第四話 獣に抱かれて
太い幹がへし折られる悲鳴に、砂埃を巻き上げる怒涛の行進。
再び《御使い》と、彼女が率いる魔獣が現れたのは、レフォリエが逃げ始めて二日後。ちょうど腹を空かせて、食糧調達に赴いていた時のことだった。
「近いぞ!?」
レフォリエは驚愕に目を剥く。
およそ12メトラはあろうかという巨体に鉱石を背負って襲いくる獣である。
間違えようもない。だがしかし、此度はあまりに唐突過ぎた。
今までであれば、移動のためにやむなくなぎ倒す物々の悲鳴で遠くにいても気づいた。
気づいてから悠々と逃げる準備しても余裕で隠れられるほどだ。
ヴァラールも音の聞こえてくる方角に鼻を向ける。
「さすがに森に慣れてきたか。各地を巡って妖魔を屠る立場であれば、たとえ幻惑の森であろうと地理を把握しおる」
「のんびり感心している場合? これじゃあこのあたりにしか隠れられないぞ」
今までは地理の有利を利用し、うまくかわしてきたが、それもここまでだった。
ここから走っても、《クルイグ》の大きな足とレフォリエの小さな美脚では一歩の大きさが違い過ぎる。
見つかってから逃げるのでは、あっという間に追いつかれるのがオチだ。
「正直、でかいやつとの戦いなんて鯨やら蛇やらでコリゴリよ」
「珍しく弱音をいう」
「弱音じゃない、いらぬ面倒は避ける。コウリツの話だ!」
そんなことをいっている間にも足音は迫る。
しかし、何もせずおしゃべりに興じていたわけではない。
レフォリエは周囲に視線をはしらせた。
森のなかでも木々がたつ密度が低い。
隠れなければならないときに何故あえて隠れにくい場所に向かったか。
それはヴァラールのためだ。
隠れ場所の問題ではない。理由は食事である。
《クルイグ》に比べれば、おおよそ4~5メトラしかないヴァラールだが、それでもレフォリエより3倍ほど大きい。
体格的には隠れるのには向いていないものの、まるで気の中に隠れる葉の如くうまく隠れてみせてきた。
ヴァラール自身の優れた経験と技量によるものであろう。
レフォリエもその隠れっぷりに、
「騎士時代はさぞ闇討ち暗殺が得意だったのだろうなあ」
と感嘆するほどの腕前だ。
隠れ場所の方は問題ない。だが、彼は肉食だった。
多くの妖魔は食事という栄養補給を必要としない。
例として妖精たちをあげれば、彼らもまた基本的に食事を不要とする妖魔である。
新鮮なミルクなど「妖精が好む」とされているがために報酬として用いられる例外はある。
とはいえ、主に妖魔を構成し、活動させるエネルギーは魔力だ。
概念に寄るものが大きいため、レフォリエ自身、あいまいな妖魔たちの会話から推測したに過ぎないが、魔力は「彼らがそうである」ことに対し、「世界の神秘」から供給される、らしい。
だから妖精たちが生きるために必要なのは、「それらしく生きること」だ。妖精ならば「悪戯」や「不思議なお手伝い」などである。
逆に言えば、人狼や魔獣といった妖魔は、「食べる」ことが必須になる。
彼らが妖しき魔のモノとして規定される理由のなかには、彼らが捕食者であることへの畏怖が含まれるからだ。
ヴァラールは竜、例にもれず捕食者としての側面がある。
妖精たちとは違い、空腹を覚え、必要なものとして肉を食む。
ヴァラールほどの大きさともなれば、獲物も大きい。
ちょうど今、レフォリエの目の前には、レフォリエがすっぽり入ってしまうほど大きな獣がはらわたをこぼして転がっていた。
レフォリエのハルバードをもった片腕も、血でいくらか汚れてしまっている。
「……なあ、ヴァラール」
「なんだ」
「あっちの方が速くても走って逃げるのと。今から飛んで逃げるのと。あと、あいつらが来るまでになんとかそこらへんで隠れてみるのと。
こいつのなかに隠れてみるの、どれが一番あいつらから離れられると思う?」
「ほう」
レフォリエにとっても、我ながら呆れた発想だった。
しかしヴァラールは人間であれば片眉をあげるように顔の筋肉を動かす。
「ちょっと考えたんだよね。あいつってどうやって私たちを見つけるのだろうか。目か、鼻か、はたまた爬虫類に見えなくもないし熱なのか」
「どうだった?」
「さっぱりわからん。ただ、ここでは人間の匂いは珍しいと思う。目であればここでは隠れにくい。一番いいのは単純に飛んで逃げることだけど」
「すぐ見つかるな」
そのままどこまで追いかけられるか。
途中でまければよいが、うまく駆けられれば、いずれヴァラールは地上に降りねばならない。
あの衰えない突進力を見るに、《クルイグ》の方が体力では上だ、と一人と一匹は思う。
「隠れるのもいいんだけどさ。だから正直に逃げるより、混乱させてやろうと思う」
「ほーう。獣の腹に入り込んで、姿と匂いをごまかそうというわけか」
「成功するかはともかく――面白そうではあるだろ?」
「……お前、賭け事を覚えたらひどい目にあいそうだな」
◇ ◆ ◇
ヴァラールの眼に、《クルイグ》の黒と琥珀が混じり合った鱗がうつる。
鱗は体内の魔力に反応して、まばゆく発光していた。
小さな太陽の如く輝く琥珀は、光の当たり方によって黒いはずの鱗を白くみせさえした。
魔獣が己を捉えたと感じたと同時に、ヴァラールは咥えこんでいた獣を森のなかへと放り投げる。
その食いつくして空になっていた獣の腹のなかには、レフォリエが収まっていた。
薄くなった肉と皮があっても、それなりの衝撃がレフォリエを襲う。
だが声ひとつあげず、身じろぎひとつしない。
この賭け事の内容は単純である。
レフォリエとともにあることが当然であるはずのヴァラールが、さもそうしているかのように飛んで逃げる。
飛行することで身を隠せないヴァラールは、適当なところまで《御使い》と《クルイグ》を引き寄せる。
その間にレフォリエは逃げる。そして残っている貴石で妖精たちを呼ぶ。彼らの「悪戯」によって、彼らを迷わせてしまおうという算段だ。
小さな存在である妖精たちでも、近距離で、くわえて精神に強い動揺が生じたならば、強力な魔にも術を施せるだろうと踏んだ。
レフォリエとしては妖精たちがおびえないか不安があった。
しかし、《クルイグ》と同じ竜であるヴァラールがいうのならば、信じたい。相棒のいうことである。
飛行中では、言葉に乗る風よりもヴァラールが風を切るちからのほうが強いせいで、うまく貴石が使えないのである。
ヴァラールは決して背中が見えないよう翼を広げながら、飛行準備に入る。
《クルイグ》が襲いかかろうと口を開く寸前に、ヴァラールは華麗な身のこなしで空へ飛びたつ。
「いつかのように光弾でもあてられてはかなわん」
騎士であった頃はよく使っていたものだが、いざ自分が空を飛ぶ身となると、飛び道具の類は鬱陶しくて仕方がない。
ひとりごちで、翼の周りに魔力で風を起こし、森の中央へ向けて直線に加速した。
ぎりぎり人と獣の肉眼でも追えるか否かの速度。手を抜いて囮とばれては困る。
「むっ」
ヴァラールの予想通り《御使い》は、出会うなり全力で逃げの姿勢をとった敵竜に唸った。
そしてヴァラールを追うべく、《クルイグ》に跨ってヴァラールを追いかける――はずだった。
「つくづく生きることに手抜かりありませんね、あなたたちは」
《御使い》ソクルタは、呆れとも諦念ともつかぬ声音で早口に告げる。
同時にヴァラールがより高度を増そうとするやいなや、実際に行うよりも早く、己の華奢な腰に手を突っ込む。
ヴァラールの目にもとまらぬ素早い動作だった。
たかが人間の小娘と侮っていたヴァラールも思わず目を見開く。
《御使い》が取り出したのは、年季の入った焦げ茶の鞭。
すぐさま天にのぼろうとしたヴァラールの足を、鞭の切っ先がかすめる。
「届かないか。ならば、よろしい!」
息をつく暇もなく、《御使い》は《クルイグ》に跨るのをやめた。
白い二本の足で、見事に仁王立ちし、そのまま《クルイグ》の鼻先まで駆け出した。
走りながら、手に持っていた大きな丸い盾を背負う。
何事かと速度を緩めて下界を見下ろしたヴァラールが目撃したのは。
背中に《クルイグ》の光弾を浴び、その衝撃で宙へ躍り出た青い《御使い》の姿だった。




