第七話 真理の胎児
外から攻撃してもきりがないなら、内側を見てみよう。
ものごとというのは一方だけを見ていては隠れた一面を見ることができない。
それをレフォリエは学んでいた。
潜り込めば、解決策が見つかるかもしれない。そんな賭けから、レフォリエは泥の竜のなかへ飛び込んだ。
泥の竜のなかは流動し、息苦しい。
レフォリエはきゅっと口を結ぶ。麦を焦がしたような色の泥が空っ風のように渦巻いていた。
ちからを抜けば泥の渦にのまれて跳ね飛ばされ、口を開けば咥内に泥が入り込み、運が悪ければ窒息してしまう。
それでもわずかな隙間からぬめった泥が入り込む。
吐き出したい衝動をこらえ、舌先を丸めて喉の奥まで入り込まないよう泥を押し出す。
――我慢だ、我慢。魔女の薬よりは美味しい!
一年前、木の上から落ちて額に薬を塗られたときを思い出す。
手当がすむなり魔女の忠告を無視して遊びまわり、結果としてうっかり薬混じりの汗が口元に流れたときは卒倒するかと思った。
突き抜けるような痛みはなく、かえって鼻の奥を鈍器で殴られた気分だった。数分、嗅覚が戻らなかったほどである。
それに比べれば、この泥は異臭もなく、ただ苦しいだけだった。
水も土も清いのだ。
――なかにはいったら、胃液で皮膚がぼろぼろになるぐらい覚悟してたし。実にわたしは幸運に恵まれている。
己を勇気づけ、レフォリエは泥にとられて鈍重な腕を振るう。すなわち、ハルバードを。
それはひどく地道な作業だった。
ヴァラールにまたがっていた時の開放感などみじんもない。
かろうじて泥を踏みしめ、平泳ぎの動きで泥をかき分けて進み、時たまハルバードをふるって道を開く。
水を含んだ土はほんの少し立ち止まろうとしただけでも塞がってしまう。
明快な解決は見えてこない。徹底した攻撃はないが、休む暇もない。
先を考えると疲弊が増す。
――ヴァラールの火が欲しい。ダメだ、忍耐、忍耐、忍耐忍耐忍耐!
我慢の灯がじりじり揺れる。
レフォリエにしては、実によくこらえた方だった。
いったいどれほど同じ作業、同じ時間を繰り返しただろう。
やがて目的地を目指すための行動は、行動のための行動、ルーチンワークになった。
突然、すかっとハルバードの手ごたえが軽くなる。
「んあ?」
マヌケな声が漏れ出る。
作業に集中し、目の前の光景すら正確に把握できていなかった瞳に光が戻る。
血管が洗われるような清涼な水の匂い、練られた土の温かさが戻ってくる。
目の前の泥の壁が、開きかけの眼を縦にした形にぱっくり割れていた。
向こうから光が見える。
一瞬放心しそうになったが、再び手先に伝わる泥が重みを増しているのに気づく。
「本当、いい加減、進ませてくれよ!!」
絶叫とともに前転で裂け目に入り込む。
背の後ろで泥が隙間を埋める、湿った音がした。
立ち上がると、流動する泥(体液とでもいうべきか)よりも固い泥が床のように下に詰まっていた。
あたりを見渡す。
そこは壁で囲まれた巨大な体のなかにある広大な一室。
角はなく、丸みがある。
レフォリエは卵の中にいるようだと思った。
次いで自分が泥の竜のなかにいることを思い、たびたび肉を食らうために殺めた獣の体内を思い出す。
「もしかして、ここは泥の竜の内臓のなかか」
ハルバードを握って警戒したが、遅い来る気配はない。
一応、安息地といっていいようだ。
ちからを抜き、ひとときの心の平穏を得る。
そうしてわずかな余裕を取り戻したレフォリエの頭が活動を再開した。
「内臓といっても、普通の生き物じゃないんだ。もし普通の生き物と同じように作ってるなら、わたしはとっくに溶けているはず。じゃあ、ここは何のための内臓なんだろう」
返事はない。
当たり前だ。ヴァラールは体の外にいる。ときどき地震のように揺れるから、変わらず攻撃を続けているのだろう。
レフォリエを傷つけないために火を使わず、あくまでけん制するために。
そうだと思いたい。
ヴァラールならば自分もまきぞえにしそうだ、という考えを振り落とす。
答えるものもなく一人でいることが心細かった。
もしかしてこのままおいていかれるのではないかとすら思う。
「くそ。別にわたしだって何にもできないなんてことはないから。こんなところ、何かあるにきまってるんだ。おいていったりしたら、わたしが見つけたものがわからないんだからな。絶対後悔するんだからな」
らしくもない不安を打ち消すため、レフォリエは両手で頬を叩いて気合を入れた。
何かある。それを確信しているのは事実だ。今度もあきらめずに探せばよいのだ。
内臓とは生き物を生かすための器官である。
妖魔を見ていればわかる。妖魔の魔法、妖魔の命は、彼ららしさという『意味』を薪にして、魔法という火を起こす。
羽根があるものは、その大きさがなくとも空を飛ぶ。
吸血鬼は、血液にさほどの栄養がなくとも、血を飲むという行為そのものに魔力という栄養素が発生する。形と行動が重要なのである。
この内臓にだって、生物としての正しさはなくとも、魔法生物としての意味はあるはずなのだ。
床に触れ、壁をこすり、あちらへこちらへと歩き回る。
脈動はない。耳をつけるとごうごうと水の流れる音がした。
「うーん。焼いても水がわいて元に戻ってたし、これが重要なのかなあ」
レフォリエは壁に耳をつけたまま、より水の音が濃く響く方向へ向かって歩を進める。
やがて床に小さな水の線が走り始めた。まるで心臓に集う血管のように『中心』へ向かって線が伸びている。
いや、逆だ。
そう気が付いたのは、ついにレフォリエが水の線の終点にたどり着いたときだった。
悍ましいまでに白く、恐ろしいほどに美しい女性の彫像である。
文様は磨き抜かれた最高の大理石。生気ない石であるというのに、色気すら漂う艶に吸い込まれるようにして触れれば、とろけるような手触りがした。
ほんの少し焼いた骨の匂いがする。
手には黄金の天秤を持ち、片方には水の玉、もう片方には黄金の玉が供えられていた。
水はその美しい彫像から少しずつ、やむことなくあふれだし続けていたのだ。
「女神像? 見たことがない顔だ」
天秤の女神。髪を後ろで輪の形に縛り、微笑みもなく怜悧に表情を引き締めていた。眼は下界を憂うように伏せられている。
太陽神は豊かな髪をそのままたっぷりたらした御姿だ。瞳は優しげに開かれ、微かな微笑みは春のそよ風のよう。
表情や姿こそまるで違う。だがその相貌は、どことなく太陽神に似通っていた。
太陽神の化身のひとつか、姉妹神かなにかなのかもしれない。
主に信仰されているのは太陽神でこそあるものの、本当は様々な神々がいるのだというから。
たとえば海の集落では戦いと秩序の女神もまた重要な女神とされているらしい。
森、山、平原では豊穣と平和を司る太陽神が信仰されているため、他の神の影が薄くなっているだけだ。
森の集落に住み、幼子だったレフォリエは名前やどのような逸話をもつ神々なのかまでは覚えていなかった。
しかも妖魔はあまり神々を語らない。信仰心がないのではなく、習慣がないのだ。
神への畏怖を語るものも、神々しい御使いもいないのだから。
祈るべき対象というより、自分たちを見守る大いなる存在なのである。助けてくれ、支えてくれとはめったに望まない。
「この玉が泥の竜の心臓かな。文字が書いてあるし。魔道具?」
字はよく読めない。
泥の竜もまた魔女の魔術で作られたものなのかもしれないが、その文字はハルバードや杖に刻まれていたものとは違う。
かろうじてレフォリエでも読むことができる文字とも異なった。
玉を天秤から外そうと両手で黄金の玉に触れる。ひんやりとした金属の感触。その冷えは指先から脳天をかけぬけた。
「つっめたッ!」
レフォリエはその感覚に、かつて魔法を使った時の感覚を思い出す。
魔力が通る感覚だ。
とっさに手を放したが、魔法はすでにレフォリエの頭のなかで文様を描き始めたようだ。
聞き覚えがある、しかしどこか知っているものより明るい調子の声が響く。
『泉の底の泥を練り、言葉によって《意味》というちからを刻む。これにより意志なき泥は、知性の胎児にして真理を孕む。ゴーレム。これぞ守護の竜、その根源』
高揚した様子で話す魔女の声に、レフォリエは目をむく。
耳をおさえても声はやまない。
『それって素敵なこと?』
次いで問い返す女の声が現れた。
これもまた聞き覚えがある。しかしこちらは誰か全くわからない。
声音はあまり高くない。大人の女性と思われる。
だが話し方は悪戯好きな童女のように無邪気で可愛らしい。
『あなたはいちいちいうことが難しいのよ』
『あなたは阿呆だな。素敵なことか? 無論そうに決まっている。然るべきときが来るまで泥の竜は泉を守るだろう。竜とは宝を守ることを好むものだ』
「いったいなんだ、これは。何を話している?」
レフォリエは会話に交じって言葉を発してみた。
『もしできたら素敵ね。海の風が森の海で泳ぐなんて、とってもロマンチック。自由で、祝福されている。どうせならそういうものの方がいい。どうせ作るなら、想いと意味が込められている方がよいわ。よいわよ』
『エラヴは本当に趣味に生きる女だな。それだからヴァラールも骨を折らざるを得ないんだよ。精神的にも、物理的にも。こんなところに来る暇があるのなら、やつの見舞いぐらいいってやれ』
レフォリエを無視して会話は進む。
声はだんだんと小さくなり始めていた。きっと体内で魔力が消費されているのだろう。
――これ、今の会話じゃない?
楽しそうな魔女は、膿のない若さに彩られている。
ひょっとすると黄金の玉、この泥の竜が生み出された際の会話が魔力のなかに残っていたのかもしれない。
レフォリエは過去の残滓を脳内で再生させられたのだ。
鐘のなかに入れられたように、音が頭蓋骨の中でぐわんぐわんと響く。それは気持ちが悪い。
「気持ち悪いが、それだけだ」
現実で声を出すことで頭の中の声をかき消す。
黙るより喋っている方が幾分か気分が楽になった。
レフォリエは考えたことをそのまま口にだし、この女神像をいかにすべきか考えることにした。
「真理を孕む胎児が泥の竜の根源。あ、でも、言葉を刻んだことで魔術を編んだのか」
レフォリエは黄金の玉を見やる。
天秤の上に乗せられているからには、黄金と水は対であるように見える。
「この泥を生み出す水が泥の竜を生かす。でも、文字が刻まれているのは黄金の玉。黄金の玉が核か。多分。じゃあこいつを動かせばいい。簡単じゃないか」
今度こそ玉を外そうとする。
しかし、玉は見えないちからで固定されており、びくともしない。
両手でひっぱるなどして試したが、ダメだった。
魔力を浴び過ぎて、氷の海に放り込まれたように全身が震える。
「なめるなよ、こちとら生まれついて雪と冷えには親しんできたんだッ!」
唸りをあげてなお引っ張る。
数分もせず、指先が細かく痙攣しだす。初めての経験だった。
健康には自信があっただけに、かすかに恐怖を覚える。
明確な攻撃を受けたわけでもないのに身体が異常をきたしている。
濃厚な魔力が駆け巡り、吐きそうなほど頭痛がした。声は反響するこだまとなって幾重にも重なり、言葉としてとられられない。
「外すのは無理だ、こりゃ」
あきらめの悪さにも自信がある。そちらも折れた。
我ながらやや高いプライドに傷がつく。
「くそ、くそ、わたしが手法を変えるとか。悔しい。もう許さん、絶対やりきってやるぞ」
レフォリエは愚痴とともに黄金の玉から手をはなす。代わりにハルバードを握った。
「泥の竜さえたおせりゃいいんだ。泉にいくのが目標なんだ」
黄金の玉を術から切り離すことができないのなら、なくしてしまえ。
レフォリエはハルバードを高々と掲げた。まるで薪割りの時のように。
両手でしっかりと持ち、そった刃がきらりと輝く。
ほれぼれするほど完璧なフォームであった。
「やはりハルバードはこれに限る!」
レフォリエは歯をむいて笑う。半ばやけだった。
薪割りで大切なのは感覚だ、コツだ、勘だ。金属の重みで落として、割る。
今までの経験を総動員して、この玉を割るために威力をたたき込むべき箇所を狙い定めた。
ハルバードに刻まれた魔女の文字に気力という魔が通う。
魔女が神秘をも分解し、破壊すると称したハルバードはいかんなくその力を発揮した。
金属同士が打ち合う甲高い悲鳴と火花が舞う。
破片を飛び散らせ、黄金の玉が真っ二つに割れる。
錆びることのない黄金は不滅と栄光の証であるはずだった。
循環によって永遠を保つ泥と聖水。その神秘を孕んだ黄金は斧によって分断され、暴かれる。
込められた魔力は黄金の奔流となって、断面から一気に溢れ出す。
魔術という小川から世界という大河に流れ込む。
黄金のすぐ前にいたレフォリエに避けられるはずもない。
レフォリエは黄金の奔流に巻き込まれ、なすすべなく押し流された。




