第十一話 たゆたいの炎
瞼を開くとレフォリエは地上の森の中にいた。
いつかのように突然のことであった。
地べたに転がり、ぱたぱたと叩く。爪の間になにか挟まった感覚がする。
しばらく何が起きているのかわからなかった。
呆けていると、また突然目の前に白い影が降りる。
ざく。小気味いいぐらいの音は地面に突き立った音色で、それの鋭さと重さを示す。
もしも自分の体の上にふってきていたらと思うと、ぞっとしない。
「なんだよこれ」
地面から斜めに生えている柄には、よく見ると薄く何かが掘り込んである。
みみずがのたくったように流れる文様が文字だと気づくには随分とかかった。
真っ白な色は川の底に隙間なく張り巡らされていたものと同じに見える。
柄に触れるとひんやりとして、指先がじんとしびれた。
まだレフォリエの手には大きい柄を確かめるように握る。
「魔女の贈り物……か?」
柄を掴んで支えにして立ち上がる。
触れているとだんだん全身にちからがめぐっていく。
自分が体の中と四肢を糸でつないだ人形だとするなら、緩んでいた糸がぴんと張りつめ、最良の状態に直されていくようだ。
かぶを引っこ抜くのと同じ要領でそれを引き抜く。
少々ふらついたが、持ち前のバランス感覚で立ち直る。数回振り回すと、からだには合わないのにどんどん馴染む――気がした。
――これなら、竜を助けられるかもしれない。
レフォリエにこれといった作戦があるわけではない。
自分の目で見ていないことには、集落の人々が何を考えて竜と対峙するのか、竜がどうすればもう集落の人々と戦うのをやめるのか、わからなかったからだ。
なんにせよ現場に赴き、双方を納得させないことには――今、レフォリエが抱いている目標といえば、実にシンプル。
集落の人々の様子を観察しつつ竜のもとまでたどり着き、竜と人間を説得する。
それまで自分の身を守るちからが欲しかった。この武器にはそれだけのちからがある。
「気に入った。しかし、なんだこれ。斧かな」
薪割りに使う斧に刃の形状は似ているが、細長すぎる。先っぽにもやけに長い刃があるのも気になった。時折、細工に使う錐に形が近いから、突き刺すものなのかもしれない。
使い方が多いのはいいことだ。
開けてきた可能性に胸をときめかせるのと同じだけ、もやもやとした暗雲が心にあふれだす。
全身に触れて、目視して確かめる。しかしどこも健全で、完全に保たれたままだ。
――これの代金はいったい誰が払ったんだ?
そんなの決まっている。自分を母のように愛した女性を思い出し、目を伏せた。
しかしすぐに首を振る。
人間と妖魔では持っているものがそもそも違う。
自分と全く同じものを彼女が払うとは限らないのだ。
「早く、帰ろう」
きっと家に帰れば、とても怒って、そして呆れたように微笑んで、優しく抱きしめてくれる。
そのためにも一刻でも早く解決して、無事に帰らなければならない。
竜への心配に揺れる自分だけでなく、彼女のことも安心させたかった。
そう決意を新たにして、レフォリエは肩に斧をかけた。
○
幸い、森近辺の集落の作りは七年前と大して変わっていなかった。
今よりもっと小さな頃、こっそり隠れたしげみを通る。
通り方も森の中で暮らしながら、妖魔に教わり、自らも学んできた方法を使う。
足音もしげみの枝葉を騒がせることもなく移動することで、集落までは難なくたどり着くことができた。
それでも、いつもと集落の様子が随分違うことには、すぐに気づかされた。
おそらく魔女の魔法で移動させられたのだろう場所は、ほんの少し森に踏み込んだ場所だった。
流石にそこまでは踏み込んでいないものの、集落に近づくにつれ、数人ほど森の中に立ち入り妖魔が来ていないか警戒する者がいたのだ。
レフォリエの記憶にある人々はみな少しでも踏み入るのを避けていたというのに。
ただ、立ち入っているものは若者ばかり。長や過去をよく知る大人など信心深い者たちは女王の約束に従って、森に立ち入る気はないらしい。
代わりに集落のなかで大きな火を焚いているのが見えた。そこだけ空気が真っ赤になって、大小の人間が火の粉のように揺れている。
――どうしよう、怖い。人が多すぎる。
レフォリエは自分の中に芽生えた恐怖心に動揺した。
自分の住んでいた集落は狭くて、人なんてよそに比べれば少ないと思っていた。実際、森の妖魔たちと大して変わらない。
だが、この全員が自分の敵かもしれない。そういう見方をすると、いつもと――かつてと違った様子で揺蕩う彼らは異様だった。
まだ竜は来ていない。今いけば説得できる。
そんな希望はすぐに打ち消された。若者は殺気立ち、妖魔に刃をむける興奮に酔っている。
大人たちは後先考えない若いちからに圧倒され、静かに押し殺されるのを待つようにうつむいていた。
子どもたちは何が起きているのかわからず、とりあえずというように目を輝かす。
レフォリエは手に入れた武器を強く握る。
理性で話し合うなんて無理だ。どうしようもなく実感した。たとえそれが一部でも健康な命が損なわれる恐怖に後押しされた諦めだったのだとしても。
「竜が来たぞ!」
森に入っていた若者が声を張り上げた。
その声に集落の人々は思わず腰をあげ、レフォリエも人知れず振り向く。
木々に止まっていた鳥が一斉に飛び立つ。
激しい翼のはためきに次いで、ごうとすさまじい突風が鳴った。
いったいどこにその巨体を潜ませていたというのか。
黒い影がぬうとのぼり、皮膜のうえに骨の浮いた翼が緩慢に開閉される。
月光のもとにさらされ、荘厳な青い煌めきが竜を観た人々のまなこに焼きつく。
ヴァラールは天空に向けて首をくねらせ、凄烈に吼えた。
そしてようやく、三度のまたたきの間とまった人間の時間が動き出す。
しかしそれは朝に耳元で叫ばれて目覚めたようなきれのなさで、森から飛び立った竜は人っ跳びに集落の中心、頭上まで飛んでしまう。
――速い速い速い、速すぎるって!
慌ててしげみから飛び出し、竜を追いかける。
一歩しげみから出るのと同じタイミングで、どすんと大きな揺れが襲う。
集落に竜が降りた音だ。そして悲鳴、怒号、炎の燃える音。
――待ってくれ、それは人が死ぬんじゃないのか!?
対峙した者はぼろぼろになって消えてしまう。そんな恐怖を抱かせるにあまりある音だった。
これこそが破壊というものなのだと見せつけられ、あいまいだった死と恐怖の予感が現実になる。脅かされるという恐怖に追い立てられていた若者も、叫びに涙と無謀が混じっていた。
「もう十分だ、何故帰らないんだ!」
こんなものを聞かせられたら。ましてやはっきり見せられたなら。戦い、排除することがどれほど愚かな展望だったのか、考えるより先に感じる。
ほんの少し息吹をかけてやって、森に帰らばいいではないか。もしレフォリエならこれで二度と森の平穏を侵そうとはしない。
きっと加減がわからないのだ。だったら自分が教えなければ。
そう一心不乱に走っていたなか、背中に痛みを覚えた。
硬くて、肺から空気が抜けるような衝撃。
産毛がたつ感覚に、反射的に振り返って斧を振り回す。
その柄に手ごたえがあり、柄と刃の重みに回されて振り向く。
いたのは人間の男だった。
「お、お前、レフォリエ、か?」
なんとなく見覚えがあるような気がする。
かつて川で石を拾った子どもかもしれないし、少し年上の少年だったかもしれない。
彼は乾きの苦痛に負けて瞼を閉じることも惜しみ、一直線にレフォリエを見ている。
手に握られていたのは彼の手のひらにすっぽりと収まる大きさの石だ。
「……なるほど、なるほど。石を、投げたのか。わたしに」
事実を確認しただけのはずだった。
だが男の手に血管が浮いたのを見て、迷わず斧の柄で男の頭部を叩く。
開かれた目に映っていたのは、間違えようもない。警戒と恐怖だったからだ。レフォリエと同じだった。
「殺したいんじゃない、生き延びたいだけだ。お前も、わたしも」
そう思っているうちはまだ希望がもてる。
男の首筋に指をそえ、生きていることを確かめる。
無事に意識を奪うことができたのに安堵するのも長続きしなかった。
「やはり妖魔になっていたのか!?」
それを見ていたらしい集落の人間が、また一人傷つけるためのものを持って襲ってくる。
問う声音は理不尽なことに怒りで染められている。その中にレフォリエはわずかな悲嘆を見出し、胸をふさぐ。だからこそ斧で殴るのをためらわない。
騒ぎを聞きつけて、近くにいた人々がレフォリエの方に寄ってくる。
狩りの手伝いをしたついでに狼男にからだの使い方を教えてもらったレフォリエと、戦い方を知らない人々では武器を繰り出す速さも、叩き込む一撃への威力の込め方も違う。
それでも休まず相手がくれば疲労はたまり、動きは鈍くなった。
投げられる石、そらして腕を殴った拳、皮膚をかすめた斧やナイフ。
ひとりひとり確実に気絶させ、ひとつひとつ傷が増えていく。
ようやく人が途切れ、竜の方だけが騒がしくなった。
「休める……ああ、でも、行かなくちゃ……」
身体はたまらず膝をつく。早く竜のもとへいって止めて、帰りたい。そうしないといけない、休むのはその後でいい。叱咤しても肩と太ももの裏が痛くて、喉がはりつくようだった。
移動しなければまた人が来るのではという不安もレフォリエを急かす。
なんとか立ちなおしたレフォリエに、またひとつ声がかかる。
「レフォリエちゃん」
今までと違う、少女の声。
それに今までに心臓が激しく脈打つ。運動した後であるのもあって、壊れてしまいそうだ。
「ココワ?」
記憶のなかにあるより彼女の髪は長く、滑舌もよくなって、よくきょろきょろしていた瞳はしっかりと定まっている。
それでも少女は頷く。
「レフォリエちゃん」
成長したココワはもう一度名を呼んで、近づいてくる。
斧を振るおうか。考えたのに、他と違って少しも腕があがらなかった。
一歩下がっていやいやと首を振る。
ココワは容赦なくそんなレフォリエに近づいて、手をぐっと差し出してきた。
「……これは?」
「お水だよ」
のど乾いてるでしょ?
なんてことないようにココワはいい、ぱっと花咲くように笑う。
あの日と何も変わらない明るさで。
「なんで」
「レフォリエちゃんが出てきたって聞いて、急いで持ってきたんだ。そんな疲れたふうにしちゃって、レフォリエちゃんらしくないよ。大変だったんだね、ごめんね」
皮で作った水筒がたぷんと揺れた。ココワは斧を持っていない方の手に無理矢理水筒を握らせ、飲めというように口もとまで持ち上げた。
押されて口を開き、乾いた部分を湿らせる。すぐには取れないと思っていた疲弊と気力の欠如が蘇ってくる。
「みんな、きっとレフォリエちゃんは妖魔になって、人間の敵になったんだろうっていってた。でも、そんなことないよね。レフォリエちゃんだもの。人間でも、妖魔でも、レフォリエちゃんなんだから」
レフォリエが落ち着いてきたのを確認して、集落の中心を指す。
「《ヴァラール》はあっち。でも、きっと危ないと思う。このまま森に帰れば、きっとこれ以上つらい思いをしなくて済むよ。あたしはそうしてほしい」
「それはできない」
ここまでやってきたものがすべて水の泡にしてしまう。そんな選択をしたらレフォリエは自分が情けない。
まだ何故か優しいココワに戸惑う気持ちはあれど、はっきり即答する。
ココワはその答えを噛みしめるようにこくりこくりと頭を上下させ、眉を下げた。
「うん、やっぱりレフォリエちゃんだ」
あたしを助けてくれたレフォリエちゃんだ。
そういって壊れ物に触れるかのように、ココワはレフォリエを抱きしめた。
ココワの柔らかなからだと暖かな体温が、人間への愛着を呼び覚ましていく。
人間は、ココワは、何も変わっていない。それが無性に嬉しくて、頬を熱いものがこぼれる。
「ココワ?」
「レフォリエちゃんは、きっとあたしたちを助けに来てくれたんでしょう。きっとレフォリエちゃんのすることなら正しいって、あたしは信じる。でも、自分のことも大事にしてくれたら、あたしは嬉しい」
二度、背中を優しく叩かれる。
そして名残惜しげに体が離れた。
――そうか。ココワはわたしを応援してくれるんだ。
彼女は人間で、これからも集落の一員として残り続ける。
ココワにとって、レフォリエが森と妖魔が大事なくらい、それらは大事なのだろう。
レフォリエは最後に、ぎゅっとココワの指先を握った。
この暖かさをずっと胸のなかに抱えていきたいと願った。
「行ってくる」
「気を付けてね」
「ココワもな。頼むから、長生きしろよ」
人間の友に背を向け、レフォリエは再び走り出す。何度でも。