第十三話 シュヴァリエ・レガシー
ヴァラールはとかげのような首を下げ、鼻先を地面につけた。
いざ安全な場所に来るとかえって降り方に迷ってしまう。
考えた末に、ヴァラールの脳天から鼻先まで尻で滑り落ちる。
服を叩いて振り返れば、ゆっくりと体を伸縮させて、こちらに向けて居住まいを正すヴァラールと目があった。
「案外、綺麗な目をしているんだな」
ぽつりと漏らす。するとヴァラールはくすぐったそうに顔の部分をくねらせる。
その瞳は雪の上にこぼされた血のように紅い。それだけでも確かに美しいが、レフォリエが言ったのはそういった意味ではなかった。
集落で暴れていた時が嘘のような落ち着いた視線だ。
決して理不尽な怒りや憎悪に突き動かさるものの色合いではない。
むしろ養父やメリュジーヌ、ココワに似たものを感じ取る。
「して、俺と話とは? 何を望む」
「それは……それは」
話すことなど決まっている。
あふれ出そうな思いは、我先にとレフォリエの中心からあふれ出しそうになってひしめき合い、なかなか形にならない。
「ヴァラール、あなたは地下へ来ないのか。ここまでするあなたがひとりでいることはない。地下は暗いが優しくて、美しい場所で。そう、メリュジーヌっていう、すごく綺麗で親切なひともいるし、妖精はちょっとバカだけれどいいやつばっかりで」
説得しようとしどろもどろ話す。これが達せられるまでは終わらない。しかし竜にとっても悪いことなんてないはずだという余裕が残っている。
瞳は自然とうるみ、ふやけた稚い内側が表に出る。
しかし、それは最後まで聞かれることはなかった。
ヴァラールは彼女の言いたいことを察し次第、すぐにその返答をよこしたのである。
「断る」
「……何故?」
ヴァラールはあれほど真剣に森を守ろうとした。
それを妖魔たちが拒むはずがない。レフォリエですら受け入れる彼らが。
か弱い少女らしい戸惑いを、彼の吐く炎の如く冷徹に、苛烈にヴァラールは両断する。
「俺は竜。かつて剣だった者。そして妖魔とはただ一つの願いのために生きる。竜はその妖魔でも己を律することを軽んじた愚かな邪悪の顛末なのだ。それが、お前、希われたところで変わるものか」
真摯な大人のようにヴァラールはレフォリエに向かい合う。
己を否定し侮蔑して、選んだ生きざまを誇る。
矛盾しているのに、竜はあまりに堂々としていた。
「じゃあ、わたしはどうすれば」
ヴァラールの気迫、威風にレフォリエは瞬きを忘れる。
その感情をどう形容すればいいのか、不可解すぎてわからない。
できたことといえば、レフォリエは何故、自分がここまで竜に固執するのかをようやく自覚だ。
――なんでなんだろう。すごく悲しいことを言われているはずで、わたしは彼がそう望むなら納得しなくちゃいけないのに。
たった一度会って触れただけなのに、全く不可解。全く不合理なことであるが。
竜の生き方に、どうしようもなく憧れているのだ。
もはや理屈ではなく、本能で求める何かがある。
養父の言葉はまさしくレフォリエの中心を射抜いていた。
周りの忠告を振り切ってまで自分の望みに従事したとき、死力を振り絞って挑み、達成したとき。レフォリエのうちには、ただの少女としては得られなかった興奮と幸福があったのだ。
「願いに本当に必要であるならば、滅ぼしても構わぬ。切っ先の前に立つとは斬るか斬られるかで終わるかということ。剣はあるじがため振るわれる武器。我があるじへの忠誠の形は、信念にして傲慢。すなわち、敵なるものはすべて排除するという悪意である」
なんて理不尽。
なんという横暴。
――ああ、こんな風に生きられたなら。あらゆる憤懣を、己の身一つで打ち破る覚悟と快楽で走り抜けられたなら。
選択を終え、ひとつ前へ進んだ時の喜び、過程で失われた苦痛を想起して胸元の布を握りしめる。
集落の時と同じだ。互いの望みがたがえるならば、戦うしかない。妖魔にはそれぞれ絶対のことわりがある。
しかし、レフォリエはその絶対を打ち破る方法を知っている。どころか、一度成し遂げたのだ。
「俺はそういうものだ。わかるだろう。特にこれからの道に立ったばかりの子どもにふさわしくないのだ」
一言ずつ重く告げるさまは、明確な拒絶であった。
それは敵意であって親愛でもある。レフォリエはそこに気遣いの匂いを感じ取った。
瞬間、脳天が鍋になって、足元でぐつぐつと火が焚かれ始めたのを感じる。
――竜の強さに気遣いなんて似合わない。
ヴァラールは少女の移ろいやすく繊細な蠢きに気づかない。
「言い方を変えよう。俺が望んだのはお前の平穏で幸福な日々。ゆえにあまりに激しく前へ進もうと望むお前の性向は、俺にとって敵である。ともにあればお前の情熱を押しとどめ、俺の望みをその背中に突き立てずにはいられまい。森を守ったのもその一環に過ぎん。お前を守るため。妖魔に情あってのことだとは、ゆめゆめ思い違いせぬよう。正直、こちらとしてもそのようなことは鬱陶しくてかなわん」
言いたいことを言い終えて、ヴァラールは蝙蝠の翼を広げる。
別れの時だ。そう叩きつけてやろうとした。
青い天幕はレフォリエから月光を奪う。
彼女を巨大な影で覆い、そこでヴァラールは「はて」と首をかしげた。
「――待て。何故、姿が明るいままなのだ?」
本来、暗い影に輪郭をあいまいにするはずのレフォリエの髪は、相変わらず豪奢な黄金色に輝いている。
いや、むしろますます強く煌めいている。まるで太陽の下で照らされたように熱い。煮えたぎった金の仄かな赤で彩られた、魔性の輝きにヴァラールは括目した。
「知っている、知っているぞ、それは人間の――」
レフォリエは今度は遠い記憶を呼び起こす、懐かしそうな響きを聴きつけなかった。
幼い少女の沸点は、既に限界に達していたからだ。
血でぬめる拳を握り、眉間に深いしわを刻んで癇癪を爆発させる。
「それでも、わたしはあなたが好きだ」
行動。夢。理想。自分がしたいと望んだことは、なんでもやらずにはいられなかった。
どうして自分はここまでわがままで、欲しいものが我慢できないなんだろう。
誰かの忠告を裏切るたび自分を責めた。
養父の言葉を支えに、メリュジーヌの慈愛を糧に、妖精たちの友情をばねに、ココワの信頼を核に、レフォリエは『自分』という人間を遂行する。
――欲望に理屈なんてない、わたしは貫くしかできない人間なんだ。
「わかってるって、わがままなのは! でも、わたしは、あなたに救われて、ずっと、憧れてたんだ! あなたがわたしに美しい世界をくれた、あなたと飛んだ日に、ふさがっていた感覚が開けていくような幸せを知った!」
レフォリエの足元で、光が紡がれていく。
魔力が糸となり線となり、文様を映し出す。
レフォリエは知らないが、メリュジーヌの変身の魔法が解ける際とよく似た光景であった。
違う点は『願い』。レフォリエの魔力の色はとろけるような灼熱の黄金で、なにより彼女は人間であった。
「あなたがわたしの何を知っているのか、知らない! なんでそんなことをいうのか、わからない! もしかしたらあなたはわたしのことを思ってくれて言っているのかもしれない、でも、それじゃあわたしは幸せになれないの!」
レフォリエは知っている。ヴァラールがどれほど素晴らしい妖魔なのか。
でなければメリュジーヌは顔を歪めなかった。
森の妖魔も彼なら大丈夫と信じなかった。
黄金の糸はヴァラールに向かう。ヴァラールは広げたままだった翼をはばたかせ飛び立とうとしたが、それよりも早く、爪が、足首が、大地に縫いとめられる。
少女の前から動けないよう、しっかりと。
「どうしても嫌なの!? だったらわたしは戦う、ヴァラールの願い以上に頑張る! わたしが潰すのかもしれないあなたの願いと幸せの分だけ、ちからをつけて、邪魔なものをぶんなぐる! 独善かもしれないけれど、あなたとどうしてもいたいんだ! 笑ったり、遊んだり、食べたり、他のみんなとくだらない話がしたい!」
人間の人生に、そんなわがままは必要ない。
しかし、レフォリエの人生には彼の存在が既に明確に食い込んでいる。
もうどんな理由があったって、捨て置くことなど考えられないのだ。
レフォリエはレフォリエの望みのために、大切な存在に刃を向ける。
「わたしは、あなたと一緒がいい!」
代わりに何か。契約のあかしを。
学んだばかりの事柄は何一つ浮かんでこなかった。
レフォリエの心にあったのは純粋な願い、ただひとつ。
この竜とともに生きたい。
それだけだった。
「なんと、莫迦らしい――」
とびきり憎々しげな呟きとともに、ヴァラールは目を細める。
○
人間の魔法が竜を屈服させた瞬間。
竜がひどく困ったように、嬉しそうに鼻を鳴らしたことは誰も知らない。
もし気づけたとするならば、その時にはもう、かつて時を同じくした魔女くらいのものだっただろう。
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第一章完結です。詳しいあとがきは活動報告に掲載予定。(2/26現在)
第二章は数日か数週間、プロットを見直す時間を頂いて、執筆を開始させていただきます。




