第十話 裏切り者三匹
つるりとした表面が美しい陶器のティーカップは、グラヘルナお気に入りの食器だった。
二代目女王の腹心の部下として働いていた頃、女王直々に賜ったものである。
シンプルな白に黄金の線が入った上品なデザインだ。
自分の髪の色に合わせたのだと嬉しそうに言ってきた女王の笑顔を、グラヘルナは今でも思い出せる。
それは椅子に座るメリュジーヌも同じであった。
メリュジーヌは目に長い前髪が垂れるのもかまわず、指の腹でつつとティーカップのふちをなぜている。
「懐かしいだろう。大事にしまっていたものでな、先ほど出してきた」
「物持ちがいいのね」
かつては職務の違いから敬語を使っていたメリュジーヌも七年で随分と砕けた話し方をするようになった。
たびたびレフォリエの様子を話し合うためにこっそり茶会を開いているうちに、距離感が随分縮まったようにメリュジーヌも思う。
それよりずっと前から互いを知っていたというのに、不思議なものだ。
レフォリエについて思い出すたび、メリュジーヌは柔らかに微笑んでしまう。
グラヘルナは物静かなメリュジーヌを見て、彼女の正面の椅子へ落ちるように腰かけた。
足を滑らせるような危なっかしい座り方に苦笑され、グラヘルナはふんと鼻を鳴らす。
そして「そんなことより」と再三の確認を行う。
「いいのか。助けられるのはこれきりになるぞ」
「いいのよ。多分、いつか全く言うことを聞いてくれなくなるのもわかったもの。いいとか悪いとかじゃなくて、わたくしやヴァラールが望んだような生き方があの子の望む生き方と違うというだけで」
はっきりとした答えにグラヘルナは唸った。
ティーカップを優しく包む細い指を見やる。しっかりとティーカップを抱えた掌はやはり落ち着き払っていて、メリュジーヌの決意もまたかたいことを示していた。
三人で森に逃げてきたときとは、随分違うことを望んでいるにも関わらず、である。
それが魔女にはなんとも不思議だった。
「変わったか? いや、まさか妖魔になった後で?」
「ええ。『あの子が幸せになれる道を』。この七年で、こちらの方がそうなのだろうと思ったのです。わたくしはあの子の背を押します。何も変わっていません」
なるほど。納得はしていないが、理解はできた。
グラヘルナは魔女だ。願い事をかなえてほしいとやってくるものに偽りがないのなら、拒むことは難しい。
「わかった。お前の献身に見合うだけの仕事をする」
グラヘルナの返事をきいて、ようやくメリュジーヌはティーカップの中身に口をつける。
ゆっくりと舌の上で転がすように味わい、背もたれに体重を預けた。
ゆるゆると息を吐き、一瞬疲れがふきでたように遠い目をする。
その姿はひどくくたびれて、美しい。愛するもののために尽くす女の美貌だった。
メリュジーヌはもう一口、二口と暖かな飲み物を細い喉に落とすと、軽くグラヘルナを睨む。
悪意はない。長い間隠し続けた憤懣をこの期に晴らしてしまおうという時の目だった。
かつてメリュジーヌが召使として、グラヘルナが学者として働いていた時も、自分を見る目に無頓着なグラヘルナによく同じ目を向けていたものだった。
どうしてそんなことをするのか、理由を言わねばわからないではないかと。
「何故貴女の魔術を使ってあげないの」
「自分の身で成し遂げるための武器をやるのにぴったりな代償がなかった。だからすべて差し出したならそれに見合うことはしてやろうとしたさ。ま、それもまたお前が台無しにしようとしているがね」
質問の内容は、二代目のためのものからレフォリエのためのものになっているのが違う点だ。
懐かしさにフードをとった目を細め、悠々と茶を飲む。
グラヘルナにとっては自明のことだが、メリュジーヌにとってはそうではない。
「あの方なら……ヴァラールなら死にはしないでしょう」
かつての――メリュジーヌにとっては今も――仲間の痛みを放置する発言に、自分でいっておきながら美しい相貌を歪ませる。
一方、グラヘルナはメリュジーヌの機微を軽々と笑い飛ばす。
「ああ! 勿論! 女王や《御使い》ならともかく、人間じゃあ痛みを感じさせるまでで殺すのは無理だろうね。でもそういうんじゃあない」
どうしてそこまでレフォリエが竜にこだわるのか、メリュジーヌにもグラヘルナにもまったく予想外のことだった。
しかしグラヘルナは、子どもの心というものは時に大人の知恵よりずっと早く簡単に求める答えにたどり着くことがあると知っている。子どもはみな天才で、狂人だ。
面倒見のいい友人に、魔女は言い聞かせる。それがグラヘルナなりの誠意だ。
「あの子はヴァラールを救いたい。もうレフォリエにとって彼はおとぎ話の存在:《ヴァラール》じゃなくて、ひとりぼっちの生き物:ヴァラールだ。あの子は孤独が嫌なものだと思ってる。そう教えてくれたのはお前じゃないか」
「そう、だけれど。人だって我が身可愛さに脅威から遠ざかるのに、妖魔を助けようとするのかしら」
「それも知っているくせに。過保護は美しい花の根も腐らせるぞ」
いつものように軽口をたたけば、きっと睨みあげられた。
常の親愛交じりの怒りではなく、純粋な憤怒。穏やかなメリュジーヌの地雷を踏んだと気づく前に、メリュジーヌの悲嘆が燃え上がる。
「貴女にはきっとわからないでしょう。わたくしは、皆がどんなに悪しざまに行ってもあの方の無邪気な笑顔が好きだった。純粋で、無垢で、愛らしくて。あの方を人々は夢見がちな少女だと称した。だから子どもが育てたかったの。ずっと、ずっと」
炎が激しく盛ったのは一呼吸の間。一気にあふれ出るだけの毒をはいて、水をかけられたように冷静を取り戻していく。
たたきつけられた鋭さは見る間に錆び、すすり泣きが混じる。
「なのにようやくというところで三代目が現れて。止むを得ず逃げた先で育てようと心に決めた日から、妖魔になっていってしまった。愛すれば愛するほど妖魔になっていって絶望すらしたわ。あの子に幸せになって欲しくて人間に預けて……諦めていたのに、ようやく会えたわたくしの気持ちが……」
古い思い出が蘇る。耐えきれなくなったメリュジーヌは叱咤とともに己の顔を覆った。
興奮に揺れた髪が完全に静止するだけの時間を要して、弱弱しい謝罪を絞り出す。
「ごめんなさい」
「勝手に謝るな。気持ちはわかっている」
メリュジーヌのカップに中身をつぎたして、ひらひら手を振って見せた。
それ以上何を話していいのかわからないメリュジーヌは黙り込む。
あとはするべきことをするのを待つつもりだった。
刻一刻と別れが近づくのを感じて、グラヘルナはそっと窓の外を見る。地下の窓は地上と比べれば随分殺風景だ。黒々とした岩、星代わりの貴石の輝き。その色にこの場にいない三人目を想起した。
「まあ、なんだ。ヴァラールだって生半可に折れはしない。意固地なやつだ。そのせいで竜になった。馬鹿だったよ。お前や私と三人で似た者同士だった。妖魔にまでなったあいつのそれに踏みいろうというのなら、なんにせよ魔法がいる」
「あの子も妖魔になるのかしら」
「さあ。人生で何度も魔法を使えるような人間は多くないからね。妖魔と一緒に穏やかに何事もなく暮らしてちっとも変わらないんだから、芽はありそうだが。今回でどっちに転ぶか」
そろそろ地上では夜になる。
ヴァラールが仕掛けるとするならば、これからだ。森にしかけた網のような魔術には、森を守るために人間を脅かそうというヴァラールの感情が引っかかっている。
陸の人間は戦いになれていない。グラヘルナはそこまで此度のことを悲観していなかった。
それでも、レフォリエがもし突き進み、なお人間のままであったなら。その先にはかつて自分が予想したように試練が待っているに違いない。
メリュジーヌが払おうとしている代償は、その未来に対する願いの支払いも含まれていた。
グラヘルナはローブのすそを引きずりながら壁に近づく。そこにたてかけられているのは、日頃から作り、備え、蓄えてきた魔道具たちである。
おおむね自分のために作ったものであるが、なかにはいずれ来る日のためにこさえたものもあった。
グラヘルナは目的のものを手に取り、メリュジーヌに見せてみせる。
「これでいいんだろ?」
「……てっきり貴女はわたくしたちと違う道を選んだのだと思っていましたわ。なんだかんだ、甘いのね?」
「そう思いたいなら思っておけ。お前が払う代償に、それぐらいのおまけは見合う」
メリュジーヌが驚きに目を見開くのも無理もない。
それは人間の頃から魔術に傾倒していたグラヘルナと違い、その方面への知識が浅いメリュジーヌでも一目で特別とわかるものだった。
グラヘルナが掲げたのは繊細な装飾の施された戦斧。
その材質はこの世のどんな鉱石や樹木とも異なる。つるりとして、しみひとつなく白く、しなやかで頑丈。レフォリエも地下世界の川の底、泉のなかに這う木の根と同じものであるとすぐにわかるだろう。
そしてメリュジーヌとグラヘルナは、その木の根の正体が何であるかも知っている。
「女神は眠りにつく際、世界を支えるためにすべての大地に根を張る世界樹へ姿を変えた。懐かしいだろう、こいつは昔私たちがいた城――あの女王のすみかとしてくりぬかれた世界樹の枝を拝借して作った。ハルバードは槍であり斧でもある。槍はそのものの存在を成り立たせるのに不可欠な中心、肝を貫く。斧は神秘の存在であろうとその秘密を分割することで明らかにし、殺すことができる。魔術として組み上げたもので武器として使えるのかはわからんが、あの子ならうまくやるんじゃないか?」
「貴女、いつのまにそんなものをとっていたのよ。ばれていたら懲罰程度では済まなかったわよ」
「いいじゃないか、もう終わったことだろうが! いつか使いたいと思って、人間だった時にこっそりと、な」
安心させようと思ったのに小言を述べるメリュジーヌに頬をふくらます。
背を向けて空中に秘密の文字を描き、魔術を編む。編まれた魔術は光の帯となってハルバードを包み、やがて霧が晴れるように姿を消した。
「贈り物はすぐに届く。レフォリエもまた、彼女が臨む場所へ行くようにした。仕事はしたぞ」
「ありがとう。あとはわたくしがお礼をするだけね」
「私が先払いをするなんて、特別なことだからな」
「わかっていますとも。ほんとうにありがとう。――あの子のこと、よろしく頼むわね」
メリュジーヌは恭しくこうべを垂れる。
冠を脱ぐように額に手を当て、その赤い宝玉に触れた。
血がこぼれる音とともに外されたそれが、震える指で机上に差し出された。
その指先から薄紅の光の糸がほどけ、足元から、頭頂部からも同じように溶けていく。
魔力をため込み、操っていた宝玉を手放したことで、メリュジーヌをつくろっていた魔法が解けだしたのだ。
光が完全にメリュジーヌを囲み、消える頃に表れたのは、美しい緑の女ではなかった。
丸太の如く太い胴でとぐろを巻く。細い舌をちろちろうごめかす。碧の鱗が艶めかしくきらめく、巨大な蛇が鎌首をもたげる。
己より高い位置にある二つの眼が、柔らかに目線をさげ、魔女と見つめあう。
うねる影に覆われた魔女は、そっとその胴に頬を寄せた。