともに覚醒した。
ふらつく頭をおさえ、ゆったりと上半身を起こす。
地面についたはずの手に、ざらりとした突起が突き刺さる。
険しい岩石のような感触には、よく覚えがあった。
「ああ……そうか」
確か、自分はヴァラールに振り落とされたのだ。
ソクルタ自身は、クルイグがレフォリエをとらえてさえくれれば、自分の役割は十分に終わったからどうでもいいと思っていたのだが。
ソクルタは苦笑を浮かべ、岩石に似た鱗を優しく撫でた。
「なんでこっちへきたんだ、ばか。ちゃんと足止めしておけばよかったのに」
おぼろげに記憶が戻ってくる。
そうだ。
クルイグは、己の主人が落ちるとわかった途端、目の前にいたレフォリエを放ってソクルタの真下へ猛然と駆けてきたのだ。
クルイグの体はお世辞にも柔いとはいえない。だが長年、ソクルタを乗せてきた背中である。それが奇跡の手助けになったのかもしれない。あり得ないことに、ソクルタは若干体を打っただけで、割れた額以外に目立つ怪我はなかった。
この程度はソクルタにとって許容範囲である。
「……悪かったね」
自分を思ってのことだとはわかっている。
言葉は責めても、言葉には「愛いやつだ」という響きが抑えきれない。
謝れば、クルイグはゴロゴロと喉を鳴らした。
(オマエ、ほんとはそんな鳴き方をする生き物じゃないくせに)
城で女王がこっそり飼っている猫がそういう鳴き方をしているのを聞いて以来、ソクルタと二人きりの時だけ、クルイグはそういう鳴き方をする。
「何はともあれ、オマエのおかげで命を拾ったよ。さて、ここからどうするかな」
あたりを見回したが、あるのは一面の木、木、木だ。
森なのだから当然である。問題は、そのせいで場所の目印になるようになるものも見つからず、ここがどこなのか皆目見当もつかなかった。
元々、妖魔の住まう地として、人の手も入らない場所だ。
地図らしい地図もない。
「ふむ。やむを得ない。クルイグ、オマエはあの方が気に入らないようだが、許せよ」
ぽんぽんと首筋を叩くように撫でれば、クルイグは「仕方が無い」と言いたげに鼻を鳴らした。
ソクルタは胸元から貴石を取り出す。
女王の《御使い》が、いざという時のためにわたされているものだ。
(己の未熟を示すようで、本当は使いたくない。だがわたしなどの恥のために余計な意地を張るのも……)
基本的に女王および人間と敵対関係にある妖魔だが、例外もいる。
それが各土地にあるパワースポットを管理する、特異な妖魔だ。
海辺の海上神殿ならば人魚。
平原のストーンサークルならば巨人。
山の太陽石祭壇ならばドワーフ。
そしてこの森ならば、魔女。
「――泉の守り手、森のもの。蛇の尾を掴む魔女よ。女王の名のもとに、我が声に応え給え」
パワースポットにて魔力の流れに干渉し、封印の術式を守るのが彼らの役目である。
容赦なく命を奪う極寒の吹雪と、絶え間なく大地を変革させる天災を封ずるため、世界中に張り巡らされた竜脈の力を押さえ込む。
パワースポットと封印を滞りなく守るため、彼らとだけは限定的な協力関係にある。
パワースポットの周辺は魔力があふれかえるため、自然と妖魔に住みやすく、人に澄みがたい異界となる。
守り手は人ではできないのだ。しかたのない、必要な関係だった。
混乱を避けるため、それを知っているのは守り手自身と女王、その側近ぐらいだ。
(だが、人をよく思う妖魔など少ない。私だって妖魔は嫌いだ。応じてくれるだろうか。ましてや、この森に住まうのは……)
貴石を両手で包み込み、祈りを捧げる。
手のひらのなかの石が、夏の日向に置かれた水のように暖まる。
しばらく待っていると、ささやき声がした。
酷く不機嫌な声音だ。その声は頭の中に直接響く。
『迷ったか。哀れなやつだ』
女の声だった。老婆を想像していたものだから、内心で思っていたよりも若いことに驚く。
それにいやな感じがした。
女――不機嫌な魔女から送られてくる思念は、ざらりとして、乾ききった砂のようだ。
悲しみも嫌悪も通り越して、ひたすらに強い隔絶だけがある。
自分たちは決して、寄り添えないあいだがらなのだという、それ。
下手に感情的に忌み嫌うよりもなお深い。
ソクルタは、この魔女が女王とその民に愛を向ける可能性など、雨粒一滴分たりともありえないのだと悟る。
それでも彼女が守り手だ。森の妖魔は長生きで、命のちからが豊かだけれど、流れに逆らう性に欠けているから。そういうものは、えてして強い魔法は不得手だ。
強力な妖魔である竜は、かの姫君を守る誓いを立てている。
他に魔法に優れているのは、この魔女だけだった。
二代目女王の腹心の部下であり、親友。
先祖代々の学者家系で、ひねくれものだが勤勉家。人であった頃から「神代の魔術に触れうる秀才」と謳われ、国一番の魔術師であった才女。
(だからこそ信頼できる。この魔女は因縁と憎悪をひとまずおいてまで、守り手になってくれた。それぐらい世界を守ることを大事に思っているんだ。その点においてのみ、この魔女は絶対的に信頼できる)
そう考えたソクルタは、ひとまず胸をなでおろす。
一方で、ソクルタにまたがられているクルイグは、低く唸っている。
(私の不安が伝わってしまったか? それとも、警戒しているのか)
ソクルタとて少なくない経験を重ねている。
とはいえ、頭がかたい自覚はあった。考えすぎるのも悪い癖だ。
その点、クルイグは猪突猛進だからこそ直感に優れる。
ソクルタはクルイグの勘を、おのれ自身のものよりも信頼している。
彼が警戒しているのならば、気をつけないと――ゆるんだ気持ちをしめなおす。
「ええ。一方的で申し訳ないが、聞いていただきたいお話も」
『ほぉう、それはここに来た理由かえ? いや、この乱痴気騒ぎを見ると、貴様なりの私情がだいぶんまざっているようだ。情熱的で必死……ムカつくぐらい若いな』
まるでソクルタの事情を知っているような物言いに、顔がこわばる。
未熟さに直結する若さと愚かさを指摘されたようで、うっすら熱も集まる。
「何故それを」
『あの善良ぶった王が、でてきてもない子どもを無理矢理ひきずりだすとは思えなかったからな』
「……わたしがおろかだとあきれるでしょう。それでも私は、女王のために」
『うだうだ御託の多いやつだ。そんなところでくっちゃべるな。いい。案内してやる』
魔女がそういった途端、いきなり目の前に炎のつぼみが咲いた。
炎でできたつぼみはクルクルまわりながらほどけてゆき、やがて目玉の形になる。
それは魔女がグラヘルナという名の人であった頃。彼女が生まれた学者一族の象徴だった文様だ。
見えぬものを見、かたちなきものを見定める幻想の瞳がソクルタを見つめる。
炎の目玉は、ソクルタがしっかりと見つめ返してきているのを確認すると、森の奥に進みはじめた。
「これが案内、か。御使いとなって様々な不思議に触れたつもりだけれど、まだまだ神秘はつきないな……」
不気味だが美しさも覚える光景に感嘆しながら、ソクルタは炎についていく。
白い鱗に黄昏色の炎を反射するクルイグだけが、静かに目玉をにらんでいた。