第十一話 亡霊の手は天をむく
死の水底から這い上がり、息をととのえたのもつかの間。レフォリエたちのたたずんでいた大地が揺れ動いた。
足で立つこともままならない揺れに、レフォリエは尻もちをつく。
揺れに合わせてバランスを取ろうとしたところ、背後から強風にふかれたためであった。
先ほどまでと打って変わってヴァラールに憎々しい視線を向ける。
しかし今度はヴァラールの方がどこ吹く風で、翼をはためかせて上空に浮き上がったのだった。
「地震か」
ヴァラールのつぶやきはかたい。
この国で地震は最も恐れられる災害のひとつである。
「女神が怒っているのか?」
レフォリエは自分の口からこぼれでた、おびえるような言葉に驚く。
想像したのは泉の底、美しい女神像だった。世界を守るはずの亡霊を無下に扱ったことに鉄槌をくだそうとでもいうのか。
かすかでも弱気に思う自分を憎たらしく思う。小さく舌うちする。
「この程度で怒るなら、とっくに世界が何度か滅んでいそうだがな」
ヴァラールの軽口に、そりゃそうだ、とレフォリエは慎重に立ちなおす。
めったにない地震に動揺してしまった。
女神が支えているはずの大地が揺れることは、守護を手放し、人類を脅かすことをよしとしたと考えられている。
事実、学者の研究によれば、初代女王と女神による安定がもたらされるまで噴火と地震は珍しいことではなかったという。ひどい時は太陽の光が地上に届かなくなり、家畜は次々と凍え、病んだ者とたくましき者とが等しく飢え死ぬ。
信心深い老人など、世界樹の根が波打つことによって定まっていたはずの大地が蠢くのだ、世界の終りだと騒ぎ出す。
地震は人々の記憶の奥底にすりこまれた、本能的な恐怖の対象なのである。
「山の方なら今でもあるってきくけれど、こっちでもあるんだ」
揺れが落ち着き、立つことが困難でなくなる。
レフォリエはもうすっかり終わったものだと思って、過ぎたこととして呟く。
ちょっと珍しいものに出くわしただけ。そんな気持ちで。
額をぬぐい、気が抜けているレフォリエと対照的にヴァラールは降りてこない。
「ヴァラール?」
しばらくぬめった瞳で見下ろしていたヴァラールが咆哮をあげる。
まだ湿気の残る鼓膜にじんじんと響き、レフォリエは頭痛をおぼえるこめかみをおさえた。
「何!?」
「至極残念。やはり、そうめったにあることではないようだぞ」
レフォリエはそれを「この揺れが自然に引き起こされたものではない」という意味だと受け取った。
純粋な銀の光を放つハルバードを両手で構えなおす。
無言でしばし待つ。ヴァラールの警戒と裏腹に、しばらくは何も起きなかった。
緊張はそう長く続くものではない。
だが地震という並々ならぬ現象とヴァラールの警句があっては、簡単に気を緩めるのは早計だ。
穏やかな時間が過ぎていく。
ちからを込めたつもりはないのに腕がぷるぷると震え、苛立ち、そして寒さに歯ががちがちと鳴った。
優しい風に吹かれて葉や花のひとつふたつ宙をよぎっていった頃である。
泉から虹色の玉が浮き上がってきたのは。
レフォリエは泉から曲線を浮かべるそれを茫然と見つめた。
玉はさらに浮き上がる。蛙がすみかから頭をのぞかせるのに似ていた。玉は頭であった。
まんまるな目玉が半分、水面からレフォリエをじっと見つめる。
その目玉がまた異様だった。
――なんだ、こいつ。瞳が虹でできている?
瞳孔は黒曜石の黒。生き物らしくないほどよどみなく美しい一点を中心に、色の輪が無数に重なって囲んでいた。
向こう側の景色が透けて見える。落ち着きのある緑の木々は、しかし色の幕がかぶさって変色していた。
グラデーションは、同じく濁りない色彩に満ちている。
雨上がりに浮かぶ空の橋が閉じ込められたようだ。
その橋がわっかになって、黒の周りをぐるぐるまわる。
なぜかレフォリエは色彩の中心に座す黒から目が離せなかった。
だら、と頬を冷や汗が伝う。
見つめあううちに、風邪でもひいたかのように、自分の体温がわからなくなった。
呼吸が荒くなるぐらいあつい気もする。雪のなかへほうられたように寒い気もする。なかみがめちゃくちゃな気持ち悪さに、レフォリエは生まれて初めて吐瀉した。
「気をしっかり持て、のみこまれるぞ」
胃液を吐くために体が勝手に下を向く。
思考ではなく肉体に刻まれた反応。そして頭の上を旋回するヴァラールの声掛けが、レフォリエを虹から解放した。
焼けた喉が痛む。ぺっぺっと歯茎の奥に残る酸っぱいものを吐き出すさまを、虹の目玉が追う。
レフォリエは吐きだすだけ吐き出し、すっきりとした相貌で虹と向き合う。黒を直視しないよう注意しながら。
一部始終を見届けたのを合図にしたように、虹がさらに浮き上がった。
頭の両横に寄った瞳がすべて現れる。
見つめあっていた時は混乱して気が付かなかったが、すさまじい巨体だ。
その目玉ひとつだけで、発育のいい子どもほどもある。
ずずず。水が割られたような音。静かな出現に、レフォリエは知らず知らず息をのむ。
それは蛙ではなかった。どちらかといえば、蛇に似ている。
手足がないつるりとした胴は太い。下半身は泉に残っているが、長さは短いようだった。
見える情報から脳内で像を描きなおす。レフォリエは頭のなかのキャンパスで蛇の姿をとらえる。
胴の中央部が膨らんで、槌に似た形をした奇妙な蛇だった。
虹蛇が首をのばす。ちょうど太陽は蛇の背後からさしていて、レフォリエが蛇の薄い影におさまった。
レフォリエは一歩後退し、虹蛇を見上げる。
圧倒的な異形におされてしまう。神経に緊張が伝わり、頬のあたりがぴくぴくひきつる。
魔女が世界の片隅にいる小さな存在に思えた。それほどまでに強烈で、生き物ではありえない純粋さ。無機物に近い、無感情で、自然で、定めること自体がおこがましいと思わせるちからの塊。
目が痛くなるようなきらめきはとどまることなく変化する。
光を浴びると同じ色合いをした鱗が陽光を浴びて小粒に光る。
太陽に近い場所から下腹部に向けて、オパールのような閃光がパパパとはしった。
「蛇――蛇? 虹の蛇。七色の鱗。そうか、じゃあ、こいつは魔女のいっていたヌシかッ!」
人々が暮らす大地にはりめぐらされた世界樹の根。集まりすぎた女神のちからがかたまったもの。
気が付いた途端、レフォリエは揺れの正体を把握する。ヌシがこの世にあらわれ出でたことによる変動だったのだ。
ヴァラールもレフォリエと違うことに気が付き、自嘲気味に鼻を鳴らす。
「魔女め! らしくもなく感傷に浸って、眉間した亡霊などつくるからこうなるのだ!
あの女王らしく散り際にいじけて蓋を開いていきよったではないか、いい出来だ!」
魔女に届いているかもわからない不平をとばし、高笑いじみた大声で笑う。やけっぽかった。
もろもろが堪忍袋の緒に負担をかけているようだ。
後々二人(二匹?)が派手な喧嘩をしやしないかとレフォリエは苦い顔をした。
それもつかの間。はっとレフォリエは泉の底を見る。
「ヌシは出てこれないように、『蓋』によって封じられているんじゃなかったっけ」
つまり、出てきているということは。特別製とはいえ亡霊が開けられるほど封印が緩んだままということで。
そして、頼まれた仕事はいつやったのか? 記憶になかった。
目をかっぴらき、目覚めるまで自分がねころがっていた地面を見やる。
水がしみ込んで人型のあとがのこっていた。その手先のあたりに、杖が転がっていた。
恐らくハルバードと同じ材質でできた、銀の杖。
「あ、あ、あ、」
頭を抱える。それもひと時のこと。
レフォリエは杖に向けて前転した。
――やばいやばいやばいやばいやばい! 杖をつきさすのを忘れてた!!
早く杖を掴まなければ。一刻も早くミスを帳消しにしたい。
転がってまでその場を離れたのは、それぐらいの理由でしかなかった。
つまらない事情がレフォリエの命を救った。
大地が悲鳴をあげる声がした。
衝撃とともにレフォリエの身体が浮く。
転がる途中で杖を掴み取り、ついさきほど自分がいた場所を振り返る。
虹蛇の巨大な頭があった。
ぞ、と全身に鳥肌が立つ。
もしまだあそこに残っていたら? 今頃、虹蛇の顎につぶされていたに違いない。
杖を片手にぶるりと震える。
虹蛇は目覚めてから時間が浅く、まだ動きが鈍いようだ。
地面の上でぶるぶる身をくねって震わせるさまは、幼子が眠いまなこをこするかのようだ。
その無邪気さがかえって恐ろしい。
魔女のうそつき! 理不尽に罵る。
絶対に蛇より竜と形容する方が正しいとレフォリエは思った。
「『蓋』をしめろ!」
「いわれなくてもわかってるよ!」
ヴァラールに発破をかけられ、再度飛び出す。
虹蛇に破壊の意志はない。ただ存在するものに過ぎない。
だが、ただ存在するだけで周囲を脅かす存在だと理解した。
裸の足先を泉につけてみて、レフォリエの喉から押し殺した声が漏れる。
驚愕に思わず細いくびれをもった足指を戻してしまった。
「あつい……」
同じ場所とは思えない。まるで沸騰した湯だ。
――ダメだ。迷えば恥ずかしい失敗ですまなくなる。時間がない!
顕現からそう時間がたっていないのに、これだけの影響が及んでいる。
長引けば長引くほど、取り返しのつかない事態になる。早く元の場所に戻さねば、そのための手段すらとれなくなるだろう。
レフォリエは大きく息を吸った。己の頬も叩く。
わたしなら、できるさ。
亡霊の誘惑もふりきったのだもの。自分を信じるんだ。
意を決し、ヴァラールを見上げる。彼は彼で、虹蛇の意識をひきつけるために炎や翼をけしかけていた。
強力無比な魔法を虹蛇は涼しい顔で受け止めていた。しかし興味をひくことには成功したらしく、よく回る目玉が青金石の影を追う。
そんな忙しさの真っただ中にあるヴァラールに、レフォリエはハルバードを投げた。
「ヴァラール、これもってて! 邪魔!!」
「ふざけるな阿呆!」
文句を投げ返しながら、ヴァラールはぱくりとハルバードを大きな口にくわえる。
「アイツ意外に器用だな」
笑って、杖だけを持ったレフォリエは泉へ飛び込む。
ハルバードはレフォリエにとって、とても大切なものだ。
きっと大事な人が託してくれた、未来を切り開く道具。
それをヴァラールがもっていてくれるなら、安心できる。
大切なものを返してもらうためにも、必ず戻ってこよう。レフォリエなりの意志の表れのつもりだった。
泉のなかも変わらず熱せられている。
水の流れは強く、ちょっとした岩を投げつけらられいるようだ。
慈悲深い女神の泉は、戦士を確かめるかのような厳しい試練の場へとひっくりかえってしまっていた。
虹蛇の出現するエネルギーでそうなったというのなら、いったいどれほどのちからなのか。
泉の底、女神像を中心に激しい渦が巻いている。ときとともに熱を増す水流に逆らい、まっすぐレフォリエは腕と足を動かした。
自分しかいないんだ。そう、心がごりごりに固まっていた。意気込みだけはあるのに、うまく水をかけずに苛立つ。
レフォリエは忘れていた。
本来、泉は常に彼らがいて、封印を守っているときいていたことを。
歯を食いしばる少女の横を幾重もの影がかすめる。
目で追おうとして、たしなめるような咳払いが響いた。水中と思えぬ明瞭さで。
「あなたはあなたの仕事をしなさい」
「誰かの腕を振り払うだけの覚悟があるのなら、きちんと成し遂げることよ」
「わたしたちもわたしたちの仕事をしよう」
異なる声がいちように同じ口調で説教をした。
そのなかにはレフォリエに惜しみない愛を注いだ女もあった。
感情のない虹蛇の目が水下へ向く。
その角のない身体の周りを旋泳する者どもがある。
緑の光でできた肉を持たぬ亡霊が、何百何千とそのか弱い腕でしがみついていた。
何十年と蓄えられてきた妖魔と人間の抜け殻たちは、表情を浮かべず虚ろに虹蛇をとらえる。
うねって振り払おうとすれば、一斉に何十対という目玉が同じ動き方をした。
老若男女、多種多様な姿をもつ亡霊たちは虹蛇へ呼びかける。
まるで歌うように。用意された台本を読み上げるように。
「しずまりたまえ、しずまりたまえ」
「今はまだ地の底へ、土の下へ、はるか下層へ。あなたが満足するに足る灼熱の揺りかごへ」
亡霊たちが虹蛇にしがみつく。
うっとうしいとばかりに虹蛇が身を動かしても、肉体のない彼らにはまだ脅威ではない。
レフォリエが泉の底へたどり着けるように、虹蛇を押しとどめようとしての行動であった。
ある亡霊たちは手を繋ぎ、レフォリエと虹蛇のあいだに壁をつくる。
またある亡霊たちは、虹蛇を囲んで繭のように覆った。
そして残る亡霊たちは、虹蛇の意識を分散させるために縦横無尽に泳ぎ回る。
何か虹蛇が行動しようとすれば、ヴァラールの炎が降り注ぐ。
それぞれの思惑、望みという壁をとりはらった連携の裏には、亡霊を魔女が手繰っているのも無関係ではあるまい。
――すごい。みんな全力だ。今までのことが全部うそみたい。
そのなかに自分も含まれている。
ともにあれば、これ以上頼もしいものもないだろう存在たちと脅威に立ち向かっているのだ。
物語につづられるような素晴らしい勲しを宿した気持ちになる。
彼らの努力に甘えてはいけない。一層心をひきしめ、レフォリエは水を蹴る。
一見、ヴァラールと亡霊たちが一方的に翻弄しているようで、そうではなかった。
虹蛇が身をよじる。よじることができる。小さくひとなきすることができる。
小さな動作だけで、水温が一気にあがる。大地が震える。岸が砕けて、泉が広がった。
亡霊たちが威力を弱めているにも関わらず、背後からの衝撃がレフォリエの背を打った。
ためこんだ息がとびだし、猛烈な痛みが襲う。
虹蛇の挙動が落ち着いても背面を中心に全身が熱を帯びていた。じんじんと絶え間ない苦しみにもだえそうだ。
――やけどとかしちゃってんのかな、もしかして。
今気にすることではないが、そうだとしたら悲しかった。
レフォリエは自分もそれなりに美しいと思っている。
メリュジーヌはしょっちゅうかわいいといってくれたし、ミシジャも美人になるといってくれた。
着飾るのも大好きだ。きらきらした自分を想像するとうっとりする。
そんな自分が損なわれていく。甘えたか弱い少女が削られていく。
痛みに対する悲しみはなかった。
物理的な死と、生まれ変わるような心身の変化が、泣きたくなるほど怖い。
昔、魔女の家のまで泣かないと誓った。そう心中で繰り返すうちに、やっとの思いで水底にたどり着く。
女神像の足元から、噴水のように魔力が吹き上がっているのを感じる。
強い魔力は自然という世界を成り立たせる命を栄えさせるみなもとでもある。
もれたちからはそのまま水流の勢いを強め、腕をとめればあっという間に水面まで戻されるだろうことを予感させた。
二度目の挑戦は間に合わないだろう。
杖を女神像にひっかけて、たぐりよせる形でぎりぎりまで水底に近づく。
来たはいいが、いったいどうすればいいのか。
やみくもに腕を伸ばす。魔力がそこから流れてきている以上、この下――女神像が『蓋』であるはず。
瞼を開けるのも難しい。狭い視界にちらと白い……白かった肌が見えた。
今は真っ赤になってしまっている。遅れて、ひときわ赤い部分は皮膚がめくれてしまっているのだと思い至り、顔面がくしゃりと歪む。
それでも。これで頑張らなかったら、いったい全部なんだったのかという話になる。
――なにがつらいんだ、ばっかみたい。これだけやれる女なんだ、わたしは美人に決まってる!
レフォリエはあえて軽い言葉を選ぶ。
これはただ危険なものを抑え込む作業ではない。
レフォリエが成長するための道の上、その岐路なのだ。
もっと強い自分になる。結局のところ、どこまでも自分らしい小さな理由がレフォリエをたぎらせた。
浅い打ち込みでは、杖が抜けてしまうかもしれない。だからしっかりと、強いちからで埋め込まねばならなかった。
この激流のなかではいかに驚異的な身体能力をもつレフォリエでも難しいことだった。
今度は黄金のちからなどない。
だが、友のちからがあった。
先ほど己の体を通ったヴァラールの魔力の感覚を思い出す。
ヴァラールの炎、魔力を推進剤に、杖を水底に埋め込むために。
彼は見事、レフォリエの体を使って魔法を食らわせてみせた。
ヴァラールにできてレフォリエにできない道理はない。それがレフォリエの考えた道理だ。
しかし、人が魔法を使うことに適さない身体となって久しい。レフォリエも常人と比べれば適正が高いとはいえ、たかが知れている。
記憶を手繰り寄せて自分に流し込んだヴァラールの魔力は、途中で何度も何度もつまづいた。
滑らかに水を流したいのに、あちこちに邪魔な物体があって、流れをさえぎっているようなものだ。そして魔力を使うのは、意図的に体内に血を巡らせることに近い。
動き、動かすためのエネルギーの通り道。もし乱暴な扱いして傷つけば、悲惨な結末が待っている。
だがレフォリエは通りの悪い魔力を無理に通す。
血管がはぜる。体内での魔力の暴発は、そう誤解するほどの損害をレフォリエにもたらした。
さらに魔力を通せば、心臓が強く脈動する音が聞こえた。鼻から鉄の匂いが、口から苦い味が広がる。
だが、無為ではない。
青い火花が銀の杖のそばではじけた。レフォリエはニヤリと笑う。
あと少し、あと少し。正常な機能を失っていく頭と身体で、もっともっとと魔力を通す。
――これさえできればいい。
肉体は、既に全力を尽くすという地点を超えていた。限界である。
レフォリエはいつのまにか、指同士を絡ませていた。ここまでやったのなら、できるのはもう祈ることだけ。
ミシジャさん。ココワ。メリュジーヌ。もしかしたら、お母さん。
これさえできればいいから。
わたしに、がんばらせてください。




