第十二話 槍の穂先を飲み
レフォリエは屋根を駆け上った。
地上をかけては集落の人々にまた追いつめられるのがオチだ。
懐かしい芝の屋根を踏みしめ、跳ぶ。何人か気づいて声をあげるものもいたが、捕まえるより過ぎ去る方が早い。
彼らは小さな白い背中を、あんぐりと口を開けて見送るしかなかった。
「さむッ」
走れば鋭い風が顔を切りつけた。
崖を転がる石のように深まっていく宵闇に、そういえば地上はそろそろ秋だと思い当たる。
地下は岩の壁と通路に囲まれ、一年中気候が変わらない。場所によって春のようであったり夏のようであったりする。
自分で思うより、どれだけ妖魔の世界になじみ、人の世界の感覚から離れていたか実感させられた。
集落の雪に備えて斜面が急な屋根を休みなくかけあがり、足がちぎれそうだ。
一度呼吸を整えようと、一際高い屋根の頂点で背筋をのばす。
景色を見て今の場所を確認しようとした途端、目の奥をがつんとやられた。
ぱっと視界が明滅し、何も視界に映らない。目頭を押さえ、遠くに目線をやるとやっと目が慣れてくる。
「これが、竜? 妖魔?」
黒い世界を蒼い炎が染め上げていた。
かつて、安心して目覚めるために眠っていた家々があっけなく壊れていく。
生け贄に選ばれる前日、海の集落の男に言われたことを思い出す。
『お前たちは寝たら無事に朝を迎えられると思っていやがる』
森の集落では約束を守り、日々の暮らしを紡ぐことを考えていればいい。
レフォリエの知る妖魔もみな支えあい、人並みの感情を持つものばかりだった。
「ああ、そうだろうな、そうもいいたくなるか」
寝ている合間も妖魔が陸に上がって襲ってきたらどうしよう。
彼らはその恐怖を知っていたのだ。そういう生活をしてきたのだ。
海の集落に習い、武器をもって森に踏み込む人々を想像して肝が冷える。
「できることはする……するぞ」
絶対できるといえないのがつらい。頬を両手で叩き、気合を入れ直す。
眼前の竜に向け、時折足を滑らせて落ちそうになりつつ突き進む。
尻尾が浮いて屋根に近づいたところで、思い切り両手足を広げて飛び乗った。
つるりとした表面に触れるとつかみづらい。だが鱗の外側を掴もうとすると一部のぎざぎざに引っかかってレフォリエの皮膚が破れてしまう。
血でぬめるのもあってやたら手が滑る。
勇気を振り絞って指をかけて思い切り掴もうとしたところ、鱗が一枚はがれてしまった。しかし、その下から真新しい鱗が顔を出す。
剥がれた部分を観察すると、ほとんどの鱗の下には新しく作られ始めた鱗があるようだった。
そして鱗の外側はいうまでもなく硬いが、付け根の方は比較的柔らかい。
「くそ、痛い、すごく痛い、振り落したりしたら後でぶん殴ってやる」
愚痴で痛みと涙をこらえる。
慎重に、それでいて素早く古い鱗を選び、付け根に向けて手を延ばす。
コツをつかめばもうこちらのものと、勢いを増してレフォリエはヴァラールの首元までよじ登る。その手元をよぎって足元、離れていく地面に向けてくすんだ青金の鱗が落ちていく。
時たま青い炎もレフォリエの頬をかすめる。
その火花は黄昏色。白いのどではなく竜の体の近辺から突如花が咲くように発生していた。
「これがお前の魔法か? おい、ヴァラール! お前に言っているんだぞ、聞こえているか!」
意識がこちらに向くようになるべく挑発的な物言いで呼びかけた。
ヴァラールが驚いて身をくねらせようというのを鱗から感じ取る。
振り落される前に、足で首に組み付く。大木の丸太の如く太い首に捕まるのは簡単ではないが、全身でしがみつくようでは恰好がつかない。
「何をしている!」
「もう十分だ、森に帰ろう」
息も絶え絶え、ささやくように願う。
その声音がかつて救った幼い少女だと理解したのか、ヴァラールは低く唸る。
「何故ここに? 独善でここに来たのなら、今すぐ森に帰るがいい」
独善。独りよがりな正義感だとなじられた気がして、言葉に詰まる。
合理的な選択ではなく、また犠牲を伴った選択だという自覚はあった。
「わたしがまさか自分を正義だと思ってここに来たと思うか。違う。しなくちゃいけないと思ったことをせずにいられないから、ここにいる」
その返しはヴァラールではなく、自分に向けたものだ。
レフォリエに安全なところでうずくまっているよう諭すヴァラールを無視し、今や眼下に並んだ集落の人々に向かって口を開く。
「わたしの声が聞こえるか! 森に踏みこむのをやめろ、そうすればわたしたちも森へ帰り、約定の通り手出しをしないと誓う」
「勝手に――」
怒るヴァラールの剣幕は凄まじい。せりあがる吐き気とも戦って、レフォリエはのどが張り裂けんばかりに叫ぶ。
「わたしが生きているのは、偶然だ! 誰の故意でもない。事故の重なりであり、純粋な幸運。ヴァラールに他意はない。繰り返す、ヴァラール、森の妖魔に他意はない!」
「ならばこれはなんだ!」
ひとりが叫ぶ。
「この家を観ろ。俺たちが苦心し作り上げ、思い出とともに蓄えたものがこの短い時間でこれほど無残に壊された。この少女を観ろ。その怪物の放った炎で痛みを知らない肌が醜く焼け爛れた!」
止まりかけた脳を決意で殴り、意志を燃料に腹の底から返答をぶつける。
おびえ、無為に同情に浸って、意味もなく進めなくなるのが怖かった。
怯えればきっと自分の言葉はちからを失う。そんなものが、ある意味ではレフォリエと同じく自分の感情に塗りつぶされている彼らに届くだろうか。
血反吐をこぼしてまだ足りず、ならば骨身がきしみをあげてでも尽くす。それで伝えられるなら、寿命が削れてもいいとすら思った。
「あなたたちは怒りと恐怖で、自分たちがしようとしていたこと、そして我々の契約とその結果を忘れている。森に踏みこみさえしなければ、互いの生活が保たれる限り我々は干渉し合わない! 今まで通り! あなたたちはそれを知っているはず!」
――今が、これが、わたしの戦いだ。
より強く、一瞬でも長く、己の信念を掲げ続けたものが自分の最初の目的を成し遂げる。
多くはレフォリエに頷かず、顔を歪ませる。
「確かに。人と妖魔は敵ではない」
そのなかで声をあげるものがあった。
「しかし、人と同じように腹を満たすことを求め、牙をむく獣を前に、恐れを感じた時。嫌悪を抱かずにいられるか否かは、また別の話。生を知るものが失うことを絶対の敵のようにいうのは本能のようなものだ」
曲がった腰、培われた知性のともしびが宿る瞳、物語を語るようなゆったりとした口調。
長だ。
姿かたちもそのままな長に、レフォリエは自然と敬意の視線を向ける。
たとえ立場が変わっても、長は自分の足で立っている。今それを自らに強要しなければいけない者として、優しい瞳が眩しい。違う立場の意見を掲げていてなお頼もしいとすら感じた。
「確かに。恐いのはわかる。だが、こちらとて武器を振るわれるのは痛む。身も、心もだ。あなたたちでは竜を倒せないし、倒すことに何の意味もないのはわかったはず。もうやめて、互いの家に帰りたい」
「我々もそうだ。お前たちはそれで安堵して日々を過ごすだろう。そしてレフォリエ、お前の言う通り、ヴァラールにかかれば人間は失うものが多すぎる。レフォリエ、美しく愚かな少女よ。それでは我々は眠れないとは思い至らなんだか」
長は後ろで動向を見守っていた若い衆に手招きをする。
争いに加わっていた男たちではなく、熱狂に取り残されていた女たちだ。
彼女たちは不安そうに目配せをし、それからひとりの男を取り囲んで竜と少女の前に突き出す。
「――ミシジャさん?」
長と反対に、養父は随分と老け込んでいた。
落ち窪んだ眼下の奥を恐る恐る見つめ返す。
「レフォリエ。大きくなったな」
随分綺麗になって。絶対にべっぴんになると思っておったよ。
予想を裏切って放たれたかかと笑う唇は、レフォリエが集落で最も信頼を寄せた人に他ならない。
「どうして? 何故囚人のように囲む? この人はただわたしを育てただけじゃないか、何もしていないんだ」
今にも降りて駆け寄ろうとするレフォリエをその頭部で押しとどめたのはヴァラールであった。
ヴァラールはレフォリエを赤子をあやすように妨げ、養父と目を合わせる。
「ふむ、そうか、そうか」
養父は一人納得し、こくこく頷く。
「よく頷く男だ。父によく似た娘よ」
「そうかね? 照れるなぁ」
穏やかに会話する人と竜に、女たちが養父を囲む輪の隙間を広くした。
「ミシジャ」
長が名を呼んで促す。
それにも養父は頷いて、居住まいを正した。
「レフォリエ。よく帰ってきたといえない父を許しておくれ」
「ミシジャさん、あなたがわたしに許しをこうことなど一つもない。わたしがあなたの忠告を守れなかったんだ」
「そうだとも。お前はお前のためを思った忠告のほとんどを守れない。そのすべてはお前らしく生きるために必要だったものだ。だから迷わずいきなさい。この集落がお前の世界になれなかったとしても、それがすべてではないのだ。レフォリエ、お前が行きたいと思った道こそが、お前の歩む道だ。きっと、そういう人間なのだろう」
「ミシジャ! お前のいうべきことはそれでは……いや、いい」
長が養父の前に立つ。養父はもういうことはないとばかりに目を閉じてしまった。
「レフォリエ、お前は約定を守ることを誓った。ならば我々はそれにあかしをたてる」
「あかし?」
「他者に契約を持ちかける時、責任が伴う。幼き者よ、胸に刻め。もしも妖魔が再び我らに手出しをするようなことがあれば、真っ先に死ぬのはお前の養父。同胞たる森の集落の民によって千切られ、平穏のための生け贄となるだろう」
レフォリエはかえるがつぶれたような悲鳴をあげる。
やめてくれとすぐに言い出さなかったのは、これまでにさしのべられた手と養父の鼓舞、ヴァラールの体温があったからだ。
集落の人々、長、ここにはいないココワ、養父、そしてヴァラールを順に見やる。
血の味がするほど強く唇を噛んだ。
この痛みを絶対に忘れてはならない。レフォリエは鉄の味がする唾を飲みこむ。
「――わかった。必ず……必ず、約束を守れ! さもなくば、すごく、すごく、すっごく! 怒るからな!!」
抑えがたい涙をごまかすために空を見上げた。
まるでレフォリエからこぼれる透明なしずくを隠すように、ヴァラールがはばたいて翼が風を巻き起こす。
「養父を大事にしろよッ!」
もう何もかも手遅れだとしても、少しでも養父の幸福が保たれることを願って捨て台詞を置いていく。
ヴァラールの足が地上から離れた。レフォリエの黄金の髪が地上に引っ張られるように凪ぎ、煌々と輝く星がどんどんと近づいてくる。
一瞬の浮遊感とともに上昇がとまり、ヴァラールは天空で輪を描いて飛び、方向を整える。
肺いっぱいに他の人間が吸ったこともない清い空気を吸い込んで、涙を止めた。
「つらいか」
ヴァラールの問いは集落のなかにいた時と打って変わって静かで、なぜかレフォリエは笑ってしまう。
「今日はもう、いっぱいだ。夢のなかで考える」
鱗の上に体を倒して目をつぶれば、すぐにまどろめる。全身をつつむ疲労は眠りを欲して容赦なく苛む。だが犬のようにかぶりをふって、レフォリエは睡魔を振り払う。
まるでこれで全て終わりかけているような満足感に浸るわけにはいかないのだ。
「まだ終わっていないんだ。さあ帰ろう。お前と……あなたと、ずっと話したかったんだ。ヴァラール」